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己のちっぽけさを知ろう

公園にお散歩に行ってきました。厳密には、公園というより庭園ですかね。緑に溢れる空間のなかに、アクセントをつけるように池があったり小川が流れていたりします。涼やかな水の音色と鳥のさえずりが心地よいです。文明社会は、命の危機をもたらす自然の脅威を遠ざけてくれる。逆に、公園などにあるちょっとした自然が、日常や社会の喧騒を忘れさせてくれる。いずれも一長一短だ。自然に癒されるからといって、野山で原始的な暮らしをしたいとは思わない。文明と自然を都合よく使い分ける、いかにも人間らしい思考だ。

庭園内のあちらこちらにモニュメントや石碑がある。散策しながらそれらに目を向けるのも面白い。そんななか、ひときわ荘厳な雰囲気を醸し出しているオブジェがあった。オブジェといっても人工物ではないのだけど。それが珪化木だ。この日記のサムネイルに設定した写真がソレなのだが、木の化石らしい。そして驚くなかれ、僕が見たその珪化木は1700万年前のものだという。1700年ではなく、1700万年。途方もない年月だ。木だとか化石だとか言われると謎に納得してしまう節もあるが、冷静になってくれ。紀元前とか後とかそんなレベルではないのだ。僕たちが学校で学んできた石器時代や古代ローマギリシア時代なんて、つい最近に思えるほどの規模感だろう。そんな想像だにできないほど昔の化石が、今僕の目の前に堂々と聳え立っていることがいかに神秘的か。しかも、貴重な歴史的資料だというのに、屋内でガラスケースの中に厳重に保管されているわけではない。元々そこにあったかのように、園内の一角に野ざらしで設置されている。1700万年もの時を経てきているわけだから、今更ちょっとやそっとの雨風でどうにかなるものではないのかもしれない。その厳然たる風格に圧倒されるのでした。

この珪化木はこれまで何千人、何万人、いやもっと多くの人間を見てきたことでしょう。自分より後に誕生し、そして自分よりはるかに早く老いて朽ち果てる人間たちを。僕がこの珪化木の前に立った時、僕にとってはなかなか衝撃的な出会いでした。人生の大先輩どころの話ではない。けれど、向こうからすれば僕などこれまで見てきた無数の人間たちの1人にすぎない。気がついた頃には死んでいる、というか気がつきすらしない、所詮はその程度のもの。僕が珪化木を眺めていたのはものの10分ほどだったが、己のちっぽけさを痛感するには十分すぎる時間だった。地球の歴史、宇宙の歴史など、さらにスケールの大きな話をされるまでもなく、しかしあるいはそれ以上に、目の前に1700万年もの歴史をもつ存在があるだけで、僕は色々なことがどうでもよくなったのだ。日々鬱々と過ごしてしまうのは、視野が狭くなってしまっていることも原因かもしれません。たまにはこうして自然の雄大さに触れ、マクロな視点を取り戻すことも必要ですね。

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