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『観光客の哲学』とソーシャルアパートメント

2023年6月19日に東浩紀の単著『観光客の哲学 増補版』が発売された。
この本は、2017年4月8日に発売され、第71回毎日出版文化賞を受賞し、紀伊國屋じんぶん大賞2018で第2位を記録した『ゲンロン0 観光客の哲学』に、新章2章・2万字を追加したものである。

僕は2018年に『ゲンロン0 観光客の哲学』を友人に借りて読んだが、今回増補版を読み、より深い再読の体験をした。以前よりも、内容がより深く自分に入ってくる感覚が嬉しかった。そして、2018年当時『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んで自分がした破天荒な決断を思い出した。
この記事ではその決断の答え合わせをしたいと思う。
誰かがこの文章を読んで、『観光客の哲学 増補版』とその姉妹編にあたる『訂正可能性の哲学』(2023年8月末刊行予定)を読んでくれるようなことが万が一にもあれば、それこそ誰かにとっての良い「誤配」になるのではないかと考え、noteに書いてみることにする。
(以後、『ゲンロン0 観光客の哲学』『観光客の哲学 増補版』の区別をせずに単に『観光客の哲学』と呼ぶ)

2018年の僕の状況について

2018年当時の僕は東京で一人暮らしをしていた。平日は転職したばかりの会社で膨大な量のタスクをこなし、休日は主に家で過ごし、TSUTAYAでまとめて借りてきた映画を1日あたり2~3本観ていた。たまに外に出る時は、腐れ縁の友人と飲んだり駒沢公園でランニングしたりライブを観に行く。それなりに気楽な生活で楽しかった。一方で、「俺の人生これから先もう何も起きないんじゃないか」という思いをぬぐい切れずにいた。世間の流れにもついていけない感覚、このままずっとひとりなのではないかという不安がふと顔を出す。
そんな中でたまたま読んだのが、友人に借りた『観光客の哲学』であった。なぜこの本を借りたのか、今となってはその理由は覚えていない。東浩紀の著作は『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』、『一般意思2.0』を読んでいただけなので、僕は東の熱心な読者というわけではないと思う。Twitterでたまたま良い評判を見て、持っていそうな友人に声をかけたのかもしれない。とにかく、たまたま手に取った一冊だった。

『観光客の哲学』について

『観光客の哲学』は、観光客という主体についての哲学的な価値や可能性についての評論である。新自由主義と悪魔合体したグローバリズム、そのバックラッシュ的に発生するテロリズム、ナショナリズムの台頭という混迷した現代。資本主義を盲目的に推し進めて貧富の格差を広げ続けるような主体ではなく、かといって外国人や異質なものを差別する排外主義的なナショナリストや、社会への怨嗟を罪のない人々に向けるテロリストのような主体に陥ることもなく、人間が成熟に至るにはどうしたら良いのか。カント『永遠平和のために』をはじめとした哲学の古典や現代の潮流を丁寧にさらいつつ、過去の理論の弱点をリストアップしていく。東はそれらの理論をすべて否定するのではなく、弱点を補い、良いところを更に補強するような形で議論をすすめていく。その議論の中で第三項的な可能性として「観光客」が提示される。

『観光客の哲学』では「観光客」はグローバリズムの恩恵を受けつつ、いつも自国のことを「まじめに」考えているナショナリストではない「ふまじめな」主体として定義されている。観光客は目的地に行って観光地が提示する見栄えのいいものを享受するが、それ以外にも、現地の人が思いもよらなかった点に注目する。観光地が提供する「まじめな」プレゼンだけではなく、「ふまじめな」観光こそが、観光客が自身が思いもよらなかった学びを得るきっかけになるし、観光地の豊かさを生み出すことになるのではないか。

僕はシンガポールに一人旅に行ったとき、巨大できれいなマリーナベイサンズやアジア随一の金融街よりも、たまたま訪れた路地の飲食店で食べたチキンライスの雑な旨さや、珍スポットとして有名なハウパーヴィラの親切な観光ガイドの人が(えらく聞き取りやすい英語で)日本軍がハウパーヴィラのあたりを軍事利用していたことを教えてくれたことのほうが妙に印象に残っている。この偶然性、観光地が提供する楽しみをまじめに享受しないことによって得られた体験こそが、東のいう観光客の可能性なのではないかと思う。(単にふらふら楽しんでいただけかもしれないが)

