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平成・赤坂ミツケ日記 〜2019出版・恋ボクの続編〜


【プロローグ】

「『東京連合』を名乗り脅迫したとして、会社役員の原本容疑者52歳を恐喝の疑いで逮捕しました」

神保町でふらっと入った町中華。客数はまばらだった。
壁掛け小型テレビに流れるお昼のニュース映像。

ぼんやりとモニター画面を見つめながら、水を一口飲む。
都会の町中華で出される水って、ぬるくて不味い。

映し出された容疑者の男。小太り、肌は浅黒く、メガネ越しに妖しいキツネ目が光っていた。

忘れもしない。
あの男だ。

「はい、まずは焼き餃子ね〜。熱いから気をつけて〜」

遅めのランチタイムだったので、とてもお腹が減っていた。

生姜とニンニクの効いた餃子の香りが僕の鼻腔を捉えた。
熱々の焼き餃子をゆっくり咀嚼すると、香辛料の苦々しさがいつも以上に口の中に広がっていった。

視覚、味覚、あらゆる五感が「赤坂見附での苦々しい日々」を思い出させたのであった。


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平成15年(2003年)30歳
自律神経失調症、たぶん


友人に誘われて1年前からチャレンジした飲食店経営。
「本気でやれば何でも出来る」のアントニオ猪木精神でトライしたものの、サッパリ上手くいかなかった。

都心での出店は投資リスクが高いので、家賃が安そうな関東の片田舎を探し回った。
縁もゆかりもない場所だったが、空き物件探しに奔走して疲れきっていた(20箇所ぐらい見た)ので、「そろそろ、ここらで手を打とうか…」といった妥協的意思決定をした。千葉県市原市のロードサイド店舗。

初めて訪れた見知らぬ土地に単身飛び込み、月額4万円の安アパートに一人暮らしし、ノリと勢いで惣菜屋を開業した。
自ら和風割烹着を身に纏い、朝から晩まで立ちっぱなしで休みなく働いた。
働けど、働けど、毎日毎日クソ赤字だった。

閉店後の深夜に売れ残った惣菜を毎日食べた。
めっちゃ売れ残ったので、実質食べ放題だった。それなのに何故か体重は8kgほど減った。唐揚げの食べ過ぎで顔に吹き出物が増えた。僕の瞳は死んだ魚のようになっていた。

29歳にして「死相」が出ていた。


【29歳の死相 吹き出物と顔色の悪さハンパない】


リモートで店舗経営に関与していた友人兼上司が久しぶりに店舗を訪れた際に僕の死相に気づいてこう言った。

「現場の店長業務は大変そうだから、現場は料理長のオジサンにまかせて、東京に戻ってきてくれよ」

久しぶりの休日に東京に戻る準備をした。

半年ぶりのJR内房線。

心身ともに疲労困憊状態で電車の揺られ流れる電影風景を眺めると、軽いドラッグを体験してるかのように、意識が白濁としていく。

江戸川を渡って東京都に入り、地下鉄に乗り換えると「中吊り広告」に視界が覆われる。ここ半年、お客さんと唐揚げしか見てこなかった人間にとって、都会の電車は処理する情報量が多すぎる。漢字が単なる「記号」に見え、その意味を読み取ることが出来なくなっていた。

ただただ、半年ぶりに千葉県から東京都に来ただけなのに、斬新なメタバース空間に迷い込んだような感覚だ。

結局、どこかの不動産屋に入り、杉並区新高円寺近辺の安アパートを借りる契約をしたはずなのに、今はその記憶が全くない。

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東京に戻ってきてからは夢遊病のような日々。
日中は赤坂見附のオフィスでデスクワーク。
「おお、久しぶり」とかつての同僚に挨拶してみても、その後の言葉が出てこない。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」しか連呼してこなかったため、人とうまく会話が出来ず失語症になってしまったようだ。

深夜、新高円寺近くの安アパートに帰宅。ノートPCを立ち上げ、惣菜屋店舗の「本日の売上表(エクセル)」を確認する。売上のグラフは毎日毎日右肩下がりだ。齢60歳の老店長に「客数が低迷してますが、体に気をつけて頑張りましょう!!」などと労いメールを送信する。

