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「社会的影響」で罪の重さが変わる社会で、本当にいいんですか?

例のスシローペロペロ動画の件で、スシロー側が賠償金6,700万円を求めて少年を提訴したという件が話題です。

提訴したというだけなので、実際にどの程度の請求が少年に行くのかはまだわかりません。ただ上の記事が述べているように、スシローが被った損失のうちどの程度が少年の影響によるものかどうかは検証が難しく、おそらく6,700万全額を少年側が支払うことにはならないような気がします。

しかしSNSでは、この6,700万は社会的影響を鑑みれば妥当だ、もしくはもっと重くすべきであるというような意見を多数見かけました。また、6,700万は重すぎるかもしれないが、見せしめとしてこれは必要なことだといって賛成するようなものもありました。

個人的にですが、こういった風潮には不気味さを感じます。少年はすでにSNSによる社会的制裁をこれでもかと受け、学校も退学しています。このうえ金銭的にもほとんど一生もののような負担を彼に背負わせるようなことが、あまり正しいとは思えないからです。

もちろん彼のやったことを擁護はしませんが、だからといってこの件が彼の人生をほぼ「詰み」にしてしまってよいほどの重罪だとは、僕にはあまり思えません。「これだけ多くの人に迷惑をかけた」という市民感覚だけで彼を糾弾してしまってよいなら、世の中にはもっと騒がれるべき悪行が他にいくらでもあるでしょう。

見せしめだから仕方ないという人も、だったら見せしめが彼でなければならない理由は一体何なんでしょうか。この事件以来、同じような例はSNS上でいくらでも報告されています。その中で彼だけがほとんど生贄のように差し出され、「みんなのより良い暮らしのための」犠牲にされるような社会になってしまって、本当にいいのでしょうか。

ある犯罪行為に対してどれだけの報いが必要かという判断は、司法の客観的な目によって決められるべきです。社会的に影響が大きかったからこうなるのは仕方ないとか、見せしめや抑止のために少年の背負う罪や責任を重くすべきであるという意見には、個人的には賛成できません。

もちろん世の中にはいろんな意見があっていいと思うので、6,700万が妥当だという人はそれはそれでいいと思います。しかし、僕自身はそうした風潮にはできる限り与しないように気をつけようと、少年を糾弾して盛り上がるSNSを見ながら強く思いました。

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こうして強めの言葉でいまの風潮を否定したくなった理由は、いま僕が暮らしている中国が、いわゆる「社会的影響」が犯罪の量刑などに強く関わってくる社会であり、その社会がどういうものか知っているからかもしれません。

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