東は自身の実践例としてチェルノブイリ原発へのツアー、『福島第一原発観光地化計画』を挙げている。

「誤配」とは

そして、観光客という主体の偶然性、ふまじめさによってもたらされる可能性が、「誤配」である。この「誤配」というキーワードは、東浩紀の初期の主著『存在論的、郵便的』においてジャック・デリダの思想を紐解く中で提示されたキーワードだ(『存在論的、郵便的』については大学生の時に読んで難しくて理解できなかったことを告白しておく)。「誤配」は東の諸々の活動・言説において繰り返しパラフレーズされながらその重要性が説かれており、インタビューなどで東自身がより平易な言葉で解説している。

観光客の偶然性、ふまじめさが生み出す「誤配」。『観光客の哲学』ではこの「観光客」という概念を用いて哲学や文学の古典を読み直していく。それは、哲学研究のもつ「まじめさ」を脱構築し観光客という主体の「ふまじめさ」の価値を見直す試みである。

それまでの僕はひとりで部屋にこもって自分の思い通りに生活をしていた。そのままいたら実現するのは「思い通り」まで。この本を読み、自分に足りないものは『誤配』だ!と強く思った。そして僕はソーシャルアパートメントに引っ越すことを決意する。

ソーシャルアパートメントとは

ソーシャルアパートメントとは、株式会社グローバルエージェンツが管理運営している賃貸物件である。ただ「ソーシャル」とある通り、通常の賃貸マンションとは一味違う。どういうことか。
グローバルエージェンツが作成している「ソーシャルアパートメント」のホームページには、”シェアハウスと一人暮らしのいいとこどりをした新ライフスタイルそれが「ソーシャルアパートメント」”のコピーが目に入る。

「ソーシャルアパートメント」は賃貸マンションとして住人の個室がありつつ、24時間利用可能な共有スペースがマンション内に用意されている。もともと会社の社員寮として運営されていた大規模なマンションを改築し、今の若者にウケるようなおしゃれな改築がされているものがほとんどである。また、ほぼすべての物件にビリヤード台が置いてあるのも特徴だ。

僕は当時この「ソーシャルアパートメント」のホームページを見て、「若者が楽しそうで、テラスハウスみたいにキラキラしてて嫌だなぁ〜。俺には向いてねぇや」と思ったのを覚えている。そんな第一印象にも関わらず、どうして僕はこの物件に引っ越すことを決めたのか。

「ソーシャルアパートメント」の特徴として、物件ごとにテーマが設定されていることが多い。カフェが併設されているもの、野外でバーベキューができるもの、小洒落たバーラウンジが併設されているものなど、物件によって多種多様である。
僕が引っ越しを決めたのは、映画館がついている物件だった。映画館がついていると聞いて、せいぜいプロジェクターがあって、ちょっと良いサウンドシステムがあって、と想像していると驚く。部屋の規模はさすがに町にある映画館並みとは言えない小規模なものだが、使われているプロジェクタ、サウンドシステムは個人の家では使えないような本格的なもので、座席に至っては本当に映画館で使われているものだ。内覧で「アベンジャーズ インフィニティ・ウォー」の予告編を観てその迫力に驚き、「ここなら最悪友達ができなくても一人で映画観られればいいや!」と思い、内覧当日に入居を決めた。また、これほどの施設なら、内心、映画好きなオタク的な気の合うやつとも会えるのではないか、という期待もあった。

時計じかけのオレンジ

「ソーシャルアパートメント」での生活は、僕がホームページを観て危惧していた通り、かなりキラキラしていた(ように当時は見えていた)。僕は基本的に人見知りで、大勢がいる場所で喋ったり居場所を作ったりするのが苦手なので、毎晩共有スペースで繰り広げられるパーティや飲み会にはほとんど参加しなかった。共有のキッチンで料理を作り、自分の部屋でひとりで食べていたし、正直その点は一人暮らしと変わりなかった。

そんな僕がたまに他の住人と一緒の空間に行くのは、やはり映画館だった。「ソーシャルアパートメント」のキラキラ成分ではなく、映画が異様に好きという動機で住み始めた(若干オタクな)住民により、連日何かしらの映画が上映されていた。映画館は基本的に出入り自由。誰かが上映する映画で自分が見たいものがあったら勝手に入っていって観たりしてもOKだった。僕も誰としゃべるわけでもなく、住人が流す映画を勝手に観て楽しんでいた。

