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経済学の陥穽


経済学の歴史


経済学の誕生


 経済学は,アダム・スミスから始まりました。アダム・スミスは,ニュートンが自然界を合理的に解明したように,社会を科学的に分析しようとしたのです。名著「国富論」にて表明されたアダム・スミスの経済理論は,三人の経済学者に受け継がれました。リカードとマルサスとマルクスです。リカードは資本家の立場から,マルサスは地主の立場から,マルクスは労働者の立場から,経済学を発展させました。ちなみに,ここまでの経済学説を「古典派経済学」と呼びます。古典派経済学の特徴は,「階級という概念」に縛られていることです。

経済学の発展


 時代の経過とともに,古典派経済学は時代遅れになりました。なぜなら,民主主義の浸透により,概念としての階級が意味をなさなくなったからです。そこで登場したのが,経済学に新風を吹き込んだレオン・ワルラスでした。ワルラスは,資本家でも労働者でも地主でもなく,一般的な個人の立場から経済学を再構築しました。彼は,すべての市場の相互依存関係を同時に考察する「一般均衡理論」を唱え,経済学に数学を導入したのです。レオン・ワルラス以降の経済学を「新古典派経済学」と呼びます。

経済学の革命


 ワルラスの一般均衡理論は,すべての経済現象を説明できました。シュンペーターがワルラスをして「最も偉大な経済学者」と称する所以です。しかし,完全無欠の理論などこの世に存在しません。理論は,いつか現実に追い越されます。実際,大恐慌の勃発により,一般均衡理論は破綻しました。なぜなら,均衡理論では,非自発的失業者の存在を説明できなかったからです。そこで登場したのが,ジョン・メイナード・ケインズでした。ケインズは,政府の積極的な支出により需要を喚起し,経済的停滞を打破する方法を説きました。いわゆる「不均衡の理論」です。資本主義経済は不完全な代物であり,恐慌が生じたならば,政府が積極的に関与せねばならない。つまりケインズは,自由主義経済の中に社会主義的要素を導入したのです。

経済理論の破綻


 しかし,ケインズ経済学も綻びをみせる日が来ました。オイルショックです。ケインズ経済学では,インフレと失業の同時発生が説明できなかったからです。自由主義もダメ,ケインズ主義もダメ。そこで登場したのが,折衷案を唱えたサミュエルソンでした。彼は,高度な数学を用いつつ,短期ではケインズ,長期では新古典派の理論を併用しました。サミュエルソンは優秀な人物であり,彼の書いた「経済学」はしばらくの間,教科書として用いられました。が,サミュエルソンの折衷案は,折衷案であるが故に理論的解明の破綻であると,私は考えています。

経済学の突破


資本主義経済の落とし穴


 経済学は今,二つの課題に直面しています。不平等と環境破壊です。経済が発展すればするほど経済格差が広がり,自然環境が破壊されるのです。確かに,トマ・ピケティは「21世紀の資本」において,不平等の原因を究明しました。確かに,レイチェル・カールソンは「沈黙の春」において,環境破壊に疑問を呈しました。しかし両者とも,その解決策を与えませんでした。

二つの科学


 物理学や化学のような自然科学であれば,自然の解明がその本務なので,理論家は現象を解明するだけで結構でしょう。しかし,経済学や政治学のような社会科学は,人間が関与する以上,理論家は現実を改善する方策を呈示せねばなりません。つまり,人間の意志が介在する以上,人間の意志決定を方向づける必要があるのです。

エコノミック・アニマル


 経済学は,経済的個人を前提にしています。経済的に合理的な行動をする利己的人間。しかし,利己的な人間は多くいても,合理的に行動する人間はどれだけいるでしょうか?また,人間は利己的動物なのでしょうか?経済学の矛盾とは,経済的個人という抽象的仮説にあるのです。

新しい経済学へ


経済学のコペルニクス的転換


 自由主義を唱えたアダム・スミスは,利己的な個人を前提にしました。集団主義を唱えたカール・マルクスは,均質的な集団を前提にしました。しかし,両理論とも,人間の尊厳を毀損しています。人間は必然的運命に翻弄されるモノに堕してしまい,本来的な人間を反映していないのです。
 現代世界の特徴は,科学的理性論・経済的唯物論というメフィストフェレスの支配です。まるでウィリアム・ブレイクの「ニュートン」のように,人間が合理性だけを信じる存在に矮小化し,人間存在の深さが姿を消してしまったのです。

ウィリアム・ブレイク「ニュートン」

人間は必然的存在ではありません。人間は自由な存在です。人間は高貴な人格です。新しい経済学は,経済的個人という前提を打破し,人格的個人から出発せねばなりません。

人格とは何か?


 人格は,単なる自我ではありません。つまり,肉体的欲望と経済的功利性に支配されるだけの存在ではない。人格は,全体としての人間です。人格は,造物主の似姿であるが故に高貴な神性であり,唯一無二の被造物として責任ある存在です。
 人格は,超人格を要請します。すなわち,人格とは神の前に立つ人間です。人格は,他の人格を要請します。つまり人格とは,複数の人格の意であり,ある種の共同体です。人格は,被造物の頂点に立ちます。故に,人格のために造られた自然を保護します。むしろ,自然を改良し発展させ神の国の一部と化すこと,これが人格である人間の任務です。
 以上を総合すると,人格は三つの関係性によって規定されます。上に向かっては超人格である神と,横に向かっては人格である他者と,下に向かっては非人格である自然と。人格は,神に向かって高みを目指し,異質な他者と対話し,自然と調和する持続可能な社会(Sustainable Economic Development)を形成します。新しい経済学は,必然と隷属に支配された唯物論的自我ではなく,自由と責任によって行動する全体的人格から出発せねばなりません。
 
「すべての人は,自分自身の中に創造力と独自性の霊感を汲むところの,自分自身の生命の作者である」(ブルガーコフ「経済哲学」)
 

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