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middieーー二つのVaporwave、音と音楽の間の「きく瞬間」の探求ーー

StudioMarusan.
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音日記8日目。久しぶりに書く。

多くの創作者はそうだと思うが、作ったものの多くは人目に触れることはない。だが、一回一回の創作が実験で、そこには複雑な「思考」が常に伴っている(「伴う」、ということが重要で、創作が思考に基づくのでも、思考が創作に基づくのでもない)。それはプロセスと呼んでもいいのだが、それを紐解き、アーカイブ化しておくことには意味があるかもしれない、少なくとも、創作者当人としては、頭の整理になる。そういう感じで、この「音日記」を細々とやってみているのだと思う。

僕の創作/思考の中心に常にあるのは、音楽でも音でもなく、「音楽と音の間」や、「音から音楽への/音楽から音への移行」であるらしい、ということが最近明確になってきた(というか、そのような移行に「音楽」を感じるということかもしれない)。あくまで論理的・概念的な区別をするなら、音楽は、時間性や物語性、記号、形相、表面(聞こえ)、ポップネスといったことに関わり、対して、音(≒サウンド・アート)は、空間性や同時性、物体、質料、深層(因果)、ファイン・アートといったことと関わる。むろんこれには(特に最後のポップ/ファインということに関しては)疑わしい部分があると思われるかもしれないが、その具体例について考えてみるのなら、そのことは、むしろその部分が(音楽と音の間という観点からして)重要であることを示していることに気づくだろう。たとえば(これは今の私の関心の一つなのだが)、非-ファイン・アート的という意味でポップな、(音を使った非-音楽作品という広い意味での)サウンド・アートとして、ゲーム内アンビエンスを上げることができるかもしれない。MinecraftやMini Metroのそれを念頭においているのだが、これについてはまた別の機会に書きたい。いずれにしても、「音と音楽の間」とはだから、音を時間化・リズム化したり、音楽を空間化・物体化、あるいは質料化したりすることに関わっている。

「音楽と音の間」とは言い換えるのなら、「きく(聞く/聴く)瞬間」のことである。絵画や写真を見せられた時、一瞬何がどのように描かれていたり映ったりしているのかよく分からない、ゲシュタルトが定まらない、そういう瞬間がある(これは「みる瞬間」)。でも一度「見える」ようになってしまうと、逆説的に聞こえるかもしれないが、僕らはそれを見ることはできなくなってしまう。美術展に行くと、人が、「これは何を描いているのかしら」「〇〇じゃない?」などと話しているのを聞くことがあるが、その「〇〇」が確定した時点で、僕らはそれを記号としてしか見ることができなくなってしまう。その作品ををそれ自体、それ全体でみることが困難になってしまう。逆に言えば、だからこそ作品は、それに抗うことのできるような「みる目」を必要としているのかもしれないし、(いきなり自己批判になってしまうが、)そのような目を信頼せずに、作品それ自体で「きく瞬間」や「みる瞬間」を持続させるようなものを作ろうとすることは、単に絶望的な試みであるだけでなく、鑑賞者の能動性を奪い取ってしまうことなのかもしれない(そしてまた僕自身にそのような能動性が欠けているのかもしれない)。例えばフランシス・ベーコンの絵画はそのようなものだと僕は思う。こういった(モダニズム的と、あるいは非-社会的といってもいい)作品は、芸術というよりもドラッグやポルノに近いのかもしれない。無論、そう言うことに意味があるのは、芸術が常にそういったものと切り離しがたい関係や緊張を持っていることを認める限りにおいて、だと思うが。いずれにせよ、僕はそれをあまり悪いことだとは思えない。「きく瞬間」において、聴く主体としての人/聴かれる客体としての音(楽)という分離は宙吊りになり、人は音と一体になる。そういう状態に惹かれる人と、そういう状態を恐れて記号や物語を盾にする人とがいる、という好みや状況の問題である気もする。無論好み(美学=感性)の問題こそが倫理や政治の根幹の大問題なのだが......。とはいえこれに関して、一つの今日的な例を挙げてみよう。今のように急速に成長する以前の生成AI(GANを使ったもの)が生成するイメージはしばしば不気味で、まさに「フランシス・ベーコン効果」と呼ぶ人もいた。こういったことは画像生成AIに限ったことではないだろう。すでに多くの人がこの不気味さを忘れて、あるいはそもそも知らずにAIで楽しんだりそれに頼ったりしているように見えるが、僕はこのナイーブさに不安を覚える。結局、「知覚する瞬間」を作り出すことは、技術やメディア、素材(メディウム)を、既存の記号や目的や物語から解放することによって、それらに内在している力能を再付与し、それらとの別の共存の仕方を探ることであって、その意味ではやはりアクチュアルな課題ではあるのだと思う。