見知らぬ土地で僕が雇った、30歳も年上の元和食料理人。
吹き出物だらけブツブツ顔で、100kg前後の巨漢。昭和のプロレスラーにも見えるし、昭和の落語家のようにも見える。くっきり二重で犬で例えるとパグやブルドックのような愛嬌も感じる。瞳の奥には情熱とヤル気を感じた。
「私の料理人人生の最後を、この惣菜屋にかけたいと思います!!」
その場で固い握手を交わし、即採用したのはちょうど1年前のことだ。

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千葉県市原市内の最寄りスーパー(アピタ)店内のフードコードエリア。ここが僕と老店長のいつものミーティングスペースだった。

老店長は先月の僕と同様、死んだ魚のような瞳になっていた。

「すいません…。経営が厳しいので、店舗を閉店することにしました…」

僕はかすれた声で、料理人人生を賭けた老店長に向けて、最後通牒を突きつけた。

「ああ、そうですか。何となく分かってましたよ。でも、閉店までは頑張りますよ」

老店長の笑顔は十分に歪んでいた。

圧倒的な喪失感。
僕らはお互いに虚ろ眼で、夢も希望もなくなった親子のようだった。

かつての日本映画でこういうシーンがあったような気がした。白黒映画で戦時中のワンシーンだったろうか。

戦時中の昭和初期にタイムスリップしてしまったような錯覚に陥った。
今って「平成」なのに。


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平成16年(2004年)31歳
IPOか情報商材、どっちにイク?

混雑した地下鉄丸の内線に乗り、仄かな異臭が漂う赤坂見附の繁華街を通り抜ける。蛍光グリーンに「サウナ」の文字が目立つ看板。螺旋階段を登り、重いガラス扉をこじ開けて薄汚れたオフィスに入る。

パソコンを立ち上げる。メールをチェックし、返信する。打ち合わせする。コンビニで昼ごはんを買う。メールを返信する。打ち合わせをする。資料を作る。コンビニで夜ご飯を買う。メールを返信する。

単調な毎日を繰り返していくうちに、自律神経失調症からは少しずつ回復してきた。

「ダメ元で、上場準備してみようぜ」

友人兼上司兼社長であるKくんが言った。
平成13年(2001年)にインターネットバブルが弾けてから、ネット企業の社会的評価は著しく下がっていた。
ITバブル崩壊前に上場した楽天、サイバーエージェント、ライブドア(オン・ザ・エッヂ)は「勝ち逃げ出来たラッキーなITベンチャー企業」だった。多くのITベンチャー企業は波に乗れぬまま姿を消していった。

バブルが弾けてしばらくたったところで、「カカクコムが上場するらしい」という噂が流れてきた。
久々の同世代なITメディア企業が上場するかもいうことで、バブル崩壊の谷が終わって、再びITベンチャーが評価される時代が来るかもしれないという予兆を感じた。

僕らの会社は社員数30名程度の受託開発会社。
上場準備に伴い体裁を整えなければということで、僕は取締役管理本部長(CFO)になった。
部下は女性1名と大学生インターン1名だけだった。

ベンチャーキャピタル(VC)から出資を受けていたが、半年ほど前にほとんどのVCが投資を引き上げていた。
要は「この会社はもうダメだな」と三行半をくだされていたのだ。
なので「上場なんて出来るわけねーな」と心の中で思っていたが、心身ともに追い込まれている僕はヤケクソ思考で物事を進めるしか選択肢がなかった。

まずはこんなツギハギだらけのベンチャー企業を相手してくれる証券会社を探すところから始まった。
大手の野村、大和、日興はまず無理だろうということで、中堅クラスの証券会社に連絡してみた。
3社ぐらい感触の良い会社が見つかった。
上場企業の引受実績はなかったものの、「ヤル気が合って、担当がイケメン男子」という理由で主幹事証券を選んだ。

イケメン証券マン(実は当時社会人1年目だった)に指示されるがまま、社内資料を大量に作ることになった。いわゆるドキュメンテーション作業。
作った資料に細かく修正が入り、何度も何度も書き直しや遡及修正された。
一定量の資料整備が終わると、審査ステージに進んだ。
証券会社の審査部門からこれまた大量の質問状が届き、回答や詳細資料の提出を求められた。

