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「頑張れ」は悪者なのか?【理想の頑張り方#2】

こんにちは、Studio Topitaです!
私たちは理想郷を本気で「想像」「創造」するサークルと称し、毎月テーマを決めて語り合い、議事録をアップロードしています。
ぱっと聞いただけでは「?」かもしれませんので、どうぞ是非、自己紹介をご一読いただきたいです。
(常連さんは、いつもありがとうございます!)

Studio Topia 1月テーマ 
第1回「『頑張れ』は悪者なのか?」

みなさんこんにちは。
先週はお休みで、今回が今年第1回目の記事となります。
張り切っていきましょう!

今回考えたのは、「頑張る」「頑張れ」という言葉、態度について。
その暴力性が叫ばれる今日ですが、実際のところ、そんなに悪者なのでしょうか。

いま、この記事を執筆するにあたってnoteの下書きページを開きましたが、そこには「午後も執筆がんばりましょう」と書いてありました。
このように、自分を鼓舞したり、他人を応援したりするための言葉として、日々にありふれる「頑張る」という言葉。
振り返れば、私もよく口にしています(このnoteでも散々使っています)。

その一方で、最近では「頑張る」「頑張れ」を控える風潮がある様にも感じられます。
鼓舞したり、応援したりすることが過度になると、自分も他人も負担に感じ、辛くなってしまうという面に注意深くなっているからですね。

1月のStudio Topiaでは、そのような、「頑張る」「頑張れ」をめぐる言説と、社会的な対立に光を当てながら、本来は素敵な意味を持つはずの「頑張る」「頑張れ」が置かれてしまっている現状とその理由を分析し、今後の展望を考えていきます。
今回は、さまざまな考え方を紹介する導入編となっております。
是非お楽しみください☺️

以下、議事録です。

議事録

「頑張る」「頑張れ」はなぜ問題か
まず初めに、今回のテーマ発案者から、なぜ「頑張る」「頑張れ」を問題視する様になったかを話しました。発案者曰く、「『いま頑張れない奴は一生頑張れない』というメッセージを見た時から『頑張る』『頑張れ』という言葉が嫌いになった。自分は頑張れていないのではないか、これでは一生ダメなのか、と、そのメッセージに振り回されて辛かった」ということです。
普通に考えれば、別に、今ここで頑張れなくたって明日は頑張れる可能性もありますし、例えば料理を頑張れなくても歌は頑張れるかもしれないし、突き詰めればそもそも「頑張る」ってなんやねん、と疑問も生じるわけです。が、追い詰められていたり、「頑張る」ことが賞賛される文化の中にいたりしては、そういった疑問も持ちにくく、とことん追い詰められていってしまいます。
ということで、会の中では、「頑張る」「頑張れ」という言葉自体よりも、背後に潜みやすいメッセージ性や、その言葉が使われる関係性の方に問題があるのではないか、と明らかにしていきました。

なぜ「頑張れ」と言わないのか;「頑張れ」は人を傷つける?
まず初めに、社会的風潮としても流れている「頑張れ」と言ってはいけない風潮について考えてみました。
「頑張れ」と言われると辛くなってしまったり、プレッシャーを感じてしまう人もいるため、なるべく使用を控える様な状況ですし、それに則っている参加者も多くいる様です。
確かに、すでに頑張っているのに頑張れと言われると嫌な気分になりますし、求められる「頑張り」と自分が提供できるものがミスマッチな時もあります。また、頑張りたくても頑張れない状況など、いくらでも思いつきます。例えば、運動会の前日に足を骨折してしまったら、次の日の徒競争には出られないですし、「頑張れ」そうにありません。そういった場合に、無神経にこの言葉を使うと、確かに相手を傷つける可能性がありますよね。
人の多様性に配慮し、誰も傷つけない表現の好まれる現代だから、「頑張れ」が使いにくくなっている現状がある様です。

なぜ「頑張ります」と言うのか;「頑張る」ことはやはり理想?
次なる議題は、「話の終わりにつけてしまう『頑張ります』という一言」についてでした。
アドバイスをもらったときや、何か仕事を受け持った時など、締めの言葉として「頑張ります」と言いがちではないでしょうか。
他人を気遣って「頑張れ」と言わない様にする一方で、自分では言う、というのは矛盾していますが、その理由は何なのでしょうか。
会の中では、「頑張ります」を使うのは、未来に向けた明るい印象を持つ言葉であるためや、自分を鼓舞するため、頑張っているアピールをするため、などといったものが出されました。
自分で頑張りたいから言うのは別として、「他人が自分に頑張ることを期待しているだろうからとりあえずアピールする」場合、やはり社会的に「頑張ること=理想」という等式が成立することは間違いありません。「頑張ること」は、中身は置いておいても、忌避される一方、望まれる面もある様です。

「頑張れ」と言ってはいけないか
では、「頑張る」「頑張れ」が望まれる状況と、そうでない状況の境界はなんでしょうか。
他人を傷つけない様に「頑張れ」と言うことを控えているのだとしたら、逆に、応援する言葉として使う分には問題がないはずです。
まず、先ほどの例の様に、すでに頑張っている人や、頑張りたくても頑張れない人、あるいは頑張りたいと思っていない人に「頑張れ」と言うことは良くない、時には無意味だ、という意見が出ました。
さらには、「頑張れ」を言う・言われる人同士の関係、というのも重要な要素と明らかになりました。同い年の人に言われれば気にならない「頑張れ」も、歳上の先輩から、塾の先生から、上司から、親から言われる「頑張れ」はプレッシャーや、場合によっては脅迫に聞こえます。敢えてそういう使い方をすることもあるでしょうが、あまり望まれるものではなさそうです。

