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やみくもに属人性を推奨するリスク

今の世の中、「属人性」というもの自体が市民権を得てきているように思えますが、本当にそれは正しいスタイルなのでしょうか。

いえ、もちろん日本の企業経営や組織運営のスタイルが欧米のようなものであればリスクは少ないのかもしれません。

 ・ジェネラリストよりスペシャリスト
 ・プロセス志向
 ・グローバルスタンダードを何よりも重要視する

こうしたスタイルの事業であれば、その場にいるメンバーのスキルの高さがそのまま活かされやすい組織となることでしょう。

ですが日本企業ではそうなっていません。

たとえばソフトウェア開発の世界では、通常

このような構成になっていますよね(超ざっくりですけど)。列には実現すべき機能が複数種類あり、行には各機能ごとに実施すべき業務内容が羅列されています。アジャイルであってもウォーターフォールであっても、まぁ時系列を無視してざっくりいえばこのように分類・分割できるかと思います。

日本の場合

このように縦割りで担当を配分します。そのため、一人ひとりのエンジニアは「設計」「実装」「テスト」など、まったく異なる技術や知識を幅広く修得する必要があります。ソフトウェア開発と言う一連のタスク群の集まりをすべて経験し、修得しなければなりません。当然、そのぶん注力できる努力量が分散します。日本のIT業界で一般的に使われる"SE(システムエンジニア)"と呼ばれる肩書きにピンキリの幅が広くなるのはそのせいです。

そうすることのメリットはひとえに『スイッチングコストの低減』にあります。設計時点から参画していれば仕様にも精通しやすくなり、そういった背景や仕様を理解している人に任せてしまえば実装時やテスト時に情報を引き継ぐ負担やコストもなくなり、効率よく次の工程に進めるから…というものです。

逆にデメリットは全業務の全タスクに対する知識やスキルを修得しなければならないため、設計、実装、テストそれぞれの工程ごとに要求される専門性を高い水準で身につけにくい…ひいては一つひとつの業務品質が向上しにくい…と言う点にあります(要するに器用貧乏)。

だからこそそれぞれを長い年月をかけて努力し、高い水準で身につけたメンバーができてくると、そういう人たちに依存せざるを得なくなっていくわけです。

これが日本で生まれる『属人性』の正体です。

そして属人性が強く、プロセスの引継ぎが困難となる組織/事業の場合、何年、何十年と同じ人が同じ仕事にばかり従事していると、次のリスクが出てくることになります。

  • 離職リスク

  • その事業が終わった場合につぶしが利かない人材となるリスク

将来的なリスクを無視して現在"だけ"を見た場合、「優秀な人材を必要十分に確保することさえできれば」何の問題も無いと言えるかもしれません。


欧米の場合

欧米の場合は専門性とそのパフォーマンスの高さにこそ重点を置いているため、機能単位ではなく業務単位にメンバーを配置します。

たとえば日本ではテスト"しか"できない人を未だに「テスター」と呼んで、エンジニアよりも単価も低く扱われることが多いですよね。ですが欧米では「テストエンジニア」と呼ばれ、システムエンジニアやプログラマーよりもはるかに高い単価で敬われることも多いと言います。特に訴訟の国アメリカでは、サービスリリース後に問題となるようなシステムを提供するリスクを抑えられるメンバーを重宝しないわけがありません。

昨今では日本でも一部の界隈で「テストエンジニア」という言葉が普及してきていますが、いわゆるB2Bの大手ITベンダーたちのなかでは何も認識は変わっていません。

欧米のこのスタイルの場合、日本流のジェネラリスト志向のメリットでもある「スイッチングコスト」が増加しやすい傾向にあります。その問題を解決するために、欧米ではグローバルスタンダードを重視するわけです。

それだけに、企業としても日本のように「設計」「実装」「テスト」までをすべて一人の人間に押し付けるようなことはしません。いえ、実際には極小規模のものであればするのかもしれませんが、規模が大きくなればなるほどしなくなっていきます。一人の人間に多くの異なる技術領域をまかせようとすると一つひとつの専門性が低くなってしまい、期待するパフォーマンスが上がらなくなってしまう可能性が高いからです。また、個人としてもそのような進め方はキャリアアップを目的とした転職の際に弊害を生んでしまいますから、そのような企業には入りづらくなってしまいます。

結果、設計なら設計だけ、実装なら実装だけ、テストならテストだけ…と言ったように、それぞれの専門領域に対して非常に高いパフォーマンスを出せる人材が市場には多く存在し、また企業も常に一定数抱えて起きやすくなるわけです。

