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幻想的空想的妄想的ジブリ解釈はじめました(ジブリの秘密)8

『となりのトトロ』の謎 〜その7・最終回〜
 (最後の部分を改訂しました)

【このシリーズは、すでに視聴されている方を対象としています。今回は少し長くなります。ご容赦ください。

謝辞:ヒデちゃん、カズくん、二人の協力がなければ、ここまで来れたかどうか分かりません。本当にありがとう。また、30年前の娘に感謝。あなたの好奇心と集中力のおかげで、トトロに、そしてその後のジブリ作品に出会えました。】

①『となりのトトロ』の「となり」とはどういう意味か。
②「トトロ」という名前は誰がつけたのか。
③時々人の声が画面で聴こえなくなるのはなぜか。
④ネコバスの「病院」の字が「●」と違っていたが、なぜか。
⑤なぜサツキちゃんとメイちゃんは病院に行ったのにお母さんに会わなかったのか。
⑥ネコバスの「病院」の字が「●」と違っているのにサツキちゃんは気がついたか。気がついたとしたらなぜ何も言わないのか。

 今回は、いよいよ最後の謎です。ラストスパートです。

⑥ネコバスの「病院」の字が「●」と違っているのにサツキちゃんは気がついたか。気がついたとしたらなぜ何も言わないのか。

 はじめ、この謎を見た人は、どうでもいい問題なのではないか、何でこんなことを話題にするんだろうと感じたかもしれません。そんなこと、謎でもなんでもないようにアニメを見ることができるからです。

 それでも、何度も見ているうちに、この場面とその後のサツキちゃんを見ていて、なんとも言えない気分になったものです(私がおかしいのかもしれませんが)。

 サツキちゃんは、「病院」の字の違いに気がついたでしょうか? ネコバスの「病院」の字の一番そばにいたのは、サツキちゃんとメイちゃんです。メイちゃんは、まだ漢字が読めないかもしれません。行先表示器を見て、サツキちゃんは、「病院」に行くということが分かりました。その時に、この「院」の字の間違いに気がついたのでしょうか。なんとも気になるのです。

 一番近くにいたのですから、そして見ようと思えば何度でも見ることができるのですから、気がついたと考える方が自然です。気づいたに違いありません。よく想像してみてください。皆さんがバスの前にいたとします。行先表示器は目の前です。何度でも確認できます。気づかない方が不自然です。だから、サツキちゃんは気づいていたと考える方が自然です。

 しかし、その時の場面やその後の画面を見ていても、サツキちゃんはそのことには全然触れていません。ハッとして気づいた様子も見せていません。ということは、サツキちゃんは気づいていない、と見る方が自然です。気づいていたのなら、アニメの中でそれらしい表情や態度をするはずです。ちなみに、行先表示器のそばにいるネズミさんは、気がついたように、ハッとなっていました(1時間21分49秒後)。だから、サツキちゃんは気づいていなかったと思われます。(アニメの中に現れていないから、サツキちゃんは気づいていない、という考え方は一面的かもしれません。前回の謎の部分で、サツキちゃんとメイちゃんがお母さんに会う場面がなかったから、お母さんに会わなかった、という話は安直である、会う場面を見せる必要がなかっただけだ、というような考え方も可能かと思います。ただこのシリーズは、できる限り、その問題となる場面と、それ以外の映像だけを材料にして、何が考えられるのか、というスタイルで解釈を進めています。ですから、お母さんに会っていたかどうかという話ももう少し検討する余地があり、最後にもう一度この話題に触れたいと思います。)

 いったいどちらなのでしょうか。どちらか一方を考えている時、そちらが正解のように見えます。しかし、もう一方を考えてみると、そちらが正解に思えます。そんなことを繰り返しているうちに、もしかすると、そもそも、どちらかが正解だ、と考えるような考え方がおかしいのかもしれないと思えてしまいます。