そもそも「頑張る」べき?「頑張らない」べき?
では、結局のところ、今の社会では頑張ることが求められているのでしょうか。それとも、頑張らないことが求められているのでしょうか。
結果から言うと、おそらく、頑張ることは求められています。
現状の問題点として、「頑張ることが当たり前・前提」であることが挙げられました。頑張って当たり前、結果が出ない人は自己責任、という考え方です。こうなってしまった理由の1つとしては、新自由主義や、それを支える「頑張った人が報われないのはおかしい」というひとつの考え方でしょう。
その一方で、そんな考え方ではおかしい、そもそも「頑張った」人は本当にその人だけで頑張ったのか、「頑張らない」人は本当に頑張っていないのか、そう見えているだけではないのか、あるいは「頑張れる」人に都合のいい社会になってはいないか、など、の理由から、その考え方に反対する人もいます。
「頑張る」の内容が誰かによって決められ、その枠組みの中で頑張るか頑張らないかを一律に決められてしまうことが今の問題点だと言うことができるでしょう。
今後は「頑張る」にまつわるさまざまな要素を踏まえながら、理想の頑張り方を考えていく必要があります。

これからの「頑張る」「頑張れ」の在り方とは;来週に向けて
では、今後の「理想の頑張り方」「『頑張る』『頑張れ』という言葉の在り方」とはどの様なものでしょうか。
それぞれが自分なりに工夫をしながら頑張ったり、配慮をしながら「頑張れ」と発言することももちろん大切でしょう。例えば、「頑張れ」という代わりに「陰ながら応援しています」などというのは、よく使う言葉かもしれません。
その一方で、個人レベルでは解決できないことがあるのも確かです。
「他人に頑張れと言えなくなる社会は嫌だ」というコメントも出されましたが、本来他人を応援したり、他人の活躍を祈ったりする際に使う言葉なだけに、そのマイナス面にばかり注目が集まり、一律に使ってはいけない様になってしまうのは、確かに嫌だし問題を感じます。
ということで、どうすれば他人を応援したり、活躍を祈ることがプレッシャーに感じにくくなる社会となるのかを考えていく必要があります。

今回はここで時間が来てしまいましたので、次回、これからの頑張り方、「頑張る」「頑張れ」のあり方を考えていこうと思います。
ポイントは、「理想の頑張らない方(変ですが)」になってきそうです。嫌なことから逃げていいのか、頑張らなくてもいいのか、それとも、どんなことにも立ち向かっていく必要があるのか。他人を素直に応援できる社会とはどの様なものか。
次回以降、また探っていこうと思います。

面白かった意見

好きなものは頑張らない
自分の趣味や、興味のあることは、特に努力をするという感覚はない。そういうものに関して、他人から「頑張れ」と言われるのは嫌だ。

頑張っている自分が好き
目的を達成するために頑張るのではなく、頑張ること自体が目的。
「頑張ります」というのは自分のためであり、その言葉に鼓舞される面もある。

「頑張れ」は言い換えられる
相手に過度にプレッシャーを与えない様、同じ意味でも軽い雰囲気をもつ「ファイト」を使ったり、相手の行動を制限しない「陰ながら応援しています」を使ったり、自分も頑張ることを強調する「頑張ろう」を使ったりする。

「頑張らなくてもいいよ」というなら、その先も提示するべき
頑張ることが辛い、逃げたい、と言う人に対して「頑張らなくてもいい」と(経験上)分かっている人がいうことは、とても大切だし、望ましい。その一方で、ただ「頑張らなくていい」というだけでは無責任で、その先にどうできるのか、道を示すことも重要である。

編集後記

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

今回は理想の頑張り方や、「頑張れ」という言葉の使い方について考えてみました。

私自身、頑張ることも、「頑張れ」と言われることも、言うことも、嫌いではありません。
特に「頑張れ」という言葉の使い方ですが、私はかつて「日本人の『頑張れ』は『うまくいく様に祈っています』というニュアンスを持つ」というコメントを見かけて以来、この言葉が好きですし、使う時はそういった意味を込めていう様にしています。
ただ、自分自身他人の「頑張れ」や、もっと言えば「なぜ頑張らないのか」という(ありもしない)目線に悩まされることも多く、他人に使う時も慎重になることは確かです。

今回、Studio Topia的な目線、つまりは理想の社会と頑張り方、「頑張れ」という言葉の使い方を考える中で、「頑張る」という概念や言葉が社会や人間関係にかなり影響されるのだと言うことを強く感じています。
そして、現代の社会では、かなり危ない言葉になりうるし、そういった意味で悪者あつかいされやすいのだとしみじみ感じています。

単に言葉としてではなく、人の生き方や社会のあり方にも大きく関わる「頑張る」ですから、来週以降、これからの「頑張り方」を導き出せると嬉しいです。(奈都)

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Studio Topia 1月テーマ「理想の頑張り方」
第1回「『頑張れ』は悪者なのか?」
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