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何て呼ぶんだ、この現象。

『年末→年始心変わり症候群』?

幼少期から毎年恒例ウン十年と経験していることなのだが、例に漏れず今年も悩まされているわけである。名もなきこの症状に。

年末年始や小晦日大晦日、正月、元旦などの仰々しい名前を持ちながらも、皮を剥げば単なる月末月初であり、当たり前にひと続きの日常であるはずなのに、私にとって12月31日までの自分と1月1日からの自分は全く異なる色味を帯びている。

「わけがわからない」と思われる方もおられるかもしれないが、すこし具体的に言えば、1月が始まると、それまでに計画や心積もりをしておいたやりたかったこと·やるべきことが急にやりたくなくなったり、以前は関心をもたなかったこと·忌避してきたことに対してやはりやるべきなのではないかと途端に駆り立てられたりするようになるのだ。
毎年起こる、この雷に打たれたかのような心変わりに、1月を生きる私はひどく戸惑う。

1年の総仕上げにかかる濃くむせるような12月の切迫感に対して、開き直るかのように白々と明けてゆく1月のペースチェンジについていけないのだろうか。

年末の市場

もちろん仕事や人間関係というのは個人や組織の間における「約束事」であり、そんな謎の心変わりで行動を変えては周囲に迷惑がかかる。
年始も同じように仕事や家事をして、日々を紡ぐ。
ただ、据わりが悪いというのか、どうにも落ち着かない。2024年、今年の年始はその据わりの悪さが際立っている。


周りの人に聞いてみました。

この現象は私特有のものではなく、声に出さずとも大多数の人が経験しているのではないかと思い、周囲の人に「こういったわけで、1月って何だか戸惑わないかい」と雑なインタビューを行ってみた。
回答は以下のとおり、

●そう言われればそんな気もする。
●12月も1月も同じプロジェクトに取組んでおり、そんなに変化は感じない。
●何十回と年末年始を経験しているため感覚が摩耗しており、ほぼシームレスな日常である。

この戸惑いを誰かと分かち合いたいというのに、結果はかばかしからず。私の周りには茫洋とした人が多いように思う。


戸惑いは、戸惑いのままに。

さて1月某日、約10年ぶりに訪れた名古屋にて帰りの新幹線を待つ時間をつぶすために、JRゲートタワーモールのブックカフェでレモンティーを飲んでいる。(通常なら絶対にコーヒーなのだが、モーニング三昧&泊まったホテルがコーヒー無料だったため、貧乏根性で飲みすぎて胃をやられた。)
読むつもりもなかった江戸の火消し小説を読みながら。(今村翔吾先生の『羽州ぼろ鳶組』シリーズ。キャラクターが彩り豊かでテンポよく、存外ハマる。)

ブックカフェでのお茶は趣味だが、右も左もわからない名古屋でひとり、火消し小説を読む状況がなんだかあまりにも間抜けで「もう、今年はこれでいいか。」と思い始めた。

年始からSNSは今年の抱負を語る眩しい投稿に溢れているが、12月まできちんと歩んでいたはずなのに、急にどこへ行けばいいのかわからなくなってしまったような心持ちの私は、未だ戸惑いを抱えたまま。
戸惑うのにも疲れてきたので、今年はひとまずこんな感じで、「どっち向いて歩いてるんだかよくわからない」感じで行こう。


余談(いやもうずっと余談。)

こんな調子で、今年も我がnoteアカウントは「ヤマなし、オチなし、イミなし」を旨としております。
年末年始の心変わりに適正なネーミング(アルティメットメタモルフォーゼとか、年越し厨二病とか)を思いついた方や、同じような経験を持つ方は、ぜひ教えてくださいませ。

しからば。


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