storm yamanaka

むべ山風を嵐といふらむ! 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこか…

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むべ山風を嵐といふらむ! 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。

最近の記事

社会派の波風その2~パレスチナ ベツレヘム~

懐かしいパレスチナ・ベツレヘム 十字架と新月が並ぶ美しい街。イエス・キリストが生誕したダビデの街。世界最古の原始キリスト教共同体が存在した町。エッサイが生まれ、ダビデが油注がれた町。 夕暮れ時に教会の鐘と共にコーランが心地よくこだまする幻想的な街。 パレスチナ・ガザでは連日空爆が繰り返され、死亡した若い母親から取り出された女の子の赤子も息絶えた。一体彼女らが何をしたというのだろう。命を育もうとした以外に何をしたのだろう。 繰り返される神への叫び。 空爆は人質が解放されるまでと

    • 縦断と革命の熱風その3〜ボリビア サンタクルス〜

      チェゲバラは1967年にボリビアで捕まり、当時CIAの指示で生捕りの予定だったが、ボリビアには死刑がなく、もしそのまま投獄された場合、仲間がチェゲバラを奪還しに襲撃に来ることを恐れ射殺されたとのこと。 ブルースリーは1973年に薬物混合による脳浮腫により死亡した。その死因には諸説あるが、ブルースリーが映画の中でセットや衣装など完全に東洋スタイルで撮影していたため、当時映画を通じてアメリカ流の生活スタイルを広め、アメリカ商品の市場を広げることを目論んでいた通産省に目を付けられた

      • 縦断と革命の熱風その2〜ボリビア〜

        ちょうど私がボリビアにいた1997年にチェゲバラの遺体が発見された。CIAの戦略により殺されたと言われるチェゲバラの死に顔は、まるで十字架上で息を引き取ったイエスキリストのように美しかった。そしてそのカリスマ性から神格化されることを恐れたCIAが、密かに処分したという噂もあった。またCIAは生捕りを望んだがボリビア側が射殺したとも言われる。いずれにしろ1997年キューバとボリビアの合同捜索隊により、死後30年にして遺骨がボリビアの空港滑走路の下で発見され、遺族らが居るキューバ

        • 縦断と革命の熱風〜ブラジル ボリビア〜

          マナウスを後にし、再びアマゾン川を船で下ってボリビアに入ることにした。例のごとくハンモックを括りつけて約一週間の旅だ。今度ハンモックの席の隣になったのは、幼い子どもと生まれたばかりの乳幼児を抱えた美しい女性だった。たくさんの荷物と共にハンモックに座っていた。マナウスの病院で出産し、家に帰るところとのことだった。どうやら帝王切開でお腹を切って出産し、まだ間もないらしい。必然的に周りの細々としたことを手伝う感じになった。旅を続けるうちに乳幼児でない幼い子どもの方が熱を出してしまい

        社会派の波風その2~パレスチナ ベツレヘム~

          解放と神学の微風その6〜ブラジル マナウス〜

          ブラジルアマゾンの中心マナウスでは、フォルタレーザで仲良くなった友達のお兄さんの家に泊まった。朝起きるとまず子ども番組を見た。アンジェリカとかシュシュとかいうセクシー系のアイドルが子ども番組の司会をしていた。朝の子ども番組を見てからはだいたい市場に行って朝市の様子を見たりしていた。マナウスの市場は実に豊富な食材に溢れていた。そしてさらに次から次へといろんな食材が運び込まれて来た。そのどれもが力がみなぎりそうな、サッカーワールドカップでは史上最多優勝回数を更新し続けそうな、格闘

          解放と神学の微風その6〜ブラジル マナウス〜

          解放と神学の微風その5〜ブラジル アマゾン〜

          編 アマゾンの中心のマナウスに向かう船の上で女系家族と別れを告げると、今度はマイケルJフォックスに似たイケメン白人と、サイボーグ009に出てくる黒人の黒豹のようなサイボーグ008ピュンマに似た男性二人と仲良くなった。ちなみに私はワシっ鼻で一重だったのでサイボーグ002ジェット・リンクに似ていると言われていた。空を飛ぶやつだ。どちらかというとマイケルJフォックスに似たイケメンの白人は009島村ジョーに似ていた。 イケメンの白人は実に親切にしてくれた。身の回りのことの他に、いろ

          解放と神学の微風その5〜ブラジル アマゾン〜

          龍になったアマゾン川のワニ

          龍になったアマゾン川のワニ

          解放と神学の微風その4 〜ブラジル アマゾン〜

          お気に入りのハンモックをバックパックにセットして、一週間かけてアマゾンの中心マナウスへ向かうアマゾン川を上る船旅が始まった。 船に乗り込むとまずどこにハンモックをぶら下げるかでその後の人間関係が形成されるので慎重に位置を決めてハンモックを吊り下げる。船旅の間だいたいはハンモックに揺られているか、食堂のテーブルに腰掛けているか、はたまた2階の広場で踊ったりマージャンのようなゲームかカードゲームをするかだ。 その頃私は旅の途中どこに行っても暇つぶしでスケッチをするようになっていた

