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はじまりのはなし…疑問感⑩

「双極性障害に記憶障害…それに加えて解離性同一性障害の可能性もありますが…現段階では何とも…看護師達からも報告は受けています。
仰っていた通り夕方になると何か独り言を話している様ですが、部屋に入るとパッタリ止めてしまうそうで…そのはじまりの話かどうかまでは確認出来ていません…」

「あの、人格が変わるだけではなくて、彼女が知らないような内容を話す事がありまして...」

「その様な症例は珍しくありません。大概は昔聞いた話だとか・・・テレビだったり、電車や喫茶店なんかで、近くの人が話していた内容を何気なく聞いていただけで、海馬には残っていまして・・・その様な記憶が複雑に絡む事によって...」

「その説明だけでは、納得できない内容で...」

「落ち着いてください。本人よりもご家族の方が神経質になって、気が病んでしまうという事は良くあるんです...診察している限りは、入院した当初の様な突発的に物を壊したりする様な衝動は減っていますし、情緒は安定して来ているんです」

「あの...」

「抗うつ剤も睡眠薬の量も徐々に減らし始めています。まぁ、あの様な事もありましたので、直ぐに退院という訳にはいきませんが・・・今は引き続き経過を見守るとしか・・・」

「すみません・・・違うんです」

「はい?」

「家族では...」

病院からの帰り道…コンビニに寄り道する元気もなかった。いつもなら電車を待つ10分から15分の間にコンビニで買ったツナマヨと昆布のおにぎり…レジ横のホットコーナーの唐揚げやあったかい焙じ茶などで簡単な夕食を済ませたりするが、今日は胃の辺りがヤケにムカムカして、食欲が湧かなかった。

精神科の先生との会話は神経が擦り減る。もう少しで、つい先日も暴れたばかりじゃないかと、思わず歯向かってしまう所だった。はじまりの話をメモしたB5サイズのノートは、きっと見せても無駄だっただろう。何だか申し訳なくて、彼女に合わせる顔もなくて、病室には立ち寄らずに改札を通ってしまった。駅のホームのベンチからは病院が見える。あの小さな窓は、彼女の病室だ。今頃はぐっすりと、眠っているのだろうか?

隣のベンチに座った高校生のカップルは、互いに自分の携帯電話ばかりを見ていて会話の一つもしてない。向かいのホームでは部活帰りの野球少年達に、若い女性の駅員が黄色い点字ブロックまで退がる様に声を掛けている。自動販売機の前では、ギターを担いだ金髪の男が小銭をジャラジャラと鳴らし、お洒落なハットを被った若々しい老人二人が、小学生のようにゲラゲラと笑っている。

「シュッシュッー、シュッシュッー」

「静かにしなさい…」

「ダチンダチーン…ダチンダチーン」

「やめて、もう」

「お母さん…シーッ、静かにして」

幼稚園児の手を引くお母さんは、片方の手で定期券を持ちながら、その華奢な腕に体操着袋と鍵盤ハーモニカをぶら下げて、もう片方の手で子どもの小さな手をしっかりと握り締めて歩いている。

プラットホームという舞台の上では、それぞれの人が…それぞれの人生を演じている。彼らにとって…彼女らにとって…僕はエキストラなのかもしれない。僕は誰かにとって、ただすれ違っただけの男だったり…ただ後ろに並んだだけの男だったり…ただ隣に座っただけの男だったり…そんな人達の人生にとって僕は村人Aとか村人B…いや、背景の一部…その辺の木や岩と変わりないんじゃないだろうか?

「柿山伏ってあるでしょ…」

「狂言だっけ?」

「そう…小学生の頃に文化祭の出し物でやったんだけどね…私はさぁ…山伏が登る柿の木の役だったの」

「セリフは?」

「ないよぉ…だって木だもん。まぁ、私は小学生の頃…クラスで一番背が高かったから、それでそんな配役になっちゃって…恥ずかしかったなぁ」

「お母さんは…がっかりしてた?」

「んーん、お母さんはね…突っ立ってるだけの私を何枚も何枚も写真に撮ってた…柿の木だろうと何だろうと…お母さんにとって、私は主役だったんだと思う」

彼女のお母さんと初めて会ったのは、結婚のご挨拶をしに彼女の実家へ伺った時だった。僕は緊張の余り朝から体調が悪く、栄養ドリンクを3本も飲んで、何とか気合いを入れて、その場を乗り切ろうと躍起になっていた。
震える指でインターフォンを鳴らすと、はぁ~いという明るくて気さくな声と共に、顔面白塗りの女性がドアを開けて現れた。真っ赤な口紅に白いノースリーブのワンピース...ちょっぴり膨よかなその体格は、漫画のオバQみたいだった。
 
