解放と神学の微風〜ブラジル パラナ〜


その時、神学の微風が私の中に微かに吹いた気がした。解放の神学というやつだ。私の学生の頃、中学高校の頃1980年代は、カトリック教会の特に南米やフィリピンで解放の神学の風が吹き、多くの神学者、聖職者、神学生、使徒信徒はこの解放の神学を基に貧しい抑圧された人々と共に生き戦っていた。日本で抑圧され搾取されていた外国人労働者と共に生き活動していた当時の神父もこういった解放の神学の流れを組んでいた。
私は3年間働いた教員を1996年に辞めて南米に向かうこととした!ちょうどその頃1996年から1997年に私が南米にいる間、チェゲバラの遺体が発見されたとの情報が入った。一方でペルーやコロンビア等でセンデロルミノソやトゥパックアマル、コロンビア革命軍等共産ゲリラが活発化していた。そして南米を縦断する多くのチャリダーやバックパッカーが山賊や強盗に襲われる事件も相次いでいた。
その頃、私は親しかった神父のつてでパラナ州のサンジェロニモというイグアスの滝近くの小さな村に、親しかった神父のアレンジで滞在することができた。そこには教会ベースのストリートチルドレンのプログラムがあり、農業とクリニックと識字教育を行っていた。
そのストリートチルドレンのプロジェクトに入れてもらい、子ども達と一緒にポルトガル語の識字教育の授業に参加したり、コーヒー農園で働いたりした。時々センテーハという土地なし農民の活動にも顔を出した。ブラジルの95%の土地をほんの一握りの大地主が所有する中で、土地なし農民たちは土地を占拠し、学校や病院を建ててユートピアを形成していた。私もその教育の現場を訪れる機会があった。
私自身も当時はストリートチルドレンの識字教育に生徒として参加していた。識字教育の授業の担当はクリスティーナという足の悪い美しい女性の先生だった。足を引きづりながら、ドッチボールだってサッカーだってなんでもやった。その先生にはフィヤンセがいた。
3ヶ月経ってその地を離れる時、周りがざわつき始めた。ポルトガル語の単語を拾いながら何となく周りの言わんとしていることは想像できるようにもなっていた。合っているかどうかは別として。どうやら私とその先生に話をさせようとしていることが推測された。ある日私は識字教育の主任の家に招かれた。そこにはそのクリスティーナがいた。彼女と二人きりになり、彼女の言うことは概ねわかった。しかし私は何も答えることが出来なかった。

そして私はその地を後にした。そこを出る日の前日、日本からブラジルに来ている友人から連絡が入り、彼女に北のフォルダレーザで会えること、途中のジョンペッソアでイエズス会の神学校や山岳先住民族の子どものプロジェクトに滞在できること等の情報を受け取った。私はサンパウロのあるカトリック信者の日本人の家でお世話になったり、孤児院にいて子どもと一緒に遊んだりした。子どもたちはいつも(サンジェロニモでもそうだったのだが)私のことを慕い、別れ際には私を行かせないようにしていた。今でもその子ども一人一人の顔が思い浮かぶ。その後私はカンポグランジの沖縄県民のコミュニティ等、ブラジルの日系人コミュニティを転々としながら北上した。沖縄出身の人たちは特に過酷な土地に足を踏み入れ、そこを開墾したことで、非常に尊敬されていた。
そして私はブラジルの中で最も貧しく失業率が70%以上のジョンペッソア州のサリンという最も貧しい村の近くにあるイエズス会の神学校にお世話になることになった。ブラジルの神学生たちは体力重視なのか休み時間はずっとバーベルやダンベルを上げで筋力トレーニングをしたり、サッカーをしたりしていた。そして週末はそれぞれ自分が属するスラム街のコミュニティに足を運んでいた。そこでもやはりセンテーハ運動に参加し、夜通しセンテーハの占拠する土地をみんなで歩いたりした。みんなでお揃いのTシャツを着て練り歩き、途中食事や水などを配る所もあり、そこでパンと水をみんなで分けて食べて飲んで語らい、休憩をとった後また歩き出した。
私はそこでそれまでのことを当時そこの霊的指導者だった日本人の神父にいろいろ話した。自分の情けなさや罪深さ、迷惑ばかりかけて卑怯で惨めで愚かな自分を、ちっちゃくて弱い自分を。そんな私に自分の自慢の花壇をその神父は水をやりながら嬉しそうに見せてくれた。プランターの小さな花壇に、小さな野に咲いているような花が何種類か植えられていた。そしてその神父は私にこう語った。「どうですこの花たち!よーく見てください。素晴らしいでしょう。豪華絢爛の絢爛とはまさにこのことです。ソロモンの栄華もこれほどまで飾ってはいません。本当に素晴らしく美しいです。」その言葉は比較的有名な聖書の一節だが、実際にその野に咲く小さな花を見ながらそれを聞いて、なぜか胸が熱くなり涙が溢れてきた。あーこんな自分でも万物の創造主に愛されて存在する一つの小さな命なのだと感じた、そこで私はその神父に弟子入りを希望したのだが、一旦日本に帰ってからイエズス会の門を叩いてくださいと言われた。それ以降日本のイエズス会の門を叩くことにはならなかった。

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