          解放と神学の微風その4 〜ブラジル アマゾン〜

          解放と神学の微風その3 〜ブラジル フォルダレーザ〜

          フォルタレーザでホームステイ先の街角や、海洋民族の先住民トレメンべ族の家や、子どもの絵を描いたりして数日過ごしていたが、日本から来た友人も帰国するので、そこから離れてさらに北上することにした。ブラジルの南はむしろヨーロッパ風で、北の方が多くの人がイメージするブラジル的なイメージに近い。なのでさらにブラジル的な所、ブラジルの中枢に向かっていくことになる。あくまでイメージの問題だが。 彼女の紹介でさらにフォルタレーザの奥に位置する山岳地域の先住民族のプロジェクトを訪ねることにした

          解放と神学の微風その3 〜ブラジル フォルダレーザ〜

          解放と神学の微風その2 〜ブラジル フォルダレーザ〜

          フォルタレーザで日本から来ている友人と会うため、バスに乗りさらに北に向かった。ブラジルの南にあるパラナ州のサン・ジェロニモで、子ども達に別れを告げて教会のプロジェクトを出る直前に連絡をくれた友人だ。ブラジルでさらに北に向かうとは赤道に近づくことで、さらに暑いところに行くと言うことだ。ブラジルの長距離バスは実に長距離で、途中何泊かすることもある。バスで56時間とか丸2日以上かかることもある。そのため道中いろんな事件が起こる。急に恋に落ちてカップルが誕生したりすることもある。 そ

          解放と神学の微風その2 〜ブラジル フォルダレーザ〜

          東西と歴史の谷風その4〜インド ラダック〜

          -インド編5- ラダックに着くとまず宿探しから始めた。とりあえずジープをシェアしたイスラエル人と部屋もシェアした。その日は高山病予防のためにも1日動かずにおとなしくして、持って来たナンを食べ、バター茶を飲み、そのまま眠りに着いた。 次の日からラダックを散策し、チベット密教のお寺を回った。 ラダックはヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に囲まれた美しい所だ。朝起きて外に出て見渡すと勇壮なヒマラヤ山脈が青々と白い雪の筋に太陽を反射させながら、まばゆいばかりに輝いている。日が登る時から日

          東西と歴史の谷風その4〜インド ラダック〜

          東西と歴史の谷風その3〜インド カルギル〜

          - 朝早くカルギルの市街地にある、トラックやバスが行き交うターミナルに行くと、一人の白人のバックパッカーが声をかけて来た。 「あと二人連れてくるから4人でジープをシェアしないか」とのことだった。OKの返事をすると彼は「ここで待っていてくれ」と言い残してどこかに消えて行った。 しばらくすると彼はさらに二人の白人と現地のドライバーを連れてきた。最初に声をかけて来たのはイスラエル人で、後の二人はスイス人だった。そして現地のドライバーは私の親戚のラリードライバーの叔父に瓜二つだった。

          東西と歴史の谷風その3〜インド カルギル〜

          東西と歴史の谷風その2〜インド シュリナガル〜

          シュリナガルのバスターミナルに着くと、トラックとバスが、けたたましくクラクションと土埃を巻き上げながら行き来し、騒然としていてまるで戦場のようだった。実際に軍用車両も目についた。 予約していたラダック行きのバスに乗り込み「予約してたんだけど」というと、「お前の席はない」と一刀両断された。「どうすればいいんだ」と一緒に来てくれていたガイドに聞くと「運送用トラックをヒッチハイクで止めるといい」と言われた。「お前最初からそれ言いに着いて来たのか」と内心思いながら運送トラックをヒッチ

          東西と歴史の谷風その2〜インド シュリナガル〜

          東西と歴史の谷風〜インド シュリナガル〜

          2回目にインドを訪れたのは教員2年目か3年目の1994年か1995年頃だったと思う。その時はデリーから入りカシミールのシュリナガルを訪れ、そこから陸路でラダックに向かった! カシミールのシュリナガルに入るとハウスボードという湖の上に浮かんだ船上ホテルに滞在することになった。陸を動くにはタクシードライバーとガイドにお金を払って回った。ジュリナガル周辺には多くの遺跡が点在していた。アーリア人の侵入、ガンダーラ王国の設立、アレクサンダー大王の侵入や、マウリヤ朝の設立、そしてアショー

          東西と歴史の谷風〜インド シュリナガル〜

          哲学と瞑想の川風〜インド プーナ〜

          最初にインドを訪れたのは確か大学3年の春休み1992年頃だったと思う。その時はまず始めにボンベイ(今のムンバイ)の近くのプーナという所を訪れた。私の友人であり先輩であるカトリックの神学生がそのプーナにあるデノベリカレッジという神学校に留学していた。プーナにはサダナというアントニオ・デ・メロの作った霊性研究所もあった。彼はイエズス会の神学者で霊的指導者で東洋と西洋の霊性の融合について研究して紹介した人だった。有名な著書に「小鳥の歌」という本があり、私を含め多くの悩める若者が彼の

          哲学と瞑想の川風〜インド プーナ〜

          解放と神学の微風〜ブラジル パラナ〜

          その時、神学の微風が私の中に微かに吹いた気がした。解放の神学というやつだ。私の学生の頃、中学高校の頃1980年代は、カトリック教会の特に南米やフィリピンで解放の神学の風が吹き、多くの神学者、聖職者、神学生、使徒信徒はこの解放の神学を基に貧しい抑圧された人々と共に生き戦っていた。日本で抑圧され搾取されていた外国人労働者と共に生き活動していた当時の神父もこういった解放の神学の流れを組んでいた。 私は3年間働いた教員を1996年に辞めて南米に向かうこととした!ちょうどその頃1996

          解放と神学の微風〜ブラジル パラナ〜