僕は深く考えずに、言われるがまま、淡々と作業をこなすようにしていた。

質問の回答書については友人兼社長であるKくんにもチェックしてもらい、夜な夜な2人で作業を進めていた。

「この質問って、前も回答してねーか?」
「何でこんな質問してくるんだ?これ聞く意味ある?何が知りたいの?事業の本質と何も関係ないよな」
「そんなに丁寧に回答しなくていいよ、また余計な質問がくるぜ」

冗長な審査プロセスが進むにつれ、Kくんはキレ気味になっていった。

それにしても、あまりにも重箱の隅をつつくことをしてくる。
「ここの事業計画エクセルなんですけど、80円間違ってますよね」

80円???
80円って!
幼稚園児の駄菓子屋お小遣いじゃねーんだから!

そもそも企業の事業計画における数値単位は百万円、まあ細かくても千円単位だろ!

「80円の誤差を指摘されるなら、今すぐここで80円払うから早く審査進めてくれ!」と言いたい気持ちもグッと抑えたりした。

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上場準備のパソコン作業は深夜まで及び、毎日終電。

赤坂見附駅までの帰り道は、酔っぱらいサラリーマンとキャバクラの客引きで溢れている。

「お兄ちゃん、おっぱいどうですかー?おっぱいどうですかー?」

黒服のお兄さんが執拗に声をかけてくる。80円の重箱の隅攻撃に耐えた後に、この「おっぱいどうですかー?」「おっぱいどうですかー?」の呪文攻撃は、か弱き勇者ロトの心を蝕んでいく。

黒服お兄さんと目が合うと呪文がクリティカルヒットしてしまい心が壊れてしまう。毎晩毎晩、茂みに潜む猛虎に目を合わせぬよう、うつむき加減で早足に繁華街をすり抜けなければならない。

地下鉄丸の内線に乗り込み、30分ほどで新高円寺駅にたどり着く。ここからアパートまでの道のりは安全地帯であり、静かな住宅街なので敵に遭遇することはない。

ベッドとテレビだけのワンルーム。
簡素にシャワーを浴びて、小さなちゃぶ台の上に置かれたノートパソコンを開く。

ここから自宅での夜仕事が始まる。
グーグルで「儲かる」「稼ぐ」といったワードをひたすら検索し、惣菜屋の失敗を取り戻す「逆転の一手」を探し求めていた。

連日連夜、インターネットの海を彷徨っていると、似たような境遇の個人が書いた日記を目にするようになった。
インターネット上に書かれたその個人日記たちは当時「ブログ」と呼ばれていた。
楽天、ライブドア、サイバーエージェント(アメーバ)といった大手IT企業たちが提供している日記サイト「ブログ」。

「ネットビジネスで年収1,000万!」
「メルマガで稼ぐ!」
「週末副業で成功!」
「サラリーマンから初期投資ゼロで独立!成功ノウハウはコチラ」

惣菜屋の失敗で「初期投資の大きさ」に酷くうんざりしていた僕の心にグサリと刺さるワードが満載だった。この手のブログを読み漁り、似たようなコンテンツを配信しているメールマガジン(まぐまぐ)も購読した。「セミナー」と呼ばれる怪しげなリアルイベントにも参加してみた。

とりあえず初めるのはタダだったので、自分もブログなるものを始めることにした。内容は「ビジネス成功しようぜ!」的なもので、検索して見つけたネタをコピペしたり、自分の浅薄な考えを書いたりしたとても陳腐なものだった。

「ブログランキング」というサイトに登録して上位を目指すのがオススメ、と誰かのブログに書かれていた。

早速登録してみると、まだブログ黎明期で参加者も少なかったので、「ビジネス」というカテゴリでトップ20ぐらいに入るようになってきた。

ブログにはアフィリエイトというリンクを貼ると広告収入が入ってくる、と誰かのブログに書いてあった。
ブログの最後に必ずアフィリエイトリンクを貼るようにした。

1ヶ月ブログを書き続けて、売上を確認してみると、広告収入はたったの月500円だった。

メルマガなるものも、初めてみた。

一人で書くのは大変そうだったので、怪しいセミナーで出会った人と共同で配信することにした。「仕事でエクセルばっかやってて、手作業だけは早いんですよ。alt+tabとかctrl+●のショートカットキーばっか使ってますよ」という会話でお互い盛り上がったことから、以下のタイトル・内容になった。

