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第60葉, 言葉のはやさとか 手放す事とか

どうも、yasu59 です。黄色いモンシロチョウが飛んでいるのを見かけました。やっとこさ 春、ですかね。

先日の古本市の話をもう少しだけ。その古本市では、知人が絵の展示をしていました。以前から何度か その方の作品を拝見したり 話をさせてもらったりする機会があったのですが、今回は 特に「しっかりと話ができたな」という確信めいたものがありました。

思考の過程を絵で表現する、というより「描きながら思索や疑問を深める」という印象を 話していて受けました。 表現したい / 描きたいモノありきではない事に驚いたというか… 純粋に そんな描き方があるんだなぁと、新鮮な感慨がありました。それから、”作品や絵を 解放する / 手放す" という言葉遣いをされていた事もまた すごく印象的でした。

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度々 引用させて頂いているのが、荒井裕樹さんの言葉。何を隠そう(⁈)、荒井さんは 第15回「わたくし、つまりNobody賞」を受賞されています。その受賞スピーチの全文が 柏書房のwebマガジン(note)に掲載されていました。いや〜、ありがたい限りですね。以下、そこから引用

現代社会は、言葉が速すぎるようにも思います。速すぎる言葉は、往々にして編み目が粗い。粗い編み目から一人一人の存在が、ぽろぽろとこぼれ落ちているように思えてなりません。

https://note.com/kashiwashobho/n/na774b3cc2cfe , 受賞講演「言葉の網目で個をつつむ」より

自分以外の他人や、その人生について書くことの責任(のようなもの)について言及して、”5年くらい取材したり、対話を重ねたり、勉強をさせてもらったりすると、なんとか責任が持てるような言葉を綴れる” 気がする とも言われていました。

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はやい言葉とは どんなものだろうか?
勿論、変遷の早さ や 結論づけるまでの速度感だけではないと思う。大きい主語で束ねる、(僅かばかりでも見返りを求めて)期待する、相対主義的、「人権」の枠の身勝手な調節、喧嘩腰の袋叩き、、、

はやい言葉の文脈では、”尊い個人へのいとしさ” が蔑ろにされている。
如何にそれらを言葉で表現できるか、に尽力されている氏と 蟹ブックス店主の花田菜々子さんとの対話の中から、また 引用させてもらう。

私はいちおう言葉を職業としている人間なので、この社会に「どういう言葉を残していけるか」ということをよく考えます。苦しくない言葉のバリエーションを増やし、いろんなところに残しておきたい、というのが、自分の中にあるんです。

花田菜々子 著, 「モヤ対談」(小学館), p.152 より

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耳を洗う、という言い回しが好きです。確か 良寛の言葉だったと記憶しています。(言わずもがな、物理的にではなく… 耳を洗って)じっくりと耳を傾ける、そうして ゆっくり紡がれた言葉たち。そんな言葉たちを手放して、至るところに 降り積もらせてゆく。

耳を洗って、言葉を洗う。
はやいコトバが幅を利かせている社会の風潮へ抗うには、そうやって徐々に… 徐々にでもいいから、”苦しくない言葉” たちを循環させていく しかないと思う。

ー筆おきー


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