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不登校だったけど今は幸せに暮らしてる35歳の話⑤

苗字を婉曲したあだ名を付けられてからというもの、元々嫌だった学校がますます嫌になった。
小学生の頃は、一時期友達に無視されたりしたことはあったが、物心がついてきた頃によくある一過性のものという程度だったから、あまり学校に行きたくないと思ったことはなかった。
休むのは体調不良の時だけ。
でも中学のこの時期からは、毎朝起きるのがしんどく、たまに休んだり、たまに保健室に行くようになっていた。
元来真面目で気にしぃな私は、学校を休んだり保健室に行ったりすることに抵抗があった。
休んでしまうと次の日教室に入るのがしんどいし、保健室に行ってしまったらその後教室に戻るのがしんどい。
でも教室に入るのもしんどい。

当時はパソコンやインターネットがなかったわけではないが、一般家庭にはほとんど普及していなくて、情報源といえばテレビや雑誌が主だった。
不登校児の推移を見てみると、ちょうど96〜98年頃に急増したようなので、私が中学生だった頃はまだ不登校自体珍しく、たまにテレビで不登校児が通うフリースクールが特集されているのを見る程度。
テレビで見る限り、当たり前だが不登校になってしまった子が集まって、勉強したい子はする、したくない子は本を読んだりゲームをしたり、自由に過ごしているといった印象だった。
その程度の知識だったが、不登校になってしまったらこういうところに通うことになるのか…という不安や絶望感を感じていた。
私はクラスで1番成績が良かったので、自分自身の将来に期待している部分があったのだが、不登校になるということは、将来を諦めることになる。
当時、従姉妹のお姉ちゃんの影響で“CAになりたい“という夢があった。
でも不登校になったらその夢は叶えられないどころか、高校も行けないかもしれない、高校に行けなかったら大学なんて絶望的だ。
だから私は学校に行かないと。
そう思ってなんとか踏ん張っていた。

でも2年生になって1、2ヶ月が経った頃、完全に学校へ行けなくなった。
何がきっかけだったかもう思い出せないが、ある日の朝、「もう学校に行きたくない、行けない」と泣きながら母に伝えた。
コップに貯め続けた水が一気にこぼれていくような感覚だった。
母は戸惑いつつも、その日は休ませてくれた。
それから、私は家に籠るようになった。
父は強くは言わないものの、“学校は行かないといけない“という考えの人で、朝仕事に行く前に学校に行くように言われたことも何度かある。
「世の中変な奴はたくさんいるんだからそんなこと気にせず行きなさい」と。
そんなこと言われても、私の世の中は今現状中学校が全てなのだ。
そこから逃げることもできないし立ち向かう精神力も持ち合わせていない。
クラス替えがあったならもう少し頑張れていたかもしれないが、田舎の各学年1クラスしかない学校では夢も希望もない。
そのうち父は何も言わなくなった。

母は当時午前中だけパートに出ていて、帰ってきてからたまにドライブに連れて行ってくれた。
田舎で遊ぶところはこれといってないが、景色を見に行ったり、ちょっと遠出して買い物に行ったり。
ずっと家にこもっていると色々と考えてしまって悶々としていたが、母とドライブしている間はあまり何も考えずにいられた。
そして、家で面と向かって話すよりも素直に学校のことについて話せていた気がする。

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