昭和の暮らし:(11)子供の遊びとおもちゃ

妹と私は近所の同年代の子たちと公園や庭や玄関先で遊んだ。記憶の中で一番古い遊びは、ぶらんこか、積み木か、そのあたりかと思う。

当時、公園にはぶらんこ、滑り台、砂場、鉄棒、雲梯ぐらいがあったように記憶している。いとこが遊びに来たら、その公園の遊具のない広いスペースでバドミントンをした。お正月には羽根突きをした。
近所の友達と遊ぶのはたいていこの公園だった。かくれんぼ、はじめの一歩、鬼ごっこ、竹馬が流行ったときもその公園で練習をした。
「かかし」というケンケンパをする遊びは飽きるほどやった。瓦の破片か、平ぺったい石を探して狙ったマスに投げ込んで、片足で飛んでその石を拾うのだが、ルールが思い出せない。

夏は、遊びの合間に家に駆け込んで、トイレで用を足して麦茶をごくごく飲む。すぐにまた外に出て遊ぶという午後を過ごした。
外にいるのが楽しすぎて、暗くなっても帰らないでいると母にひどく叱られた。なんどか、玄関もお勝手口も鍵をかけて閉め出された。

ある日、もう小さいこどもではなくなる年齢に差し掛かった頃、いつものように遊びすぎて閉め出された妹と私は、どうせ家に入れないし入れても叱られるだしだしということで、近所の友達の家でさらに夜まで遊び続けたことがある。さすがに母が心配して近所を探したらしく、その後は閉め出しには合わなくなった。

公園は、名古屋市の公園整備の一環で、70年代にかなり大幅な変化があった。遊具は一新して充実した。藤棚もできた。いちょうの木なども植えられた。子どもがたくさんいる時代、公園整備の時代、私が過ごしたのはこの姿の公園だった。

高学年になるとバレーボールやドッジボール、どろじゅんなんかをやっていた。縄跳びもかなりやったので、二重跳びが100回以上飛べるようになった。

自転車を手に入れてからは行動範囲が広がった。近所のみんなで別の公園まで遠征した。
名古屋では有名な「富士山」がある公園がいくつかあった。それらの公園を巡るのは冒険みたいで楽しかった。もちろん、暗くなって叱られることもよくあった。でも自転車から降りたくなかった。

公園以外では、小学校2年、3年のころは、自宅や友人宅でお人形さんごっこをした。どの家でお人形さんごっこが開催されてもすぐに準備してでかけられるように、自分のお人形セットを一つの箱にまとめてあった。

私のお人形はスカーレットちゃんという白いウェディングドレスを着たきれい系の人形だった。さらにサトウ製薬のうさぎと、コルゲンコーワのかえるを人形箱に入れていた。かえるは小さな宝石箱的な小物入れのふとんの中に寝かされていた。どれも大事にしていた。
妹のお人形は可愛い系の大きなエミリーちゃんとかいう子だった。
近所の子たちはリカちゃんや、あるいは寝かせると目を閉じるのを持っていた。
人形遊びは、遊びというよりも各自が準備をするまでが楽しかった。服を脱がせたり着替えたり髪を結んだり、靴を履いたり脱がせたり。それだけで1時間ぐらいは過ぎていった。

少し大きくなると、人形は髪の毛が絡まったり抜けたり、洋服の色が黄ばんだりレースが解け落ちたり、顔が薄汚れたり唇の色がなくなったりしていった。我々もお人形を箱から出さなくなっていった。

家にあったおもちゃの中で一番長く使ったのは、「ブロック」だった。いつも妹と一緒に家を建築して楽しんだ。雨の日はじゅうたんの模様で遊ぶか、ブロック遊びか、読書をしていた。

幼稚園以前から、家の中で一人遊びするときには積み木で遊んだ。小学校へ上がる頃にはもう使わなくなっていた。
積み木は建てて構造物を作るのももちろん楽しいが、書いてある絵と文字を見るのが好きだった。表にひらがな一文字、裏に絵が書いてある知育玩具的な積み木だった。「す」の裏にはすいかの絵、「め」の裏にはめろんの絵があるが、ある日「め」を紛失した。父が予備の積み木でメロンの絵を書いた「め」を作ってくれた。

ひらがなはその積み木ですぐに覚えたので、幼稚園の頃から絵本が大好きだった。幼稚園で配本していたABCブックという絵本はとくに気に入っていた。その絵本で、ガルガンチュワとか利口なお妃とか、長靴をはいた猫、フランダースの犬などのお話を知った。読みすぎて、ボロボロになっていた。
ABCブックは毎月から配本される。Aから26冊あるはずだけれど、途中で卒園して揃えられなかった。アルファベットもその本で覚えた。

家には絵本はアンデルセンやグリム童話、その他有名な絵本はなんでもあった。人魚姫やシンデレラはお気に入りだった。妹も読んで、小学校に高学年になるころにお世話になった幼稚園に寄付した。園長先生が喜んで、お返しに48色入りの素敵な缶入りの色鉛筆を贈ってくれた。妹も私もその色鉛筆で絵を塗りまくった。

学校で流行るおもちゃもあった。小学2年生のときに「千代紙」が流行った。千代紙の模様の違うのを、友達と交換して種類を増やすのが大流行した。
悲しい思い出だけど、クラスで私だけ、千代紙を持っていなかった。母が流行を知らず、買ってもらえなかったのだ。母は、本はほしいだけ買ってくれていたけれど、おもちゃや文具の流行りには疎かった。
流行りが廃れる最後の最後に母は気がついて私に千代紙を1パック買ってきたが、すでにクラスメイトは交換遊びに飽きてしまっていたので、かばんの中に新しい千代紙を忍ばせたまま交換を楽しめずに終わった。

その後、この失敗から、流行るおもちゃに敏感になった母は、一応のものは私と妹に買い与えるようになった。アメリカンクラッカーとか、竹馬、バレーボールなどである。お手玉も作ってくれた。

おもちゃは買ってくれるようになったけれど、文具の流行りにはあまり敏感ではなく、その後サンリオが大流行する小学校、中学校の期間を通して、私がキティちゃんを手にすることはなかった。
見かねた友達が、中学2年生のときに誕生日のプレゼントとしてキティちゃんのバッグとか文具とかをくれた。うれしいような、みじめなような気持ちだった。
この、ちょっと感覚のずれた母親に、私はその後も苦労することになる。