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週1本書いて半年ぐらい続けていたら購読者が5,000人ぐらいになった。

「有料セミナーを開くといい」と言われたので、近くの会議室を借りて、参加費3,000円ぐらいのセミナーを開いた。

参加者10人程度で、講師2人で売上を折半したので、手取りは15,000円ぐらいだった。その日の打ち上げの飲み代に消えた。


一生懸命コツコツとブログやらメルマガやらを書いても、何一つ「逆転の一手」が見えず、人生の失望感が増していくばかりだった。


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会社の上場準備は何となく物事が進んでいるようにも思えたが、僕個人としては全く信用していなかった。
毎日毎日、資料作りと質疑応答ゲーム。
素人集団でネタを作って、M-1グランプリに出場しようとしているような感覚だった。
「こんなネタで決勝に出れるわけ、ないわな」


一方でPCBメルマガの方に、まさかの某IT系出版社から「このメルマガの内容で、本を出版しませんか?」との問い合わせがあった。


「おおー!!!マジか!!!キター!!!」


本を出版すれば、印税などでお金が入ると聞いていた。
その本がヒットすれば、惣菜屋倒産の借金も余裕で返せるに違いない。

逆転の序曲、智弁和歌山のジョックロックが僕の脳内で流れ始めた。


「一度、池袋にある編集プロダクションのオフィスにて打ち合わせをお願いします」


先方が指定する時間帯は平日の日中で、バリバリ仕事が忙しい時間帯だった。
上場準備でクソ忙しいときに、赤坂見附から池袋まで移動して打ち合わせして戻ると、ゆうに2時間はロスしてしまう。でも出版のチャンスも逃したくない。本の出版と会社の上場、どっちがプライオリティが高いだろうか。

こういった人生の選択的なシーンって、カンブリア宮殿でよく見たことがある。
「意思決定」はあらゆるビジネスシーンにおいて、知恵・センス・経験が問われる最も重要なスキルだ。

さてさて、一体、どっちがいいのか?
ん?…意思決定?

いや、ちょ待てよ。

どうせ上場なんて出来るわけないんだった。

僕は出版社との打ち合わせを優先し、池袋の編集プロダクションに向かった。

話はスムーズに進んで、半年後、「ビジネスが10倍速くなる! ショートカットキー活用事典」という名前で無事に出版された。
本名を隠してペンネームの「Jin」としての書籍デビューだ。
まあ、本名出ちゃうと恥ずかしいし、「お前、あんな忙しいときにこんなことをしてたのか!けしからん!却下だ!」などとオトナに怒られるのが嫌だった。


執筆による収入は売上連動性の印税ではなく、執筆料という形での収入になるとのことだった。
出版社から振り込まれた金額は10万円足らずだった。

記帳した通帳を二度見したが、金額が10万円のまま変わらなかった。
頭の中でざっくり暗算してみると、時給にしたら500円ぐらいだった…。


僕は三井住友銀行赤坂支店ATMの前で、深く、深く、目をつむった。

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継続的に書いていたビジネスブログの方も相変わらず冴えなかった。
長いテキストを書くのがかったるくなってきた。
そもそも書くネタなんて、そんなないよ。
ランキングも少しずつ下がっていた。

「なんで毎日毎日苦労してやり続けても、成果が出ないんだ…」

何か新しい策はないだろうか。


深い眠気が襲ってきたので、いつもの「別の夜のルーチン作業」に入った。


ブログサイトの管理画面を閉じ、ブラウザのブックマーク(お気に入り)から、エロ動画検索サイトに移った。

淡々と、サクサクと、コツコツと。
ルーチン作業の自分磨きに30分ほど要した。


サクサク。

コツコツ。


この毎日のようなサクサク、コツコツのルーチン作業。
この時間、この作業、このリソース。
「もったいないな」と思った。
この「男としてしょうもない作業及び行為」を有効活用、いや横展開できないだろうか。

セコい火花が閃いて、そんなわけで、ビジネスブログに加えて、毎日オススメのエロ動画を紹介するブログ、いわゆる「エログ」なるものも書いてみることにした。


以下のような内容だった。

イカすエロー●バンド天国

ブロードバンド=エロだと思います。 エロードバ●ドマニアなグループが、あなたの射精ライフをサポートするBlog!エロ動画で抜きすぎて、下半身の老化を促進してしまいました。そんな貴方(自分)に送る、究極の下半身アンチエイジング!

