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にゃるらの背中を追い続けた1年間

そろそろ1年の総括をしておこうと思います。ちょっと気が早いかとも思いましたが、師も走るほど慌ただしい12月ですから、このくらいゆとりを持ってもいいのではないかと。1年は365日もありますから、振り返るといってもさまざまな観点がある。そこで今回は、僕の今年のオタク活動に焦点を絞りお話しをしていきます。タイトルに書いてあるのでもったいぶる必要もないですね。僕はこの1年弱、にゃるらの背中を追いかけてきた。あ、先に断っておきますと、僕は「にゃるら」を概念として捉えているので、敬称を略すというよりそもそもつけません。ただ、彼に畏怖の念を禁じ得ないということは紛れもない事実です。これが大前提。

恥ずかしながら、僕が彼の存在を知ったのは代表作「NEEDY GIRL OVERDOSE」(以降「ニディガ」)がきっかけだ。インディーゲームですが、発売前から界隈を賑わせていました。リリースは2022年の1月ですから、今から約2年前ですね。発売日に購入、プレイしましたが、当時はあくまでそれっきり。企画者の名前として「にゃるら」を認知はしたものの、それ以上深掘りをすることはなかった。コトの発端はそれから1年後。超てんちゃんの「INTERNET YAMERO」がリリースされた。僕はこの楽曲にとてつもない衝撃を受けた。もちろん、ユーロビート調のアップテンポな前曲「INTERNET OVERDOSE」もポップで可愛らしく、とても完成度が高い。けれど、超てんちゃん、ひいてはあめちゃんの深層心理に1歩踏み込みきれていない印象があった。あくまで病み可愛いがモチーフのアイドルソングのように僕は感じた。けれど、「INTERNET YAMERO」は「病み」のリアリティと解像度を上げ、さらに完成度の高い仕上がりになっていた。僕が思うに、構想期間あわせ数年かけてはいるものの、ニディガの完成時点ではあめちゃんや超てんちゃんのキャラクター像を把握しきれていなかったのではないか。もちろん、たっぷりと時間と労力をかけたキャラクターだとは思う。けれど、多くのプレイヤーたちに認知され、2次創作がつくられ愛情を注ぎ込まれ、そこで初めて1キャラクターとして立体感が生まれ完成形に近づいたような気がします。開発陣の手元を離れ、1人立ちしたあめちゃん・超てんちゃんを遠巻きに観察したからこそ、「INTERNET YAMERO」が深みある出来栄えになったのだと踏んでいます。

僕が「INTERNET YAMERO」を聴いて惚れ込んだ部分は「あんなにおそろしい乱れたインターネットから この雪みたいに美しい毒電波がきたんだよ」という歌詞だ。今こうして文字に打つだけで鳥肌が立ってしまう。ご存じ宮沢賢治の『永訣の朝』より「あんな おそろしい みだれた そらから この うつくしい 雪が きたのだ」からの引用ですね。しかも、この歌詞の部分はそれまでのハードコア・テクノから逸脱し、ピアノソロの哀しくも美しい旋律が奏でられている。このギャップに加え、賢治の詩をオマージュしたリリック、たまらないに決まってるじゃないですか。僕は小学生の頃に『やまなし』に魅了されてから宮沢賢治が大好きなので、「この歌詞かいた奴はヤヴァイ」と電流が走りました。初めて聴いた時は気が動転するかと思いましたし、今でもこの歌詞の部分を聴くたびに涙腺が緩みます。ちなみに僕はにゃるらと同じ1994年生まれで、彼は早生まれなので学年こそ違えど同い年。物心ついた頃からインターネットに触れ青春を捧げてきた同志ですから、ネットカルチャーを踏襲したオマージュやパロディの手法はドストライクなのです。にゃるらは「賢治の詩はインターネットと対称的だ」みたいなことを言っていた気がするのですが、解釈一致というやつです。にもかかわらず、こんなネット濃いめ多めネットマシマシな楽曲の歌詞に賢治の詩をミックスするセンス。気持ち悪すぎて大好きだ。

