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皆に送る手紙 by NA

こんにちは、Naです。
”れんれん、あけちゃん、うえさま、みよしちゃん、りっち、りかちゃん、たける、なっちゃん” 大切なマッコリチーム。
そして ”こうへい、こうしろ、たいせ、なんぶちゃん、みさと、ゆきの、あけみ、みちこ” チャミスルチーム、
そして両チームを行き来したリキ、えーちゃん、
行政的な仕事と通訳を手伝ってくれた李さん、ギフン、ワークショップの過程をじっくりと記録してくださった瀧田さん、
このワークショップを企画してくれたチェまで、今あそこの日本にいる友達へ。

もう十日が過ぎました。 
”お元気ですか??”
こうのように叫ぶ映画「ラブ・レター」のあるシーンが思い浮かびます。
私は韓国に来てすぐに他の演技ワークショップと作品の練習を始めました。 多分、SORAも自分の仕事を続けるのに忙しかったでしょう。
慌ただしく数日を過ごした後、今しばらく余裕のある時間を迎えました。
じっと座って、私たちが過ごした3日間を一つ一つ振り返っています。

本当にありがとう、意味のある時間だったと思います。
日本人と韓国人の間には
大きな違いが存在することに気付くことができました。
地理的には遠くありませんが、文化的、社会的には多くの違いを感じました。 それは、どれが良いか悪いかではありません。
ただ言葉通りの「違い」でした。
それは非常に根本的な「違い」だったでしょう。
長く作られた家族の中でのルール、社会生活のルール、災害に対して対処する方法、自然と関係を結ぶ方法、人と人の間の疎通方式から生まれたものだと思います。
「感覚」というのは文化、社会的なものよりももっと以前のものに近いです。「本能」に近いかもしれません。その「本能」は、生まれ育ちながら認識された世界観によって生まれたのでしょう。
私たちは違う「本能」を、つまり違う「感覚」を持っていると感じました。 驚き、神秘的でした。
ある刺激を私たちは違う風に受け止めていました。
でも3日が過ぎた後は、それを同じように、あるいは素敵に受け止めていると感じました。それが可能な理由は、私たちは皆、「演じる人々」だったからです。

私は韓国に帰って一日後にある大学の舞台芸術研究所の人々と一緒にワークショップを行いました。 その人たちは皆韓国人ですが、演技の経験を持っている人たちではありません。 ただ舞台芸術を文化研究者として勉強する人たちでした。
ほんの一日二日前に会った日本人の友達である皆さんから感じられなかった高い壁を感じました。
ああ、この人たちはやっぱり俳優じゃないんだ。。。
何でも受け入れるからだ、何でも反応するからだ、開かれたからだ、コミュニケーションするからだ、他人とシンクロするからだは
国籍を問わず俳優たちが追求するものだということを改めて悟りました。

皆さんに直接会えなかった時に韓国でモノローグ映像を繰り返して観ていた時と、3日間過ごした後に改めて観た皆さんのモノローグは、本当にずいぶん違うと感じました。
チェさんは違うように感じたかもしれませんが。
SORAと私はとても驚きました。
言語を直接内容として伝達してもらうことができないので、むしろもっと音に、視線に、瞳に、身振りに、空間の使い方に、周りの人との関係に、存在しない相手役を認識する方法に大きな差が出たということを感じました。
直接演じた皆さんは認識していなかったかもしれません。
ただ私とSORAがもっと大きく感じたのかも知れません。ですが、3日間の体験が、3日間の経験が何かを変えられるきっかけになったと感じました。 帰りの飛行機の中で、少なくとも私たち二人は本当に良かったと言いました。

私も、SORAも、チェさんも、皆さんも俳優です。
これからそれぞれの役割があるだろうし、それぞれに出会う作品があるだろうし、また、各々が出会う相手役が、監督が、無数の環境があるはずです。 その度にすべてを受け入れることができる「柔軟なからだになる」ことを願います。

韓国語には「とんでもない」という意味を持っている「터무니(トムニ:土台(礎)の跡) 없다」という言葉があります。
その原語は建築用語から出ました。家を建てる時、あるいは建物を建てる時、地面の形や模様、高低などをそのまま受け入れ、その上に重ねて家を建てる方式のことです。 最近のやり方はそうではないでしょう。地面を削って平らにし、地下を掘って建物を建てます。 これは西洋のやり方です。
とんでもない (터무니 없는) やり方です。
韓国語には何か根本が感じられない時、「터무니 がない 없다(とんでもない)」という言葉を使います。

韓国も日本も土地の本来の模様を守りながら、建築物を土の形に重ねて建てる方式を共有していると思います。 少しは違うかもしれませんが。
それは東洋の考え方ですから。
自然を無視して削ったり押さえつけたりするより、
自然の形をそのまま受け入れる方式を好むのです。
相手役を削って平らにし、自分のやり方で調整するよりも、その形をそのまま受け入れること、周辺から聞こえてくる音、空間、物、エネルギー、空気の流れ、雰囲気などを受け入れること、ただ受け入れるだけではなくそれによって変化する自分をまた表出して表現すること、
だからそれが循環するのです。 こういうのが本当の우리(ウリ)の意味かもしれません。私もそれが簡単ではありません。
しかし、1、2回の経験でそれが可能だということを体験しました。 そのため、もう少しそれを経験するために探し、また、そのような状態を維持したいと思っています。

日本の演技と韓国の演技はですね、
いや、結局何が違うし、何が同じでしょうか??
韓国俳優はもう少しダイナミックに演技する、おそらく現在の状態よりはるかに多い移動のエネルギーが強いと思います。
力動、動き、変化、受容し変化することです。
意思疎通しコミュニケーションをとることです。

視覚的に発達した人は他の人が見ることができない色を見たりします。可視光線のスペクトルを超えて感知する能力を持っています。 聴覚的に発達した人は、他人が聞こえない音を聞いたりもします。 音からある感情や色を感じたりもします。
天才と言われる料理人は、他人には感じられない味を感じたりもします。
俳優といえば、普通の人には感じられい、ある世界を感覚する能力が必要だと思います。
何て言うんでしょうか。他の人の体、感情、感じ、気分、ムード、雰囲気を感覚する能力、物ともそれを疎通する能力、水·火·地·土·木·風からもそれを読み取る能力です。
そんなものを備えた人々から感じられるエネルギーを私は確かに見ました。 そして、私は皆さんにそのようなエネルギーの可能性を感じます。

パソコンの画面の前に座って一人一人の顔を思い浮かべ、一人一人の声を思い出します。
前にしたように一人一人にそれぞれ別に手紙を書こうかと思いましたが、それよりこのように全体にメッセージを残すことがもっといいなと思いました。
私は皆さんに教えを与える高い所に座ったマスターではありませんから。
同じ目線にある同僚俳優ですから。
感じたことが多いほど課題もたくさん残りました。
皆さんのための課題というより、
この仕事をしている人として、もっと探求したい課題です。

いつかまたこのような場が設けられてお会いできたらと思います。
ワークショップもいいですが、俳優として一緒に作品ができたらもっといいと思います。
ありがとうございました。
皆様にお世話になりました。 暖かいです。 どうも。
友情が初めて「우리(ウリ)」の前提条件ではないかと思います。

さようなら、お元気で、
また会えますように···

2023. 1. 25 - Na

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