 「プロフェッショナル」「プロセス重視」「標準化」

この3つが強く結びついているからこそ実現できる方法と言えるでしょう。


日本と欧米の違い

欧米は転職率も延べ数にすると日本の3~5倍くらい高いため、『属人的』な業務の進め方をしていると離職リスクに耐えられません。「Aさんだからできる」という業務を1つでも作ってしまった場合、そのAさんがいなくなった瞬間に事業自体が成り立たなくなってしまう可能性が出てくるからです。

ゆえに欧米では、企業や組織、チーム、個人などの独自性をあまり持とうとはせず、法律、規格、標準などを最優先します。そうすることで、企業から見ても「だれを採用しても、同じ業務であればすぐに高いパフォーマンスを出してくれる」人材を採用しやすくなりますし、個人から見ても「どこに入社しても前職までの知見、経験が即時適用できるため高い評価・待遇を得やすい」ことになるからです。

ゆえに欧米の企業は「結果を出す」ことは当然ですが、その結果を安定的に提供できるプロセスの構築にこそ注力します。逆にそうして構築されたある種「標準=常識」とも呼べるプロセスのなかで期待されたパフォーマンスを出せない人材には酷薄な対応を取ることもしばしばです。

 「ルールに馴染めない」
 「プロセスを理解できていない」

ということに他ならないからです。

ITにおける様々な開発モデルやプロセス、マネジメントシステムなどが欧米発信となっているのはそのせいです。

  1. 新しいプロセスができはじめる

  2. こぞって多くの企業やチームが導入しはじめる

  3. それぞれの「やり方」が乱立しはじめる

  4. 規格やプロセス標準化が始まる

  5. 多くの企業やチームが規格やプロセス標準に倣い始める

…というのが欧米の市場における基本路線と言ってもいいのではないでしょうか。そうしなければ優秀な人材は転職してきてくれません。そうしなければ前職の経験がまったく活かせなくなってしまうから個人から見た場合魅力的な企業とは映りません。そうなると企業の競争力が低下することになります。

もちろん多くの特許を持っていたり、むしろそうしたグローバルスタンダードを発信していたりする側のトップ企業などには「独自性」があったりするのでしょうが、それは常に業界の先頭を走り続けるが故であり、倣う必要がないわけです。むしろ新しいプロセスや標準化できる何かができあがるまで優秀な人材たちによってぞれこそ属人的に様々なチャレンジが成されているのではないでしょうか。


日本の場合は、先ほどの縦割り分担を優先するために、各企業、各組織、各チームそれぞれがそこでリーダーシップを担っている人たちにすべて任されているためそれぞれのリーダーが「独自性」を持とうとします。そう、まさに

 「結果良ければすべて良し」

を地で行っているような状態です。よく言えば

 「個性を尊重したスタイル」

と言えばいいでしょうか。数値的(売上目標や利益目標など)な結果を出しさえすればそれで良く、法律や規格、ルール、プロセスでガチガチに固められることでパフォーマンスが落ちる可能性を非常に嫌います。だから非常に『属人的』となりやすいし、それを推奨する組織や上司と言った人たちが出てきやすい環境にあると言ってもいいでしょう。

とはいえ、個性をいくら尊重しているとはいえ限度というものがあります。すべてが無法地帯になってしまっていては組織的な有機性は望めません。

あたりまえのことですが、個人が自由にしていい領域というのは自分が属している集団のルールを守ったうえで与えられるものです。

数値目標だけを見て「結果良ければすべて良しだから」と、著しく人道に反した進め方をしても良いか?と言われるとどうでしょうか。目先の利益ばかりを追いかけた結果、日本国内でブラック企業が増加してしまったのはまだ記憶に新しいことだとおもいます。そのせいでいったい何万、何十万、何百万人の人が身体や精神を壊し、いったいどれだけの人が亡くなっていったことでしょう。

そして、終身雇用制度も徐々にその効力を失ってきました。

企業の体質そのものは未だ大きく変わっていないのかもしれませんが、少なくとも個人は終身雇用そのものに胡坐をかいていこうと考えなくなってきています。そう、1つの会社に無理して長くい続けようとは思わなくなってきているのです。

もちろん居心地が良ければ「長く働き続けていたい」と思うかもしれませんが、居心地が悪い風土や体質であれば「さっさと転職しよう」と考えるのが当たり前になってきています。いかに学生時代に(転職が大変だからと)終身雇用を希望する声が増えてきていても、ブラックな企業や多大なストレスをかけてくる上司、そうした上司を生み出す人事制度を許容することはありません。

