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ガラパゴス化再考 〜医師に注意されての身体管理と自己実現

 毎年の定期検診の結果にやや標準値から外れたのが出たので、医師から健康管理を促された。しかし、僅かな外れである。この程度で注意するものなのかと驚いたが、国にしても自治体にしても医療費の抑制をしたいので、怪しそうな芽は早めに摘んでおこうという腹なのだろうと思った。特に私の住む自治体は、首都圏に属するとはいえ、高齢化率の高い所なので、特にこの辺りが細かいのかもしれない。
 ということで、食事の管理と運動をすることにした。実は結構熱中している。ネットで医師が開いているコンテンツを読み漁り、食事のメニューも調べ回った。運動については、基本は先ず歩くことだが、ただ歩くのに直ぐに物足りなさを覚えて、どうせなら近くの山に登ろうと、アウトドアの専門店に行って、割と本格的なトレッキングブーツを買った。
 筋トレも始めた。『プリズナー・トレーニング』という本を手に入れた。これは、アメリカの元囚人が、監獄の中で実践したトレーニング方法が記されたものだ。今の私にはそんな感じのが良い。以前ジムに通っていたこともあるが、今回は内に篭って粛々とやるのが合っている。明るい感じでではなく。
 だが、その暗さを含めて、熱中している。暗さというのは、禁欲的であることだとも言える。勿論、ジムで鍛えるのだって禁欲的だ。私にしても、ジムでトレーニングしては鏡に体を映して、大胸筋がいい感じに張ってきたな、とか、僧帽筋が今一だとかと呟きつつ、体を作る障害になることを避けていた。しかしそれは、自己実現のための禁欲だ。
 前者の禁欲はこれとは違っている。どこが違うかのといえば、医師にやれと言われて起こった所だ。何程のことでもなさそうだが、この違いは大きい。
 前者では他人から直接に呼びかけられている。だから、やる、ということになっている。
 とはいえ、医師は、少し炭水化物を減らしましょう、30分程度のウォーキングをできるだけ毎日続けましょう、としか言っていない。毎日3食の栄養をきっちりと管理せよとも、ハードな筋トレをせよとも言っていない。つまり、こういうことを実践するのは私の判断、私の選択、私の意志によってなのだ。だから、この実践は、医師の手を既にだいぶ離れている。だが、彼の小指の先は、やはり触れ続けていて、それが私を縛る。
 私は、医師である他人の要求に過度に応答しようとしているのだが、これは、他人を私に過剰に浸透させようとすることとも言え、この行き着く所は、私が他人になってしまうことで、実現されるのは自己ではなく他人の方である。ところが、繰り返すが、ここには具体的な他人はもういない。つまり、ここで、全面的に他人に浸透され、他人のみがいるといっても、それは、私が勝手に作り上げた状態なのだ。だが、それでもやはり、他人がこの状態の起点だったという記憶が残り続け、その後の事態の展開を規定している。
 それにしても、客観的な現実を規定するというには、あまりにも縮減された軽薄な粒のようではないか。それは。
 しかし、他者とはそういうものではないのか。
 目の前にある現実的な何物かに、私は必ずしも触発されるわけではない。大方のそれらは、単に私の前を素通りしていくだけだ。僅かな数の他者だけが、僅かに私に跡を残す。そのようにして私の記憶に入った物だけが、他者となる、のではないか。
※上で、他人、から、他者、に言葉遣いが変わっている。そこでは、私を触発するのが人だけとは限らないからだ。

 結局、先に述べたような通常の明るい自己実現は、私にとってはあまり効力が無いのだ。理屈を捏ねれば、自己が起点となって自己実現の動きが起動するとしても、その目指す所は自己自身なわけで、だとしたら最初から自己は有るわけなのだから、わざわざ自己実現の運動をする必要は無いじゃないか、という風に思ってしまうのだ。有り体に言うと、この種の自己実現に、私は飽きてしまう。実際に、ジムでのトレーニングもそうだった。
 それに対して他者の実現の方は、他者を手掛かりにして進む自己実現だと言えもして、しかも他者はずっと他者であり続けるという単純な事実によって、つまり、他者は私にずっと要求し続けるということによって、実践が窮まらない。他者の方が飽きない限り。

 ところで、自己実現というとスポーツ選手が典型的に思い浮かぶが、上述した理由から、私の場合、スポーツ選手は凄いとは思うが、それにあまり憧れはしない。どちらかというと、不謹慎を恐れつつ言えば、私は兵士に憧れる。
 何故不謹慎かと言うと、兵士というのはあからさまに憧れて良い存在ではないと思うからだ。そして、このシェードに伏された光のような性質は、他者発の自己実現一般にも言えることなのかもしれない。

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