彼女は大きな溜息を吐いてから、何でそんなに化粧が濃いんだとか、何でいい歳をして肩なんか出しているんだとか、捲し立てるように怒り出した。
それでも、お母さんはへっちゃらな様子で、時折僕に目配せするようにニッコリと笑いながら、これがいつも通りの一点張りで押し通し、親子の会話は成り立たず、彼女の機嫌が治るまでは、本題に入る事も出来そうになかった。

「アルバム見ます?」

正座を崩して、漸く炬燵の中に足を入れた所で、キッチンからお茶の準備をしていた筈のお母さんが、忙しなく大きなダンボールの箱を押入れの中から引っ張り出して来た。そこにはアルバムだけじゃなく、卒業証書の入った筒だとか、彼女が幼い頃に描いた絵や、小学校の通信簿、母の日に贈った肩たたき券、母子手帳に臍の緒まで大切に保管してあった。

お母さんがご自慢のアルバムを広げると、彼女も落ち着きを取り戻したのか、ニヤニヤと照れ笑いを浮かべていた。僕はそんな二人と炬燵を囲みながら、足がジワジワと暖まっていく様に、ゆっくりと家族の一員になっている様な感覚がした。
 
「お母さん・・・お湯沸いてない?」

「あら、大変」

「もう...」

「可愛らしい、お母さんだね」

「他人事だから、そんな事言うんだよ」

「いや、結婚したら僕のお母さんでもあるよ」

「そっか...うん」

「ん?...炬燵の中に何か入ってる」

「ちょっと見せて...もう、お母さん本当にさぁ...いい加減にしてよ。何でこんな物入れてるの?...意味分かんない」

炬燵の中でブラジャーを干しっ放しにしていたお母さんを、彼女は小一時間程説教した。お母さんは何度も謝りながら、気合の入り過ぎた厚化粧でも隠し切れない程、恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
当然する筈だった結婚のご挨拶も、後日仕切り直す事となり、場所も駅前のホテルのラウンジに変更になって、結局は彼女のアルバムをちゃんと見る事が出来なかった。きっと、あの日広げてあったアルバムの中に彼女が柿の木になっている写真もあったのだろう。

「嫌な人に出会う時ってあるでしょ?」

「うん...」

「そんな時にね...この人にもきっと大切な人がいて、この人の事が大好きな人がいて...それがお母さんだったり、お父さんだったり、子どもだったりで...私にとっては嫌な人でも、誰かにとっては大事な人で、誰かの人生にとっては脇役じゃなくて...きっと主役なんだって、そう思うとね。何だか優しい気持ちになれるの...」 

僕はいじめっ子だった時もあれば、いじめられっ子だった時もある。高校生の頃は担任の先生に鼻つまみ者にされたけど、大学ではお酒好きの准教授と何度も飲みに行った。バックれてしまったバイト先の店長には、今でも恨まれているだろうし...入社一年目の頃は先輩に使えない奴だと吐き捨てられた。

パートや派遣さんからは陰で疎まれていただろうし、そうかと思えば事務のおばちゃんには随分と可愛がって貰った。いつも助けてくれる同僚がいた...それなのに、彼が辞める時、僕は何も出来なかった。
誰かにとっては善人で、誰かにとっては悪人で、その時、その場面、その関係性によって...僕は様々な配役を割り当てられて来たのだと思う。

ただ、自分という視点からは…自分を主役だと思えた事は無い。確かに自分の意思で生きているし、自分の選択で生きているのに…到着した電車に乗る事も、最寄りの駅で降りる事も誰かに決められてしまっているかの様にいつも自動操縦だ。

「まもなく電車が到着します」

アナウンスを聞いて、隣のベンチに座っていた無口なカップルが、ロボットの様に揃って同じタイミングで立ち上がった。

僕もそれに釣られて立ち上がり...急いで電車に乗り込んだ。考えても仕方のない事を、繰り返し繰り返し考えながら...

僕は...何の為に生まれて来た?

何をする為に?

誰と出会う為に?

彼女にとって何役なんだろう?

はじまりの話の聞き役だろうか?

「あなたにも疑問符は繰り返し提示されます...時間の経過と共に肉体や環境が変化し続ける事で、その都度思い当たっていた尤もらしい答えをも、全部ご破算にして、また新たに存在そのものに対する命題を、あなたに問い掛けるのです...」

続く


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