日常ルーチンのついでなので作業はビジネスブログと比べてチョー楽チンだった。
ビジネスブログ同様、記事の下にアフィリエイトのリンクを貼った。

すぐに、一生懸命書いていたビジネスブログよりも、片手間でかくエログの方が閲覧数が多くなった。
但し、それでもアフィリエイトの売上は月800円ぐらいだった。


「ああ。オレは一体、何をしてるんだろうか」

「ああ。大学卒業して、上京して、社会人になって、オレは何をしてるんだろうか」

アホらしくなった。
とにかくアホらしくなった。

何もかもが、アホらしくなった、高円寺の夜。


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人生アホらしくなっても、日常は続く。

出社すれば大量の仕事がそこには待っている。

作業とスケジュールに追われ、家に帰れず会社に泊まり込むこともしばしば。

受付の薄汚れたソファでの睡眠。
合成皮革はカピカピしていて固く、とにかく寝心地が悪い。
朝6時頃、ガラス張りエントランスから朝日が一気に差し込んで、眩しすぎる光が網膜を刺激して無理やり起こされる。
外はアルコール臭が残る繁華街、カラスがごみ袋を漁っている。
こんなにも清々しさゼロ(0)の朝って初めてだぜ。

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僕の読みは見事に外れて、会社の方は平成16年(2004年)12月に無事上場した。


シミのついたヨレヨレのスーツを着て、東京証券取引所でのセレモニーに参加した。
選んだ市場が合併前の大証ヘラクレス市場だったので、鐘を鳴らすのではなく、火の用心の拍子木を叩くものだった。
大のオトナが輪になって、拍子木を叩き合わせて「パン、パン」と乾いた音を鳴らした。
地方のお祭りか神社の儀式かをやらされてる感があって、個人的な達成感は何も得られなかった。


こうして、ブロガー、メルマガライター、ビジネス作家、情報商材屋への道は諦めて、上場企業CFOに集中せざるを得なくなった。(当たり前だろ)


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平成17年(2005年)32歳
複雑なスキーム


「お前らはなんで株式分割とかしないんだ。今すぐに株式分割の発表をしろ!」

上場初日から個人株主からの電話対応に追われていた。夜まで電話は鳴り止まずに一人コールセンター状態だった。
証券会社さんが主催してくれた上場祝の会食には、僕一人だけ遅刻してしまった。

「今まで電話対応してたの?ホント、君は真面目だなぁ。まあまあ、今日は飲んでよ」

証券会社の部長さんが僕のグラスにビールを注いだ。
既にほろ酔いのご様子で、にこやかな表情のまま、自ら手酌でクイっとビールを飲み干した。

証券会社側にとっては本日をもって「お疲れさま感」があるようだが、僕ら発行体企業にとっては何一つココロもカラダも休まることはなく、単なるスタート地点に並んだだけであった。

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翌日から人と会う仕事が10倍ぐらいに増え、電話とメールの量も爆増した。
3ヶ月ごとに決算業務がやってきて、開示資料の作成にも追われた。
また、投資家対応やIR担当としては、自社の株価に加えて、IT業界の他社の動向も把握しなければならない。
かつて上場株式で大損した傷も癒えてないのに、また証券市場マーケット動向を見るしかない羽目になった。

平成17年(2005年)3月、オンラインゲーム事業を営むガンホーオンラインエンターテイメント社が上場後大きく株価を上げ、注目を浴びていた。
当社の子会社であるゲームポット社(GP)とガチ競合だった。

「ガンホーやばいね。うちのGP社も上場させないとまずいか」

社長兼友人のKくんが僕のデスク近くで呟いた。

「え?やっと上場出来たのに、また子会社の上場準備?あの大量のドキュメンテーションや質疑応答、もう1回アレやるの?つーか、そもそも2年連続で出来るものなのか?」

「子会社上場」というのは簡単なものではなかった。
ましてや親会社も上場したばかりだし、子会社のGP社は社員10人以下だし、管理部門は0人だし。

また自分は親会社のCFO(財務担当責任者)なので、子会社のCFOを兼務することが出来ない。つまり、表立って上場準備に携わることが出来ない。

「インターンのテツオにやらせたら?この1年上場準備も近くで見てたんだしフォローしてあげれば出来るっしょ」

安直にも、社会人1年目社員のCFOが爆誕した。

安直にも、知り合い経由で小さな証券会社を選定し、安直にも、小さな取引市場を選定して、安直にも、新たに人材を採用して子会社に転籍させるなどして、昨年以上の突貫工事で上場準備を進めた。