そうした『自らの改善より、個人を締め付ける』企業では、

 いかにして働きやすい環境を構築するか

ではなく

 いかにして一度捕まえた人間を逃がさないか

と言うところに焦点をあてます。退職がしにくい制度や仕組み、手続きを作っている企業はそれだけで怪しんだ方がいいでしょう。だからこそ『退職代行サービス』なんてものが生まれているわけです。どれだけ社会が歪になっているか、それだけでもよくわかるというものです。


属人性を今後も続けていけるのか

さて、欧米寄りな考え方を中心にここまで話してきましたが、個人的には『企業経営』と言う観点に則り、その上で責任を持って活動できるならどちらでもいいと思っています。

要するに

 「事業の永続性」

です。少なくとも、昨今の日本企業においては個性を尊重することだけが強調され過ぎて、「自分中心に」「好き勝手に」「自分さえ良ければ」といった風土が見受けられます。

経営者は「自分が経営している間さえ良ければ」
上司は「自分が出世するまでは」
社員は「自分さえ良ければ」

口にはしないでしょうが、そのような考えで属人性を推奨しているようでなりません。

属人性に頼ると言うことは、代替の利くメンバーがよほど充足していないと

  • KKDや人脈が中心で引継ぎが困難

  • 引継ぎしようにも言語化できない

  • 業務内容が再現できない

といった「離職リスク」に耐えられない状況を容認することとなってしまいます。また

  • 「その人にしかできない」業務が増えすぎた時に解決できない

  • 一人ひとりのやり方任せなためパフォーマンスがピンキリ

  • 個性の違いによって「他人に頼りにくい」状況が生まれやすい

  • 頼りにくいからパフォーマンスが低い人は残業も増えやすい

といったような、組織的ボトルネックを生み出しやすい背景もでてきます。

他にも、縦割りで仕事を割り振り、各企業、各組織、各チームがリーダーの好き勝手に独自性を持とうとするため、長い期間同じ業務にとどまっているメンバーは他の業務の知見や経験が無いためつぶしの利かない人材となっていることが多く、その業務が終了した時点で「転換リスク」を伴うこととなりかねません。定年後の再雇用などシニア人材が扱いづらい…と言われるのはそのためです(まぁ無駄なプライドなども邪魔しているのかもしれませんが)。

ソフトウェア開発のなかでは、たとえば「コボラー」というものがあります。

COBOLと言うプログラム言語を専門に取り扱っているプログラマーのことを「コボラー」と言いますが、COBOL言語自体は一部金融業界などで未だ残ってはいるものの、その歴史はITのなかではかなり古く、これから発展させていくような言語ではありません。そのため、仕事としては残っているものの数も少なく、延々とCOBOLばかりをやらされ続けてきたエンジニアは、他の開発言語や業務仕様に不慣れで、これまでの知識や経験を活かせる機会が圧倒的に減ってしまう…ということも少なくありません。

また、特定の顧客と20年来の付き合いでずっと開発を続けてきたエンジニア…なんて方も中にはいらっしゃったりします。もちろんそれはそれでとてもすごいことですし、お客さまともツーカーの仲で非常にパフォーマンスは高かったかもしれません。

ですが、たとえば景気の波や顧客の事業方針の変化などで、長く続いた仕事も終わりを迎えた時、その方は他のお客さまと仕事ができるでしょうか。20年間保守開発のようなことを続けてきて、年齢も40代半ば~50代前半…。既にエンジニアから、リーダー、マネージャーと歴任してきて、技術的な業務からは長年離れていた…なんて状況からまったく異なる業態、まったく異なる相手、まったく異なる技術要素、メンバーも誰一人として知ってる人はいない仲で一エンジニアとして、あるいは一マネージャーとしてやっていくことはできるのでしょうか。

また、残業が増えやすいという側面にも注意が必要です。

そもそも日本のスタイルはそれなりに効率化を図りたいという名目で縦割りにしているはずなのですが、その結果『生産性』はどうなったのでしょう。

こうして他国と比べてみると、日本のやり方は非常に非効率である…ということがわかります(当然、業界も業務内容もなく時間だけで見ているため、参考値程度にしかなりませんが)。

少なくともIT業界については、ジェネラリスト志向であるがゆえに幅広く習得しようとしなければならない都合上、一つひとつの工程や技術に対する知識やスキルが高くなりづらいため、どれもこれも中途半端なパフォーマンスしか出せないような仕組みとなっているのですから当然です。