さて、長くなってしまったが、そろそろ曲についても書いていきたい。私は以前、友人と共同で、Lars, Lucy & 8legionsという自動演奏楽器を用いるアーティストについて掘り下げたことがあったが、今ようやく、この「音楽と音」という観点から、そのLarsや、後書きで取り上げた、MIDI的なコンポジションを演奏するJacob Mann Big Bandや、物理モデリング楽器を使うMotion Graphicsのようなアーティストについてうまく語ったり考えたりすることができるし、それは重要なのではないか、と思えてきた。こういったアーティストについて元々考えていた共通項はやはり「音楽ともの/機械」ということなのだが、改めて考えてみたときに、「Vaporwave以後」というワードが浮かんできた。そうして、(もちろん以前から少しは聴いていたものの、)改めてvaporwaveに関連する曲を聴いてみたり、今更だがユリイカのvaporwave特集などを読んだりして、なんとなくイメージができたので作ってみたのが、今回の「middie」という、曲と言えるのかもよく分からない何かである。

正直なところ、こうして聴いたり考えてみたり作ってみたりした時に、vaporwaveはこれほど「難しい」ものだったのか、という感想を抱いた。それは、思想的・批評的な観点からいって難しい、捉え所がない、論点が多すぎる、という意味でもあるし、作るのが難しいというか、どうやって、というかどこまで作っているのだろう(要するにどこまでサンプリングとかを使っているのか)、どういう(不)真面目さで作っているんだろう、といったことがよく分からない、という難しさというか不安でもある。

無論vaporwaveという括りはあまりに雑漠としており、僕はこれには少なくとも、似て非なる二つの種類があると感じた(これも雑に思われるかもしれないが)。つまり、(クラシカルな)vaporwaveやmallsoftのように、アナログ(連続的)な素材=サンプルに、「外側」から働きかけるという「オーディオ的」な方向性。それから、future funkやutopian virtualのように、内側からコンポーズしていくような、「MIDI的」な方向性。(これはどちらかというと聴感の問題であって、実際の創作においてオーディオ/MIDIどちらがメインであるかというのはあまり重要ではない。)この二項は、これまで述べてきた、音/音楽とか、素材/記号といった対に概ね重なると僕は考えている。いずれにしても、僕は、この「二つのvaporwave」の橋渡しがしたいと思った(それは、論理的に考えてそうとかいうのではなく、あくまで感覚的に、要するに、そういう音(楽)が聴いてみたい、と思ったということである)(あるジャンルの創始者とされる人物自身はそのジャンルに縛られていないという意味において、「原点にして頂点」というのはしばしば真実であるが、OPNはまさにこの二つの側面に股をかけているように思える)。

vaporwaveの重要さ、衝撃、といったものは色々とあると思うのだが、僕はvaoprwaveやmallsoftの功績の一つは、音楽(店で流れるmuzakやテレビやラジオから聞こえる流行音楽)や、パソコンやゲームや携帯の起動音や効果音、サイン音といった「人工的」な音/音楽もまた「環境音」や「物音」であるという事実を、論理的にではなく、直感的に理解させたというところにあると思っている。だがfuture funkやその他多くのvaoprwaveは、その事実が指し示す方角に向かうのではなく、そうした音を「音楽」の側に回収してしまうか、少なくともその事実の提示に留まっているように僕は感じた(無論、これはたとえばfuture funkがダメだとか批評性がないとか言っているのではなく、あくまで「音と音楽」という観点からの、そして僕の観測範囲内の話である)。

対して、James FerraroやGiant ClawやCryptovolansのようなutopian virtual的な(僕は正直このジャンルの外延がいまいち分かっていないのだが)、というかMIDI的なアーティストは、一方では、MIDIは単なる再生機であり、それによって作られたものが「音楽」に聞こえるのはあくまで「結果として」、つまりMIDIという技術に対して外在的、偶然的なことであるのだが、他方では、それはやはり音楽のために設計されているが故に、あえてそこから外そうとしない限り、適当に音を配置しても必然的に「音楽」的な何かになってしまう、というMIDIという技術のアンビヴァンレンスと、それが故に生じる音と音楽との間の揺れを、今の時代にあえてチープな音を使ったり、器械的な編集を行うことで、つまりその結果を「楽曲」にしようとするトリートメントをあえて外すことで聞かせる、提示する、ということを行なっているのではないか、という点が重要に感じられる。この方向は、その「あえて」という緊張が失われる可能性に常に晒されている。そうなればその音響体は、「そういうジャンルの楽曲」になってしまう。

