自分の名前をインターネットで検索しても一件もヒットしなかった...

何かの賞を取った事もなければ、新聞に載る様な功績も、犯罪歴もない。今時、誰であってもＳＮＳのひとつくらいは利用しているのが一般的だが、僕は何もしていない。それじゃあ当たり前だと思いつつも、何だか寂しい様な...同姓同名の人すら存在しないのかと変な傲慢さが顔を出してしまう。

芸能人じゃあるまいし、エゴサーチをした所で、馬鹿馬鹿しいだけだと分かっていた筈なのに...朝の混雑した駅前のコンビニで、サラリーマンやＯＬ、学生の集団が作った行列に並んでレジ待ちをしている間、前に立っていた女子高生がフォロワーが増えたとか、悪口を書かれたとか...そんな事を話していたのを聞いて、何気無く...退屈を紛らわせる程度の好奇心から、携帯電話でついつい検索してしまった。
　
検索結果ゼロ件は予想の範囲内だったのに、自分がまるで社会に何の影響も与えていない、存在しないも同然の人間であると、急に冷たい現実を突き付けられた様で、不用意に傷付いてしまった。
忘れ去られた時が本当の死だと聞いた事があるが、最初から誰の記憶にも残らない、存在感のない人間は...生きている意味があるのだろうか？

「先月から生理来てないんだよね、ヤバくない？」

「ちょっと、ほら」

「あっ...居たんだ」

高校の三年間は休む事なく皆勤賞で、誰よりも早く登校して教室にはいつも一番乗りだった。でも、友達と呼べる人は一人も居なかったし、会話らしい会話をした記憶もない。いじめられていたという訳ではなく、小中学生の頃の嫌な思い出を引きずっていた僕は、自分から進んで目立たない様に振る舞い、計画的に透明人間を演じていた。
　
教室の中で一人だけ、クラスメイトと交わる事のない鎖国の様な生活をしていると、自分には明確な情報というものが全く入って来ない。それだけに、コソコソと話している様な周囲の声には、異常なまでに敏感になる。その頃の僕は顔中ニキビだらけで清潔感がなかった。それだけに、同じクラスの女生徒達の汚いや気持ち悪い、特に臭いという声には凄く神経質になっていた。
　
臭いとかワキガだとか、直接誰かに言われた訳ではない...被害妄想だと言われれば、そうなのかもしれない。けれども、一度聞こえてしまったその小さな声は、僕の中で何度も何度も反芻されて、自分でもコントロール出来ないくらい大きくなってしまった。

汚いや気持ち悪いという言葉は、皆んなの視界に入らない様にすれば対処する事が出来る。しかし、臭いという言葉からは、残念ながら逃げる事が出来ない。ただそこに居るだけで、僕は誰かを不快にしたり、誰かの迷惑になっている。ただそこに居るという事も許して貰えないのである...臭いという言葉は、自分が傷付いてる筈なのに、何故だか罪の意識が芽生える言葉だった。
　
そして、僕は存在してはいけないんだと思う様になった。それからは、消えてしまいたいという気持ちからか、家に帰ると両親に隠れて、毎日の様に自傷行為を繰り返すようになった。
初めて使ったのはコンパスの針だった。最初は先端をちょんと押し当てて、少し血が滲むくらいで満足していた。それが身体は段々と強い痛みを求めてエスカレートし、カッターや剃刀を使い始めると、次第に傷は隠しきれない程深くなった。そして、その異変に気付いた母に、結局は隠し通せず見つかってしまった。

母は余りの衝撃に、その場で泣き崩れ、恐くて何も言えなかったのだろう...もしくは、変に刺激して取り返しのつかない事になってはいけないと思ったのか...その後は傷の事には一切触れず、妙に明るく接してくる様になった。話を聞いた筈の父も、最初は怒るんじゃないかと思っていたが、お勧めだと言ってよくある在り来たりな自己啓発本を渡して来ただけで、特に変わった様子は見せなかった。

それでも二人は表面的に取り繕っていただけで、僕が二階で眠っていると、一階のリビングから喧嘩をしている声が何度か聞こえて来た。
両親を苦しめたくて始めた訳じゃない。何度も辞めようと心に誓った。それなのに、辞めよう辞めようと意識すれば意識する程、僕は麻薬中毒者の様に依存していった。
自傷行為を辞めたのは...彼女に出会ってからだったかもしれない。

やっと目の前の女子高生が会計を始める。僕の並ぶ列には夜勤明けの店長がレジを担当しており、隣の列は都南アジア系の留学生がレジを担当している。通勤通学ラッシュの朝の時間帯は、この二人に加えてフリーターらしき無愛想な男が勤務している事が多い。同じコンビニでも病院帰りに立ち寄る夕方の時間帯は、主婦や女子大生が多いのに対して、朝は男ばかりで華もなく、お客も皆んな急ぎ足で緊張感が漂っている。

「挨拶くらいしろよっ...たく」

ダボダボのニッカポッカを履いた鳶職の男が、チッと舌打ちをしてから、コピー機の前に設置されているポットの方へと向かった。そして、朝食には到底相応しくない大きなカップラーメンにお湯を注ぎながら、レジの無愛想な男を睨みつける。そんな場面を以前は何度も目撃していた。