「INTERNET YAMERO」にハマってからというもの、にゃるら本人に強烈な関心を抱いた僕は、彼のことをもっと知りたくなった。彼の書くnoteは毎日読み、自分もこうして同じように毎日noteを書き真似事をしている。にゃるらは気まぐれでXのスペース、インスタライブ、最近だとYouTubeでの雑談配信をしていて、アーカイブがあるものはチェックしています。彼の著書『僕はにゃるらになってしまった』も買いました。ほぼ彼のnoteに書いてある内容なのですが、商業誌を購入したほうが彼の活動の一助となるでしょう。というのはイキった言い訳。喫煙者が、自分達の欲求を棚に上げて「俺たちは高額納税者なんだぞ」とのたまうのと同じだ。本当のところ、にゃるらを実体として感じられるものを手元に置いておきたかった。デジタルにはない、アナログの魅力。

これほど手放しでにゃるらを賞賛していると、ただの信者だと思われてしまいそうだ。事実、いっとき僕もそうなりかけたことがあった。たまにあるんですよ。日常生活に支障を来たすレベルで病的にハマってしまうコンテンツが。今回のにゃるらもそうだった。僕は経験則から、こういう時の対処法を知っている。劇薬ではあるのだが、アンチスレを見るのだ。それもなるべく強烈なやつを。自分のイきすぎた狂った愛と、アンチスレのおぞましい憎悪とをかけ合わせ相殺するのです。一歩間違えると自分がアンチに転身してしまうリスクもあるのですが、まあまあ効果的なのでよく使う手法です。かくして冷静さを取り戻した僕は、純粋なにゃるらファンへと昇華されたのです。すばらしい。

長年ネットをやってきて、いろんなコミュニティに所属したり色んなネット有名人たちを見てきましたが、にゃるらは僕にとって新鮮なタイプだった。それこそ伊集院光や岡田斗司夫みたいな、いわゆるオタク第1世代や第2世代みたいな人は、僕が小中の頃から一線で活躍しています。これがオタクか、これが自分たちの行き着く先なのかと思いながらオタクしてきた。けれど、にゃるらは彼らと全く異なるタイプのオタク。ロボットや特撮だけでなく、ニチアサやエロゲー、美少女や萌えが大好きなのではありませんか。これが僕ら世代のオタクなのだろう、そう思った。ニュータイプだ。僕が今まで見てきたのは、かつてのオタク像を模倣しようとしたジュニア的なオタクだった。けれど、にゃるらはインターネットや萌えなど次世代のサブカルチャー文化を吸収し肥えに肥えたニュー・オタクだったのだ!僕がこれから目指していくのはこれだなと確信しました。もちろん、僕らより若い世代はまた違った価値観、趣味嗜好を持ったオタクが生まれるのでしょう。であれば、僕たちは僕たちの世代色をぞんぶんに発揮したオタクでありたい。これほど褒め称えてはいるけれど、僕とにゃるらは趣味がだいぶ違う。好きな女性キャラのタイプも違いそうだし、彼の愛読書がドストエフスキー『地下室の手記』なのに対し僕はサン=テグジュペリ『星の王子さま』だし。そのほか色々。けれど、オタク観がかなり近いのでしょう。そう感じますし、だから惹かれるのでしょう。語り出すとキリがないので、一旦このくらいで。

驚いたことに、僕のnoteをフォローして読んでくださっている人の大半がにゃるらをフォローしているんですよね。同じ匂いを嗅ぎつけてきてくれたのであれば光栄です。しかし、僕はこのnoteのアカウントでは誰もフォローしていません。一体どのようにしてにゃるらの読者がここにたどり着いたのでしょうか。数名のにゃるら読者が僕のことをフォローすれば、また別のにゃるら読者に関連記事として僕の日記がおすすめされるでしょうが、ファーストペンギンのいきさつを知りたい。まあ、真相は闇の中です。運命という言葉で片付けさせてください。どんなに僕がにゃるらを追いかけても、僕がにゃるらになることはない。限りなく近づいたとて、結局それは劣化版にゃるらだ。そうならぬよう、僕は僕で自身のオリジナリティを持ってオタクしていきたいと思っています。わずかながらにいる読者の方にも、ジェネリックにゃるらではなく、あるのを楽しんでいただきたいのです。

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