MIDI感たっぷりのカラオケ音源や、昔のゲームのBGMなどは、utopian virtualの曲ではない(実際には聞き分けることが難しい場合もあるかもしれないが。そしてutopian virtualはまさにそういった曲の「音楽もどき」性を誇張しデフォルメしたパロディであると言えるだろうが)。それはなぜかといえば、それらの音源が、何か特定のジャンルの曲をやっており、またそのことが聞いて分かるからであろう。逆に言えば、utopian virtual的な方向性が音と音楽の間に留まるためには、単に特定のジャンルであることを避けるだけでなく、「単にMIDIという技術に従っただけのジャンルのないもの」という否定神学的なジャンルをも避ける必要があり、そのためには、(utopian virtual的なものも含めた)特定のジャンルに取り組みつつ、それを絶えずMIDI的に逸脱させるようなことをしなくてはならないということになるのか。しかしこれは「アキレスと亀」のような状況ではないか。

このことに対する結論はまだない。いずれにしても私は、vaporwaveやmallsoftには、「外側」からオーディオにエフェクトをかけたりすることしかできないという無力があり、futurefunkやutopian virtualには、「音楽」や「ジャンル」という物語に従属してしまうという無力があると感じたし、だからこそ、「内側」(MIDI)から作りつつ、同時に「曲」を、外側からエフェクトがかけられうる「音(響)」として扱うことでそこから逸脱し続ける、という戦略をとることで、両者の橋渡しをし、まだ聞かれたことのない「瞬間」、音楽未満音以上の、たとえば「ハイパー・アンビエンス」などと呼ばれうるような「何か」、いわば音楽のシミュラクルを作り出せるのではないかと思った。(繰り返すようが、このような「批判」は音と音楽の間という観点からして、であって、私は上に挙げたようなジャンルの音楽をリスペクトしているし、もちろん別の面白さもたくさんあると思っている。)この橋渡しは、オーディオもMIDIも関係なくとにかく最終的な「聞こえ」としての音楽を生産するために使われるDAWという機械を暴露し、批判する行為の一つになるのかもしれない。

今回作った短いプロトタイプがこうしたことを示しているとか、実現している、などというつりはない。というのは、やはりvaporwaveという事象はあまりに複雑であり、ここでは言及できていない様々な具体的な要素があり、そういった懸案事項に足を取られないためにも、とりあえず何かを作ってみる必要を感じてなんとか作ったのがこれであるからだ。そしてもちろん、この試みは始まったばかりであり、これはスタートに過ぎないので、ここから他にも色々やってみる必要があるし、まだまだ書きたいこともある。とはいえ、この音源でやろうとしたことやここで書こうとしたことが誰かにアイディアを閃かせて引き継がれていったら面白いなと思うし、そういう気持ちで作ったり書いたりしている(僕は決してバリバリ作る・作れるタイプではないし、割と飽きっぽいので、そう願ってしまう)。

最後に、この音源をどのように作っていったか大まかに書き残しておきたい。
最初に、FMシンセのエレピや、Linn Drumの音色を使って、「80年代風」な4小節のループを作った(あくまで「風」である。もっといえば、これは、実際の80年代の音楽というよりも、vaporwaveによって作られた「80年代風」をイメージして適当に作った「80年代風風」のものである)。また、そのエレピに複雑なアルぺジェーターをかけたパートと、そのパートに反応して音がなるホワイトノイズのパートなど、「80年代風」の音源には通常入っていない音も入れた。
次に、マスターに、リバーブや音質を低下させるビットクラッシャーやEQを挿し、オートメーションで好きなタイミングでonにできるようにする。onにするとmallsoft的な音像になる(群衆の音などを加えてもよかったのかもしれない)。加えて、最近Logic Proに追加されたグリッチ・プラグイン「Beat Breaker」なども挿す。これもまた、「80年代風」ではない、「現代風」の音像を作り出す効果がある。その他、あるパートだけにかかるリバーブなどもある。エフェクトの順序はかなり重要である。たとえばマスターにかかるmallsoft的音像のためのエフェクトと、グリッチエフェクトは、前者が先にかかれば、mallsoft的な音響体は他の音楽や音でもあり得る単なる「素材」になるし、逆に後者が先にかかれば、それはmallsoft的なサウンドになるというよりは、単に「現代風」なトラックにかかっている、というようなものになるかもしれない。
この曲は基本的に常にこの4小節のループが、またそれに対して色んな段階で諸々のエフェクトがかけられたヴァリエーションが、(ミュートされた状態で潜在的に)走っていて、その上でその一部が聞こえるようになっている、という仕組みになっている。だからその「作/編曲」作業は、そのミュートをどのように外していったり、外したものをどのように加工するか(たとえば一部のパートのテンポを変えてポリリズミックにしたり、一部分を繰り返させたり)、ということを、結果を聞きながら、その複雑性を調整していく(要するに「音楽」になりすぎないようにする)ノンリニアな即興のようなものになる。

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