それでも無愛想な男は、誰に注意されようが相も変わらず無言でレジ打ちを続けていた。いつから働き始めたかは知らないが、僕が通い始めて半年以上経った頃にも、胸にはずっとトレーニング中のバッジを付けていた。挨拶はしないし、動きは遅いし...やる気がないというよりも、生気がない様な男だった。
そう言えば、最近は彼を見ていない様な気がする...なぜ気づかなかったのだろう。

中学1年生の夏…晩酌しながらプロ野球のナイター中継を観戦している父の隣で、母と一緒に桃缶を食べていた。いつもは寡黙な父であったが…野球を観戦している時は興奮したり、悔しがったり…僕は野球に興味が無かったが、野球観戦よりもそんな少年のような父を見るのが面白かった。
両親は共働きで平日の夜は家族3人が揃う事は無かったけれど…土日は至って家庭らしい家庭を体験していた。

「あなた…今年七回忌だからね」

「あっ…お義父さん亡くなってもうそんなになるかぁ…そっか…ごめん、うっかりしてたよ」

「うっかりって…あれ、まだ食べてるの…そろそろ勉強したら、夏休みの宿題は終わったの…もう中学生なんだから」

「厳しいなぁ...」

「無関心な癖に...勉強しないで、あなたみたいになったら困るので...」

僕が大学を卒業した年に両親は離婚した。離婚に踏み切った決定打は、僕の自傷行為が発覚した事だったと思うが、昔っから夫婦仲は悪く、そんな事がなかったとしても、とっくに二人の関係は冷め切っていた。父は残業で休日以外は毎晩帰りが遅く、仕事熱心ではあったが家庭には無頓着で、母も働いてるのに家事や子育ては任せっきりだし、父兄参観などの学校行事や親戚の集まりを忘れる事なんて日常茶飯事だった。僕が社会人になるまでは待ってくれたが、二人がいつ離婚しても不思議ではなかった。

忘れられた祖父は気の毒だが、父はそういう人だった。僕は父の様に誰かの事を簡単に忘れてしまう様な大人には成りたくないと思っていた。けれども、コンビニで働いていた無愛想な男を、僕はすっかり忘れてしまっていた。今になって思い返して見ると、彼が勤務する姿をもう三ヶ月くらいは見ていない。辞めてしまったのかもしれないし、クビになったのかもしれない。彼は常連客の間では教育がなっていないと評判が悪かっただろうし、嫌われていたと思う。それでも僕は、就職氷河期を体験したであろう同世代の彼を見る度に、何処か他人事とは思えず、勝手に応援している気になって、彼のトレーニング中のバッジが取れる日を待ち遠しく思っていた。

それなのに、僕は今の今まで彼が存在していたという事すら、記憶の中から消してしまっていた。このままでは、いつか流産で亡くした我が子の事まで...

「ポイントカードはお持ちですか？」

「あっ...はい」

新しいB5サイズのノートに、赤と黒二色のボールペン...それと彼女に頼まれた低脂肪のヨーグルトに、サラダ味のおかきとカリカリ梅を購入した。

彼女はカリカリ梅が好きで、出会った頃からいつも持ち歩いていた。真っ赤な梅の一粒を綺麗な白い歯で嚙るなり、クシャっと目を細めて、ツンと唇を尖らせる。僕は昔から、その表情が好きだった。大学二年のクリスマスイヴ、僕は駅前にあるケーキ屋さんの軒先で、赤鼻のトナカイの格好をして、ブッシュドノエルやシュトーレン、小さなサンタの砂糖菓子が乗ったショートケーキを販売する短期のアルバイトをしていた。

雪の散らつく街は、イルミネーションに彩られて賑やかで、雑踏はカップル達で溢れており、自分の現実とはかけ離れた世界を目の前に、僕は遣る瀬ない気持ちを燃料にして、大声を出して集客に努めた。

「鼻...落ちてましたよ」

「すみません...ってカリカリ梅ですよね？」

「バレちゃった...眠気覚ましにどうぞ」

製菓学校に通いながら、彼女はケーキ作りを補助するアルバイトをしていた。そんな彼女と出会ってから、一緒に笑ったり一緒に泣いたり...自分が生きている事を実感出来る様になり、気が付くといつの間にか、自傷行為を辞めていた。そして僕は、それまで続けていた自傷行為が、消えてしまいたいという願望からではなく、消えていないという事を確認する為の儀式になっていたのだと悟った。
　
会計が終わりポイントカードを受け取って、店を出ようと振り返る。気が付けばもう後ろには長蛇の列が出来ている。この中の何人が、彼の事を覚えているのだろう。僕はもう忘れない様に、新しく買った青いB5サイズの大学ノートの隅っこに、彼の記憶を書き残した。

「我思う故に我ありと言った哲学者は、もういないのでしょうか？それとも目に見えないだけで、未だに何処かで何かを思っているのでしょうか？
あなたが何も思っていない時、あなたも私も、私達を内包したこの世界も、全てが存在しないのかもしれません。あなたが眠っている間、ほんの束の間...あなたの苦しみも私の苦しみも、あなたの喜びも私の喜びも、何もかもが消滅しているのかもしれません。
それだけ存在とは希薄で、歪で、頼りなくて...絶えず息をする様に、今此処を確認しなければ、過去からも未来からも消息不明になるのです」

続く