そしてこの生産性の低さを裏付けるように、残業時間の多さもやはり日本は突出しています。

つまり、「縦割り」「ジェネラリスト」「属人性に頼る」といった方針が経営者にとっても、上司にとっても、個人にとってもその方が精神的に

 「やりやすい」「自分が楽できる」

という側面はあるかもしれませんが、そのせいで組織や企業として見た場合、あまりにも先進諸国と比してコスト的、あるいは時間的なROI(投資対効果)が低いことがわかるでしょう。言ってみれば、

 物理的には何一つ効率的になんてなってない

わけです。効率的になるはず…と思いこんでいるだけで、事実は期待通りには進んでいないということです。

昭和49年に出生数210万人と言われた日本でも、現在は少子化の流れに歯止めがかからず80万5千人となっています。すでに労働人口も減少傾向にあり、現在の40代後半が定年退職する頃には相当厳しい状況になっているものと思われます。

そのような中で生産性…つまり費やした時間当たりの成果の量が圧倒的に低いと言うことは、とんでもなく厳しいと言わざるをえません。

それをこれまで通り「属人的」なやり方のままで進めているうちは企業として改善することが絶対にできません。「属人的」である以上、企業は部、課、チーム、個人に

 「効率的にやれ!」

ということしかできないからです。それぞれ個人、チーム、課、部などでオリジナリティを出してしまっている以上、それらを包括して足並みを揃える手立てはありません。

属人性を完全になくす必要はありませんが、それはあくまでも国、社会、企業、部門、チームといった集団活動において定められた一定の「プロセス」に則ったうえで…発揮できるものでなくてはなりません。

そうしなければ「組織的活動」の未来は決して明るいとは言えないのではないでしょうか。まぁ、個人活動でビジネスが成り立つ人にとってはどうでもいいことなのかもしれませんけども。


ほんの少し先の未来を想像してみよう

 『現在~5年後』

だけを切り取ってみれば、属人的な事業と言うのも別に問題はないのかもしれません。「5年先のことは5年経ってから考えればいい」と言ってしまえば確かにそうかもしれません。

ですが、人というのは「変化を嫌う」ものです。
変化にかかる負担を嫌がるものです。

一度風土として落ち着てしまったものを、市場の変化に合わせるからと言って変えようとしても多くの人は変わりたくないでしょうし、変われないことでしょう。5年経ってからでは遅いのです。5年ものあいだそれぞれの業務を特定の人に依存して「あの人がいるから」「アイツにやらせておけばいい」なんてやり方をしていたら、その人がいなくなった瞬間すべてが破綻します。

もちろん会社がつぶれる…ということはないかもしれません。
そうなるくらいなら嫌でも変化しようとするでしょう。

ただし、圧倒的後悔をもって膨大な苦労を抱えるのは間違いありません。体調や精神に異常をきたす人も出てくることになります。場合によっては何人か責任者が引責させられることにもなるでしょう。「プロセス」を改善して確実に解決していくのではなく、「人」を挿げ替えることで次の人に期待するギャンブルのような対策を好む企業も多いのではないでしょうか。

そしてそういう組織はだいたい落ち目になります。「大変さ」と「責任」だけが膨れ上がり、その大変さのせいで私生活にも支障をきたし、業績が伸びず、業績が伸びないせいで正当な評価も受けられず待遇面にも影響が出てくるかもしれません。

そして"落ち目感"を出した組織に、人は長く居たいと思いません。責任ばかり押し付けられても困りますもんね。そうして離職率の上昇にもつながっていくことでしょう。そういう組織では

 「若い人から」
 「優秀な人から」

辞めていきます。転職時に不利になる要素が少ない、または無いから居続けることによって享受する不遇や不利になる可能性を増やすメリットが何もありません。逆に、転職に不安を抱えるくらい

 「他人に頼ってばかり」
 「自らの市場価値を高めてこなかった」

人ほど残り続けます。欧米のスタイルではなかったがためにそういう人たちを生み出してしまいやすい…というのも、日本独自の企業スタイルが抱える問題なのかもしれません。


標準化の抱える一抹の不安

あまりにも「属人的」であることを悪く言っているようにも聞こえるかもしれませんが、そういうわけでもありません。

標準化には標準化のデメリットがあるからです。

そもそも標準化とは、ドラッカーのいう

組織は天才に頼ることはできない。天才は稀である。当てにはできない。凡人から強みを引き出し、それを他の者の助けとすることができるか否かが、組織の良否を決める。同時に、組織の役割は、人の弱みを無意味にすることである。要するに、組織の良否は、そこに成果中心の精神があるか否かによって決まる。