 と言いますのも、「『となりのトトロ』の謎 〜その1〜」の回で紹介しましたように、このアニメは、小さい子から高齢者に至るまで集中して映像を見て、このアニメの世界に入り込んでしまうような特別な作品であると思われるからです。あさのあつこさんの話だけではなく、私自身も、5歳の娘と一緒に見ただけではなく、60も半ばすぎの父と一緒に、アニメの中に出てくる場面の話をあれこれしながら、見ることがあったのです。あさのあつこさんの話をもう一度引用してみましょう。

「最初に『となりのトトロ』を見たときも、二度目に見たときも、三度目に見たときも感じた。今回は何度目だろう。ストーリーはもちろん、印象的なシーンもほとんど記憶しているはずなのに、夢中で見入っていた。わたしだけではない。二歳の孫も、その母親である二十代の娘も、六十をとっくに超えた夫もみな、ほとんど動かず、しゃべらず、画面に目を向けていた。」(『ジブリの教科書3 となりのトトロ』文春文庫、pp.8-9)

 小さな子どもがこの場面を見て、今回取り扱った6番目の謎を考えるでしょうか。その子にとっては、字の間違いなど、どうでもいいように思います。そして、子どもたちのこのようなアニメの見方は、それでいいのではないでしょうか。(子どもたちにも、いろいろな年齢の段階でさまざまな見方があり、それぞれにきっと特別な世界を作り出しているはずです。)

 ただ、もし字の間違いに(不幸にして?)気づいてしまった人は、少し考えてみてください。いろいろと考えてみて、自分なりに空想の世界を作り出してみてください。きっと、楽しい世界が出来上がりますよ、と言われているみたいに感じます。あなたの空想の世界をより豊かに作り出すように、この『となりのトトロ』という作品はさまざまな材料を準備しているように思うのです。

 サツキちゃんの場合は、字の間違いに気がついたとしても、問題にしなくていいですよ、という意味なのでしょうか。気がつかなかった、というふうに考えてもいいですよ、と言っているのでしょうか。「もし視聴者の皆さんが気がついたら、考えてみてください、気がつかなかったら、それはそれでいいですよ」と言っているみたいです。

 このような見方は、これまでにはなかなか考えられないものでした。つまり、

「サツキちゃんは気がついた」という答えと、

「サツキちゃんは気がつかなかった」という答えが

両方とも正解であるということなのです。通常は、どちらかが正解なのですが、このアニメでは、どちらも正解のように思われるのです。(サツキちゃんは気がついた、という世界に入った方は、なぜ字の間違いにサツキちゃんが何も言わなかったのか、想像してみましょう。いろいろな理由が考えられると思います。その想像が新しいトトロの世界を作り出してくれるはずです。気がつかなかった、という世界では、何も言わないのは自然です。その世界もまたトトロの世界であると思います。どちらの世界でも、想像できることがこのアニメの世界と違和感がないようでしたら、それはそれでいいのではないかと思うのです。)

 すでに、サツキちゃんとメイちゃんはお母さんに病院で会ったのか、それとも会わなかったのか、というお話をしました。普通は、どちらかが正しい、というふうに考えるのではないでしょうか。しかし、この『となりのトトロ』というアニメの中では、映像を見る限り、お母さんに会っていないけれど安心して帰った、いや画面にはなかったけれど、あんなに安心しているのは、実際は会って帰ったからだ、というどちらの考えも肯定されているように思われます。どちらをとっても不自然ではないからです。

(誤解されると困りますので、一言述べさせていただきたいのですが、これは、何でもいい、ということではありません。世界を作る材料は、アニメの中に探す必要があると思います。アニメの中の材料を組み立てて作られていれば、その世界は多様であっても構わないのです。いろいろな世界の作成が許される作品というのは、文学などでもあるかもしれません。しかし、先に述べましたように、二つの相反する解釈が成立するような、そんな作品は、そう多くはないと思います。いや、私は他に出会ったことがないような気がします。)

