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第52葉, 主体者とか 自己肯定感とか

うっせぇ、ボケ って言って、逃げろ!!
その逃げは、自分にとっては前進。
自分が決めた方が前、っていう頑なさ。

言語化する。
→ 呪いを解くことの一歩目。

首の皮一枚分。騙し騙し、淡々と
騙し騙しの列車からは早く降りた方がいい。
自分が満たされて幸せでいい。
「なんか違う」を大切に。

無感情に。
ずっと働いてもらえるチャンスを、みすみす逃す。
ただただ、相手が無能なのだ、と。

ーーー

上記は、昨年の8月末に noteの下書きに書いておいた メモだ。
うん、なかなかに… 刺々しい言葉も散見されますね笑

今日は すごく良い事があった、新しい気づきだ。

今まで何度か、このブログで ”自己肯定感” には触れたことがあった。
そこで、自分の知人は yasu59 に対して
「生来 自分が自己肯定感が高い方の人間だから。」こそ
" 別に肯定しようとしなかろうと、自分は自分 "と思えるんだと話してくれた
と、そういう旨のことを書いていたと思う。

でも、どうやら 違うらしいんです笑
自分は 自己肯定感ゼロの人間とのこと。
うーむ、、、悲しいかな。しかしながら、自分の生育歴的なのを冷静に
振り返ってみると、自己肯定感が爆アガりするような出来事は皆無でした笑

そう、優しく(?) 言ってくれる人たちがいるの 有難いですねぇ

同時に、その中のひとりで
「 yasu59は、主体者意識が強いのかも」と言ってくれる人がいました。
自己肯定感ゼロだけど、主体者意識は割と強い
そう表現された方が、自分としては 何だかしっくりくる気がします。

” 精神の強靭さ " と " 脆さ "、その二律背反性
バランスというべきか、、、
強く(?)あろうとする故の危うさ、と 生活のバランス …

社会的な不正義 や 個々人が日々感じてしまう種々の生きづらさ
それらに対して怒号を上げるのは、立派というか…
かけがえのない事だと思う。

でも、どんな状態にあっても 生活というものは
待ったなしに続く / 続いていってしまうのだ。
だからといって 生活に係る日々の営みを誰かに任せっきりにする、
その役割を他者に全振りしてしまうのは、違うと思う。

社会的不正義に対して 怒号を上げるという過程において、
誰かに依存し、誰かを搾取するような事はあってはいけない。
でないと、説得力のようなものが 地に堕ちてしまう。
故に、そのバランスはすごく難しいのだ。

だからこそ… (無理のないよう) 頑張れ、自分。
その手始めに、今日 お薦めしてもらった
『言葉はいのちを救えるか? 生と死、ケアの現場から』
( 岩永直子 著, 晶文社 )を 買って読んでみようと思う。

どこになら、現物が置いてあるだろうか〜
読むのが楽しみだ。

ー筆おきー


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