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神なき時代の信仰

「自分の十字架を負う者でなければ,わたしの弟子ではあり得ない」(ルカ伝14-27)
 


キリストの弟子とは?


 聖書には四つの福音書があり,その内の三つを共観福音書(マルコ伝・マタイ伝・ルカ伝)と呼びます。なぜなら,これら三つの福音書は,同じ資料を用いているからです。そして,同じ資料を用いているということは,同じ事件・同じ文言が登場することを意味します。

マルコ伝8-34


 マルコ伝におけるこの言葉は,8章~10章の内容から判断すれば,「弱い者を受け入れよ」という意味です。つまり,イエス・キリストの弟子は,イエスと同じように,弱い者・虐げられている者・小さな者を受け入れなければなりません。

マタイ伝10-38


 マタイ伝におけるこの言葉は,マタイ10-34~39から判断すれば,「わたしのために命を捨てよ」という意味です。つまり,イエス・キリストの弟子は,キリストに完全服従して,己の人生を捧げねばなりません。

ルカ伝14-27


 では,今回吟味するルカ伝の意味は何でしょうか?後文のルカ14-33から判断すれば,「一切を捨てて無になれ」という意味です。つまり,イエス・キリストの弟子は,釈迦がすべての物(所有欲さえも)を捨てて出家の道を突き進んだように,一切合切を捨てねばならないのです。

聖句の意味の多様性


 同じイエスの言葉であっても,福音書によって意味が違います。「自分の十字架を負って,わたしの弟子であれ」マルコ伝において,この言葉は他者に向いていました。マタイ伝において,この言葉はに向いていました。ルカ伝において,この言葉は自己に向いていました。いずれにせよ,人を愛することも,神の意志を完遂することも,自我を捨て去ることも,同じ信仰の裏表に過ぎないのです。

諸宗教の共通地盤


仏教の奥義


 仏教の理想は,無我の境地です。そして,無我の境地を得た時,独立した個としての自我が消滅し,万物の繋がりである「縁起の理法」を体得できます。仏教の理想を表現した思想家として,禅宗の無門慧開がいます(「無門関」)。彼は,絶対無を主張しました。絶対無とは,「ない」という意味ではありません。つまり,単なる否定や空虚ではない。「ない」という概念さえない究極の肯定であり,最高の充溢なのです。

道教の奥義


 道教の理想は,無為自然です。賢(さか)しらな心を捨て去り,真理のおもむくままに己を委ねる境地。道教の理想を鮮やかに表現した思想家に荘子がいます(「荘子」)。彼は,無無無という心の境地に達しました。最初の無は,「無になろうとする心」です。次の無は,「無になろうとする心をも無にする心」です。そして最後の無は,無にこだわる意識そのものを放棄し,無そのものとなって生きる境地です。このような東洋的無は,傍観者的な静止状態ではなく,最高の創造的行為と理解すべきでしょう。

イスラム教の奥義


 イスラム教の教えの中心は,一なる神です。絶対的唯一神の存在。コーランの世界観において,すべては神の御心であり,すべては神の計画,神の御業です。しかし,現代のイスラム過激派のような排他的一神教は,イスラムの本来的精神ではありません。神が一であるのなら,神はすべての宗教を包容する存在でなければなりません。つまり,統合的一神教こそ,イスラムの本来的精神なのです。
イスラム教本来の精神を提唱した者にイブン・アラビーがいます(「叡智の台座」)。彼は,真の神を「純粋一性」と呼びました。アラーやエホバと名前がつけられるような神は,本当の神ではありません。なぜなら,名前を付することによって,絶対者を限定してしまうからです。もし神が神ならば,神は名前のない存在,一切の存在を超越した「存在そのもの」でなければなりません。
 そして,唯一神教の結末は,一切が神の自己顕現となります。私もあなたも自然も何もかも,神の表現です。まるで雪舟の水墨画のように,個々の事物が独立しながら一体となって溶け合い,一つの有機的世界を構成しているのです。そして,小さな自我から離脱した信仰者は,神御自身の道具である大我となります(自己消融/ファナー)。

宗教的調和のキーワード


 このように,あらゆる宗教を統合するキーワードは「無」です。本来的自己に目覚める無の境地こそ,唯一神教と汎神論と多神教を支える共通の土台なのです。キリスト教の無底(ヤコブ・ベーメやシェリング)も仏教の空(龍樹や提婆)もイスラム教の消滅(ハッラージュやスフラワルディー)も,無の別名と言えるでしょう。
 無に立脚した信仰とは,西田幾多郎のいう「逆対応の論理」です。この世は,宗教同士が争い合い,民族同士が殺し合い,人間同士が憎しみ合う神なき場所です。しかし,私たちは,この神なき場所の真っ只中で神を見るのです(「場所的論理と宗教的世界観」)。神と真理が失われたこの真っ暗闇の中で,罪深き心の底から響き渡る「恵みある声」こそ,我々の時代の神なのではないでしょうか。
 

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