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短編小説 「ホットケーキ」


水曜日の朝、カナタはキラキラとした目でゆっくりと目を覚ました。布団を蹴り出し、窓から差し込む朝日に照らされた天井に微笑んでいた。この日は有給を取っており、それを利用して何をするかと言えば、自分自身への小さなご褒美、ホットケーキを焼く予定だった。

キッチンに足を踏み入れると、古い桜の木のカウンターが朝日で温かく照らされていた。カナタは大きく胸を張って、材料を取り出していく。小麦粉はささくれたベニヤの棚から、卵は小さな昭和感溢れる緑の冷蔵庫から、それに牛乳も。そして最後に、ベーキングパウダーを真新しいスパイスラックから手に取った。キッチン用具も整え、計量カップ、ボウルと、特にお気に入りのフランス製の泡立て器を並べた。

材料をひとつひとつ丁寧に計量し、ボウルに入れていく。スプーンで小麦粉をすくい、卵は軽く割って黄身と白身が滑らかに混ざるように心がける。牛乳を流し込む際には、ゆっくりと緩やかな動きで、泡立て器を使って手際よく生地を滑らかに仕上げた。その一連の動作はまるで儀式のよう。キッチンの中は朝の静けさとカナタの集中力でいっぱいだった。

その横で、ホットプレートはジリジリと小さな音を立てながら温まってきていた。その温まり具合がちょうどよくなった瞬間を察知して、カナタは満足げなニヤリとした表情でうなずいた。


「よし、これで完璧だ」と内心で満足げに呟くカナタ。彼の手には、滑らかに混ぜ上げたばかりのホットケーキ生地がたっぷりと入ったボウルがあり、その隣でホットプレートは待ちきれないように微かに音を立てていた。スプーンで生地を丁寧にすくい、心の中で最後のカウントダウンを始める。ホットプレートに生地をそーっと落とす瞬間が近づいていた。

しかし、その一瞬のうちに、事態は急転した。ズルッという音とともに、生地が入ったボウルがカナタの手から滑り落ち、キッチンの床全体に無残にもぶちまけられてしまった。

カナタは一瞬、時が止まったかのように感じた。目もパチリともせず、口も開かず、ただただ無表情で立ちすくむ。床に散らばった白い生地が、陽の光に照らされながらじわじわと広がっていくのを見つめていると、現実が徐々に頭に入ってきた。かつての至福が、瞬く間に絶望となり、その重みに押しつぶされそうになった。

「あああああ、いやー!!」とついに爆発。床に広がるホットケーキ生地を見つめながら、カナタは思わず声を大にして絶叫した。その声は、朝の静かな空気を突き破るような力強さで、部屋中に響き渡った。

その日の朝食は、取り急ぎ冷凍パンとインスタントコーヒーで済ませざるを得なかった。キッチンの床は粘つく生地で一面が汚れており、カナタの心も同様に暗い雲で覆われていた。





時間を割いてくれて、ありがとうございました。

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