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スピード狂企業カルチャーな僕らは「子会社GP社の上場準備」という大きなプロジェクトを回しているのにも関わらず、並行して更に複雑怪奇な仕事を仕込もうとしていた。


「子会社株式を株主全員に割当ちゃうスキーム」

子会社の株式を親会社の株主に割り当てる。
まるで「配当」のように、株主に子会社の株式を配れないか。
その仕組を設計し、実行する。

それを「スキーム」と称して、仕組み案と実行プロセスをパワーポイントで資料化する。

僕の周りの優秀ビジネスマンはこの手のスキームなる「絵」を書くことが好きみたいだ。僕にとっては、四角形と矢印を異様に多用するそのポンチ絵には何の美しさも感じられないのだけど、これはピカソの絵を理解できないのと同じ現象なのだろうか。

まずは顧問弁護士に相談したところ「実現は難しそうですね」との回答だった。

社長兼友人にその報告をすると「もっと一流の人たちに相談しよう」とのことだった。

公認会計士でベンチャーキャピタルを営まれている元株主の賢者に相談すると「これは面白いね。何か実現できるようなスキーム考えたいね」と、初めて前向きなコメントを頂いた。(まるで、自分が好きなパズルゲームを見つけたかのような表情で)

次に、ダメ元で日本トップクラスの法律事務所に連絡してみた。

東京丸の内にある高層ビル。
明るくて広すぎるエントランス、綺麗すぎる受付嬢、座り心地が快適すぎるソファ、ウユニ塩湖のようなローテーブル。

皇居からの自然光に照らされた明るい応接間に案内されると、受付嬢に勝るとも劣らない、笑顔爽やかな男性弁護士先生が現れた。

「海外では似たような事例はあるけれど、日本では全く事例ないスキームですよねこれ。やってみましょっか。うちは大企業相手に商売してて、定価だととてもフィーが高い事務所なので、ベンチャー企業割引させますよ」

法務面がクリアになっても、会計面、税務面、証券実務面、印刷郵送等々、見えない課題は山積している。
これらを一つ一つ調整して、実務を推進する立場としては「めんどくせーな」の一言だった。
工数かかるし複雑すぎるので普通の人なら見送ると思うのだが、スキーム好きな人種はこういった「複雑性」や「初モノ」がとにかく大好きなようで、執念深く諦めずに「なんとしてでもやる」という方向で物事は進んでいった。

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「子会社を上場させて、上場後即、その子会社株式を多数の株主に割り当てる」という難易度Aのスキーム。

難しい×難しい=無茶苦茶、難しい

という算式。

今振り返っても「あれって一体どうやって実現できたのだろう?」と不思議に思う。

子会社GP社は無事に「札幌アンビシャス市場」という、当時、東京の会社が選定したことのない市場で上場した。
初日では株価がつかず、2日目に公募価格の7倍(70万)で値がついた。

「あの資本準備金減少に伴って株式割当するスキームのやり方教えて下さい!」と渋谷方面の大手IT企業イケメンCFOの方からも問い合わせを頂いた。
「ぜひ御社のようなITのビッグカンパニーでもやってみてくださいよ!」と自分の苦労を社会還元して欲しかったのだけれど、その後、こんな煩雑で奇々怪々なスキームを採用する会社は一社も現れなかった。


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平成17年(2005年)32歳①
ファイナンスは「呼吸」


「会社の現金をそのまま銀行で置いておくのはもったいないから、上場株式で運用しよう」

4年前に株のオンライントレードで大損して以来、個人で株式売買するのは辞めていたけれど、まさか仕事でやる羽目になるとは。

「以前損したのは勉強してなかったからでしょ?今回はプロの先生も呼んでるからさ」

先生とはM瀬さんのことだった。
元UBS銀行の債権トレーダーで今は独立してデイトレーダーをしている人だ。

5年ほど前に友人宅のBBQで会ったことがある。
一緒に安いワインをがぶ飲みし、泥酔して盛り上がり、肩を組み合った。
年齢は僕よりちょっと上だったが、白髪交じりの七三分けヘア、おでこに深いシワ、ポッコリお腹。30代中盤にして僕よりもすっかり老成していて、芋洗坂係長に近い。

