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浅野大輝インタビュー「言葉を超えて出会いたい」前編

あの人に聞いてみたい、「書く」ことの話。
今回は、気鋭の歌人・浅野大輝さんを訪ねて、まだ雪の残る仙台へ。浅野さんが設立した東北大学短歌会の歌会にもおじゃまし、詩歌の言葉に触れてきました。
※この記事は、2018年5月1日にstoneのWebサイトで公開されたものです。内容・プロフィールは取材当時のものです。

Photographs by Riko Okaniwa
Text by Rui Maruyama

浅野大輝
1994年、秋田県能代市生まれ。2009年、作歌を開始。2012年、東北大学短歌会を設立。2013年、「さみしがりやの生態系」30首で歌壇賞最終候補。2015年、「氷雨」30首で塔短歌会新人賞次席。同年より全国高校生短歌大会(短歌甲子園)審査員を担当。2018年現在、塔短歌会所属。短歌同人誌「かるでら」「かんざし」「Tri」参加。旧仮名。
@ashnoa

二度目の出会いで、のめり込んだ

短歌との出会いは、本当にたまたま。高校で入った文芸部の先輩に「短歌甲子園 ※1 に出てみない?」と誘われたのがきっかけです。短歌は基本的に「だいたい三十一音であればいい」というくらいの決まりしかないのですが、それでいて奥が深く、だんだんと惹かれていきました。でも、本当の意味で短歌と「出会った」のは、大学に入ってから。笹井宏之さんの歌集『えーえんとくちから』を読んで、衝撃を受けたんです。たとえば、 “「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい” のような一首。「短歌ってこんなこともできるんだ!」と感じて、よりのめり込んでいきました。

笹井さんの歌の魅力のひとつは、言葉遣いがとてもやわらかいこと。言葉に無理をさせていなくて、流れがすっと通っている。それなのに、読んでいて頭がくらくらするほどの詩的強度や広がりがある。そのギャップに魅了されました。「自分でもこんな短歌をつくりたい」と思ったんです。ちょうど全国的に学生短歌会が盛り上がっていた時期でしたが、東北近辺にはそういう場所がなかった。そこで「ないなら、自分がはじめよう」と、東北大学短歌会を立ち上げました。

※1 岩手県盛岡市が主催する「全国高校生短歌大会」の通称。

「共鳴」することで歌が生まれる

歌をつくるときは、「共鳴」を意識しています。短歌は、「わたし」が基本の詩形ですが、その「わたし」は「あなた」がいないと成り立たない。他者や外界とのあいだで生まれるものや、言葉にしてはじめてわかることを大切にしています。僕自身は「短歌で表現したいこと」が明確にあるタイプではないんです。でも、言葉にしてみることで、そこからあたらしく考えはじめることができる。ある言葉が浮かんだら、口に出したり、関連するイメージを探ったりしながら、その言葉と何度も出会うようにしています。「この言葉は何を教えてくれているんだろう?」ということを読み取りたいんです。そうすると、そこに至る言葉の流れがパッと浮かんできたりする。

短歌をつくっているというより、短歌と出会っているような感覚です。一人でつくっているけど、一人じゃない。定型というのも、とてもいいシステムだと思います。遠い昔から洗練されてきた「他者」として定型があり、それと対話することで、自分を超えた表現が生まれてくる。言葉にすることで、思いがけない自分に出会えるんです。

短歌は「歌」なので、やはり気持ちよく、おもしろいリズムであってほしい。たとえば『万葉集』などは、声に出した方が絶対おもしろいんです。活字文化以前の歌は、音を意識して楽しむと、よりあらたな発見がある気がします。人から好きだと言ってもらえる自分の短歌も、口にしたくなるものが多いかもしれません。「日本列島へし折れよ」とか(笑)。
それから “花で殴る それを感情だといへばぼくらがなんども負ける初夏” は、愛唱されているなと感じます。上句の「花で殴る」が6音なので、かっちり定型にはまっている歌ではないんです。でも、「はなで・なぐる」が3音ずつだから、3連符が2回入るようなトントンというリズムで読める。そういう音の操作が独特の速度を生んで、好んでもらっているのかもしれません。好きな歌は他人の歌も、自分の歌も、何度も口ずさんでしまいます。

「光」を求めてしまう理由

僕の短歌には、よく「光」が出てきます。まわりに「光っていたら浅野の歌だ」と言われるくらい(笑)。あらためて考えてみると、秋田県で生まれ育ったのが影響しているのかもしれません。秋田って日照時間が短いから、暗いんです。とくに冬は晴れ間が少なくて、灰色の空がずっと続く。でもときどき、雪なのに晴れている日があって、きらきらしてすごくきれいなんです。そういう、寒い地方特有の気象や風景にとても愛着があります。「光」や「明るさ」に惹かれるのも、そのせいかもしれません。「光=よきもの」としてインプットされている。

最近発表した連作「幻肢」(角川『短歌』2018年2月号)のうちの “生き延びるためにうしなふあかるさよ冬木にあまたの幻肢はゆらぐ” という一首は、ちょうどこのBOOOK ※2 の前の小径を歩いているときにつくりました。木々を眺めながら、ふと、フレーズが浮かんだんです。この歌は「生き延びることで明るさを失う」のか、「生き延びるために失うことが明るい」のか、どちらとも解釈が可能です。ただ、なんとなく、僕の短歌から「光」が消えることはないような気がしています。たとえ真っ暗闇を詠んだとしても、逆説的に「光」を感じるものになってしまうと思うんです。

※2 東北大学 青葉山東キャンパス内のブックカフェ

すべての言葉は詩になる可能性がある

どんな言葉も、本質的には詩になると思っています。ただ、まだ使い方が発見されていなかったり、文体によっては合わなかったりする言葉もあるかもしれません。たとえば、文語の短歌に「インスタグラム」を使うにはそれなりに工夫が要るし、口語短歌にいきなり「蛙(かわず)」を使うのは勇気が要る。おそらく使いやすいのは、「光」や「湖」など、今まで何度も詩になってきた言葉なんです。そうした言葉を使って、いわゆる詩歌らしさを目指すのもひとつのよさですが、一方であたらしいものを目指す感覚も必要だと思っています。

たとえば、「ドブネズミ」という言葉は、詩の言葉らしくはないかもしれない。でも、「ドブネズミみたいに美しくなりたい」※3とすると、詩が生まれる。「ドブネズミ=きたない」というオートマティックな解釈をせず、言葉を反転させたり、意味を逸らしたりすることで使い方が増えていく。普段の言葉遣いを超える言葉を探していくことで、だんだんと詩の言葉になっていくんだと思います。俵万智さんが、1985年に「野球ゲーム」※4で大きく取り上げられてから、30年以上が経っています。口語短歌が広まることで、「短歌で言いやすいこと」もまた増えてきている。いろんな言葉が詩になる可能性は、より広がっていると感じています。

※3 THE BLUE HEARTSの楽曲「リンダリンダ」の歌詞の一節
※4 第31回角川短歌賞次席となった作品


後編はこちら


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