 これまでの謎の話を振り返りますと、すべてが結びついているように感じます。「となり」という言葉を小さな子どもの視点から見ても、また大人の視点から見ても、どちらでもいい解釈や世界が現れてきます。また、声が聞こえなくなった場面の話でも、緊張感であったり、作画技法であったり、トトロの世界への入り口であったりと、いろいろな解釈が成り立ち、そのどれもが認められるように思うのです。

 この『となりのトトロ』という作品は、「トトロ」という間違った名前が正しい名前になり、いやタイトルにすらなり、いろいろな解釈や正反対の解釈がともに正しい解釈になる、いい意味でおそるべき作品なのではないでしょうか。子どもたちは楽しい冒険と可愛らしい人形のような妖精の世界を夢見、成人は謎に満ちたアニメの世界を迷い、高齢者は懐かしい昔の場面を思い出すことができる作品のようです。それはまるでユートピアの世界です。いろいろな立場の人たちが、そして、いろいろな世代の人たちがこのアニメの理解の世界を多様に多彩に作り上げることができる、そんな作品に思えます。あさのあつこさんがこの作品を「大いなる肯定の物語」と形容されたのも、むべなるかな、と思うのです。

 ここまで、ご清聴、いや、ご清読、ありがとうございました。

〜『となりのトトロ』の謎・終わり〜

(次回は、『On Your Mark』という短編アニメの幻想的空想的妄想的解釈を予定しております。)

【おまけの謎・その1】
 なかなか入手することができないのですが、会場で購入する『となりのトトロ』のパンフレットの表紙の絵が謎です。このシリーズで紹介しました文春文庫の『ジブリの教科書3 となりのトトロ』の表紙にも同じ絵が使われています。この絵は、このアニメには登場していません。(この表紙の絵は、アマゾンなどで検索すると見ることができます。)
 いや、その場面、あったじゃない、と思った方、もう一度、アニメのシーンとこの表紙の絵を比較してみてください。違うでしょう?
 この絵の由来につながるような話は、プロデューサーの鈴木敏夫さんがあちらこちらで書いているようですが、問題はなぜこのアニメにないシーンをパンフレットや本の表紙に採用したのか、ということです。
 これについては、考える材料があまりありません。自由に妄想を膨らませていいよ、と言っているみたいです。皆さん、どんな世界を作り出すのでしょうか。楽しみですね。
【おまけの謎・その2】
 ネコバスの窓の謎。ネコバスの最後尾にある窓は、一つになったり二つになったりしています。ネコバスが初めて登場している場面で、最初は一つですが、去っていくときは二つになっています。また、アニメの最後に、サツキちゃんとメイちゃんがネコバスに乗って帰って行く時にも、二つになっています。さて、なぜなんでしょう? いろいろと想像してみましょう。
【おまけ・その3】
 『となりのトトロ』という作品の位置づけは、宮崎駿監督が『もののけ姫』を作ったことで、おぼろげながら理解できるような気がしています。もしかするとですが、この作品は、『もののけ姫』と『風の谷のナウシカ』の中間のユートピアなのではないでしょうか。『もののけ姫』では、武器という技術を人間が進歩させ、効率的に世界を支配していく世界を描いているようで、その支配世界は、神が存在する自然にまで及んでいきます。そして、人間は、自然の神を殺し、自然を功利的に支配できるようになっていきます。その行き着く先は、『風の谷のナウシカ』の自然に逆襲される世界です。植物や昆虫は、功利的な人間の世界では利用したり支配したりできるものですが、ナウシカの世界では、(技術の化身である巨神兵も昆虫たちの逆襲を助長し)最終的には人間の生存を脅かす存在です。その二つの作品の中間で、人間と自然が融和的な関係にあるユートピアのような世界が『となりのトトロ』において描かれているように感じるのです。ここでは、(トトロたちの与えてくれる)自然の恵みも、人間(特に、子どもたち)の想像力も、一瞬かもしれませんが、私たちの希望を作り、支えてくれています。人間も捨てたものではない、と。

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