P.F.ドラッカー『マネジメント–-課題、責任、実践』1973年

の精神にも強く結びつきます。

その具体的な施策の1つとして標準化があると考えてみてください。標準化とは「弱み部分の低下」が目的ということになります。

しかし、そうすることによって色々な型にはめてしまうと、強みも消してしまう恐れが出てきます。標準化は言ってしまえば平均値化するということでもあるので、弱みを一定量無意味化すると同時に、強みを無効化してしまうことになってしまいます。

ゆえに、あまりガチガチに標準化しようとすると、優秀な人にとっては常に足枷をされたまま「走れ」と言われているような気分になってしまうことでしょう。それではせっかくの優秀さを発揮することもままなりません。

ですから、標準化、仕組み化する組織としての役割をしっかりと果たすためには、

  • 多くの人の弱みを無意味化する

  • 平均的な人の強みを引き出す

  • 優秀な人の強みを殺さない

と言った目的を見失わないようにしなければなりません。それができないのであれば「組織」側の立場に立つ資格すらないのではないかと思っています。


属人性は悪なのか

結論から言うと「悪」ではありません。
完全に排除するものでもありませんし、できないでしょう。

たとえばチームスポーツなどを見てもわかるように、個人の能力・才覚・その場の状況判断というのは間違いなく意味があります。すべてを監督の指示通りにするだけでは強いチームになりません。ですが、だからといって個々人が自由気ままに行動するだけの何も統制が取れていない無法地帯のようなチームが強いということはまずありません。チームスポーツだからこそチームとしての方針やルール、手順、手続きもあります。個人能力は、チームとして存在する統制の上で効力が発揮できるようになっている必要があるのです。

そういう意味でも、本質的な問題は、属人性の正しい使い方を理解していない組織や上司にあります。日本企業において「属人的」であることの多くは、要するに

 「他人依存」
 「その人任せ」

です。何も考えずにやみくもに属人性だけを推奨してもリスクしかないのは先述の通りです。

個人に責任を押し付けることで、個々人の責任感は増すかもしれませんが、逆に上司や企業は責任感を喪失します。わかりやすく言うと

「隠しきれない問題が起きれば責任を取るけど
 責任を取らなければならない状況に陥らないようにする責任は負わない」

ようになってしまいます。

私は「責任を取らなければならないような状況を作る」時点で、それを無責任と呼んでいます。

そもそも責任を取らなければならないような状況というのは、お客さまを含め多くの人にご迷惑を既にかけてしまっているということでしょう。そんな状態にならないよう努めるのことこそが責任感であり「責任を負う」ということです。責任を負う覚悟の無い者…だから無責任なわけです。

そうした企業は、よく報道などで経営者が謝罪会見をしていたりしますよね。アレは日頃の「責任を負う」姿勢を無視し、無責任を貫いた果て…集大成なんです。そして辞任と言う名を用いて何も責任を負うことなく離脱するわけです。

この企業の看板を掲げて「責任を負う」ということを個人に押し付けるのが今の多くの日本企業の中で見られる属人性です。社員が疲弊するような環境では、この責任の重さが個人一人では抱えきれない量となってしまっていることを意味します。

また

  • プロセスを構築する

  • 標準化する

といっても、ただレールに乗せればいいというものではありません。ただでさえVUCA(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)と言われているような昨今です。

でも、だからこそやみくもな属人化はするべきではないと考えています。

企業でありながら、一人ひとりの個人にVUCAな時代の舵取りをすべて丸投げするつもりであればそれはもう企業でありません。社員の上前をピンハネしているだけの奴隷商と変わりがありません。

属人性の使いどころを誘導し、適切に活用させるのはあくまでも企業の役割です。

たとえば、

 属人的な知見や経験を「言語化」させる

だけでもそのKnow-howは「Show-how」とすることができます。Know-howとはつまり「どうする(how)かを知っている(know)」ことです。しかし、その人の中だけにしかありません。そのKnow-howを蓄積し、共有することで属人的に優れた効果を最大値化することが可能になったりもします。

そうしたKnow-how整理したものであるべきなのです。

中には相性もあって効果が出ない人もいるかも知れません。そういう人たちにまで強要する必要はないでしょう。元来、プロセス化や標準化というのも盲目的に誰かの言いなりになってただのロボットのように取り組めばいいというものではありません。だからこそ「共有」はするし、「効果測定」もするけど、一律強要すればいいというものではないものも多いことでしょう。

こういったバランスを調整するのは、個人ではなく組織の役割でしょう。

むしろそういったことが疎かになっているからこそ、現在の属人的な取り組みの多くはただただリスクばかり抱えるようになってしまっているのだと思います。

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