そんなある日、住人が参加しているLINEグループに、「スタンリー・キューブリック監督作品『時計じかけのオレンジ』を流します!」という投稿があった。暇な日だったので、いつものように観客Bになりすますことに。言わずもがなの有名作だしすでに観ていた作品だったが、映画館で観る機会はそんなにないので、楽しみにしていた。

当日、映画館の扉を開けてみると、『時計じかけのオレンジ』を流すと言っていた本人と、僕以外に他の住人はいなかった。僕はポップコーンを持ってきていたので、暴虐の限りを尽くすアレックスを眺めながらひとり食べていた。途中「食べてもいいですか?」と声をかけてきたので、シェアして食べながら最後まで見た。
ルドヴィコ療法の効き目が切れて邪悪な笑みを浮かべるアレックスを観た後、流した本人に感想を尋ねてみると、「よくわからなかった」と答えた。

彼女こそが、今の僕の妻である。

ソーシャルアパートメントと「誤配」

彼女(妻)とはそれをきっかけに何となく仲良くなり、一緒にドラマ『ブレイキング・バッド』を観たりしているうちに気がついたら付き合っていた。彼女は社交的な人間で、すでにソーシャルアパートメント内に友人が多くいたり、イベントを主催したりしていたので、それをきっかけにソーシャルアパートメント内でも自然と話せる友人ができた。

ここまで読んで「なんだよよくあるシェアハウスで付き合って結婚したやつののろけ話じゃねぇか」と思った方は多いと思う(し、僕もそう思う)。が、僕がこんな文章を書いている理由は、妻と結婚できて、趣味の合う友人ができたのは、『観光客の哲学』のおかげ、ということを伝えたいためである。

前述したが、僕は基本的には人見知りで、恋愛なども奥手だ。人生で数回のみ参加した合コンでは薄ら笑いを浮かべながらビールを飲みまくるし、マッチングアプリも次々出てくる異性の顔を観てるとなんだか気分が悪くなってすぐにアンイストールする羽目になる。ただ、典型的なオタクなので、趣味の話ならなんとか場をつなぐことができる。20代の後半、一番なんだかぼんやりしていてキツかった時に、僕はこの性分を矯正しようとして無理に社交的な人間であるかのように振る舞ったり、諦めて一生一人でいようと思ったり、何かと極端に自分を矯正しようとしたり、自己防衛しようとしていた。今から見ると滑稽だし、10代後半で卒業しておけよっていう程度の悩みだが、当時はただ必死で、どうしていいのかわからなかった。そんな時に読んだのが『観光客の哲学』であり、直感で引っ越した先がソーシャルアパートメントだった。

いまになってわかるのは、ソーシャルアパートメントは、観光客による「誤配」に満ちた空間だったということだ。住人は自室をベースに、キッチン・リビングなどの共用部に生活のためにふらふら訪れる(≒観光する)ことになる。そこには他の住人との交流を促すような仕組みが用意されている。僕が住んでいたソーシャルアパートメントでは、映画館がそれにあたる。僕は、映画館で映画を見て、あわよくば友人ができればよいかなぁ程度で生活していたら、妻という「誤配」がまわってきた。そしてその「誤配」の果てに、昨年の夏に子どもが産まれ、僕は父になった。「まじめに」ひとりきりで生きていたら、もしくは出会いを求めて「まじめに」合コンに参加しまくっていたら、今の人生は訪れなかった。
「映画を目的としてあわよくば友人でもできれば」という「ふまじめな」動機が良かった。この「ふまじめな」動機を行動に移す後押しをしてくれたのが『観光客の哲学』だった。人文系学部卒のサブカル好き・奥手の人間が次の一歩を踏み出すには、『観光客の哲学』のような理論武装が必要なのだ。

「誤配」とともに生きる

もちろんこんな文章はn=1の個人的な話で、僕にだけ有効な話かもしれない。「誤配」の結果、今どれほど幸福な生活を送れているとしても、また別の「誤配」によって僕の幸福は脅かされないとも限らない。不安が無いかといえばまったくもって嘘だ。(東は偶然性にさらされる人がもつ不安を「郵便的不安」と称して、『観光客の哲学 増補版』で1章をこの分析に割いている)

長々と書いたが、伝えたいことは一つ。僕は『観光客の哲学』から勇気をもらった。
「誤配」が起きる場に身を置いてみることの勇気を。

これを読んでくれたあなたにも良い「誤配」が訪れることを願っている。

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