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短編小説 「エレベーターの小言」

エレベーターのドアが閉まる音が、またしても僕の耳に響く。八階までの短い距離だけれど、毎日のようにこの小さな箱の中で繰り広げられる会話が、僕にとっては一日の中で最も長く感じる時間だ。

「おはよう、今日もいい天気だね」と、隣に立つのは佐藤。

彼は会社で僕と同じくらいの立場で、仕事が好きで、それなりに優秀だ。そして、彼の口癖は「職場の人妻に恋してるから、仕事しに来てる」だ。この一言に僕はいつも苦笑いを返すしかない。何しろ、僕にとって仕事はただの義務であり、できれば避けたいもの。でも、彼のように何かを愛し、それが仕事を続ける動機になっているのを見ると、少し羨ましくも感じる。

「そうだね、でも、いい天気ってのもどうかな。僕には、どんな天気も会社へ行く義務が重くのしかかってるようでね」と、僕が返すと、佐藤はいつものようにクスッと笑う。

「まあ、それでも来るんだから、君も仕事が好きなんだよ」彼がそう言うと、僕は心の中でため息をつく。彼とは違って、僕は仕事自体に愛情を感じたことがない。ただ、毎朝目覚めて、自動的にこうしてエレベーターに乗っているだけだ。

「好きで来てるわけじゃないさ。ただ、仕方なくね」僕がそう言うと、佐藤はまた笑う。

「仕方なく来てるっていうのも、一種の愛情かもしれないよ。だって、嫌いなら辞めてるよね?」

その言葉に少し考え込む。嫌いなら辞めている。確かにそうかもしれない。でも、それは愛情というより、恐怖かもしれない。新しいことを始める恐れ、未知の世界への不安。それが僕をここに縛り付けているのかもしれない。

「恐れからかもしれないね。新しいスタートはいつだって怖いから」僕がそう答えると、佐藤は少し考えるように黙り込む。

エレベーターが目的の階に着くと、ドアが開く。僕たちはいつものように静かに出て行く。エレベーターでの会話はいつもこんな感じで、深い話はしない。それでも、この短い間の交流が、僕にとっては日々の小さな救いのようなものだ。

会社の廊下を歩きながら、僕はふと考える。佐藤との会話が、もしかすると僕にとっては仕事への小さなモチベーションなのかもしれない。彼の明るさが、僕のネガティブな考えを少しだけ和らげてくれる。彼がいるから、僕もまた明日も来るのだろう。

そんなことを考えながら、僕は自分のデスクに向かう。仕事をするのは決して好きではないが、少なくとも今日は、少しは前向きに取り組めそうだ。

佐藤がデスク一歩手前で口を開いた。

「人妻に恋しろ!」





時間を割いてくれてありがとうございました。

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