「まずはこれらの本を読んでください。あとDLJ証券のマーケットスピードでトレードするので口座開設とソフトダウンロードしといてください」

テクニカル分析?一目均衡表?ローソク足?ランダムウォーク?パンローリング社?
聞いたことのない用語ばかりだった。

毎朝7時に出社してトレーダー修行が始まった。
ウォッチする銘柄はM瀬さんに指定された。

「この板をずっと見てください。よし。今日はここで買いを入れてみますか」
「そのまま日次のチャート画面を開きっぱなしにしてください。基本はこのチャートを見ながらトレードします」
「このラインを上に抜けるかどうか。抜けたら買いですね」
「下にいきそうですね、売りを仕掛けますか」
「基本はその日に手仕舞いましょう。あ、でも、今日の銘柄は明日に持ち越してみますか」

毎日毎日、パソコンのディスプレイを見つめ、指示通りに作業していた。

「要するにね。波を捉えるんですよ」

M瀬師匠の言ってることは、感覚的にもサッパリ分からなかった。

「棒グラフとチャートをずっと見つめていれば分かるようになりますよ」

毎朝毎朝、チャートと数字と企業名がチカチカと点滅している画面を見つめてみる。
一輪車やスケボーのように、何度かチャレンジしていけば感覚が掴めるようなものだと思った。
そういえば、子供の頃にスケボーとか一輪車とかちゃんと乗れたっけ?


ある日、師匠のM瀬さんが、いつも以上に眉間に深いシワを寄せて、悲痛極まりない表情で画面を見つめていた。


恐らく、ここ最近、師匠自身のトレードが上手くいっておらず、かなりの損失を出してしまったようだった。


「ふー。ふー。ふー」


師匠はポンポコお腹を膨らませたり縮ませたりしていた。


「ふー。ふー。ふー」

「ふー。ふー。ふー」


再び、ポンポコお腹が収縮している。
M瀬師匠がゲーミングチェアに座した文福茶釜のタヌキに見えてくる。


「トレードって最後は精神戦なんですよ。追い込まれたときは、この腹式呼吸がめちゃくちゃ重要なんです」

タヌキ師匠はいつも以上に真剣な眼差しで僕に熱く、そして冷静に語りかけた。


僕もすかさずトライしてみた。


「ふー。ふー。ふー」


それからというものの、僕は毎朝タヌキ腹式呼吸をすることになった。


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そんなM瀬師匠とのトレーダー修行は3ヶ月ほどで終わった。何となく、終わった。何の理由か忘れてしまったが、とにかく終わった。
まるで自然消滅した恋愛のように。


利益が出たのか損をしたのかも、よく覚えてない。
デイトレードの手法やトレーディング画面の見方もよく覚えていない。

覚えているのはただ一つ、あの腹式呼吸だけだ。


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「トレード修行のついでに中国のオンラインゲーム株式を買ってみてよ」と社長に言われて海外証券取引口座を開設して、指示されるがまま2つの上場銘柄を買った。

金額、数量ともに指示されたままだったが、それらが予想以上に大当たりし、翌年、会社の特別利益に10億円ほど計上され、結果だけ見ると会社にとって一番の利益貢献になった。

努力すれば損をするし、何も考えてなくても得をする事象が多い気がする。

社会人になってもう10年が経過していたが、ファイナンススキルが身に付いている実感は全く無かった。


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平成17年(2005年)32歳②
ロンドンで無くしたチェリーはどこにいった?

平成16〜17年(2004〜2005年)頃は、ホリエモン率いる「ライブドア」というITベンチャー企業がイケイケドンドンの無双状態だった。
株式100分割&株式交換を駆使して、毎月のように企業買収。
プロ野球参入、証券会社買収、銀行免許取得、会計ソフト弥生の買収、そしてニッポン放送(フジテレビ)の株式取得へ。
IT業界のすべてを席巻してしまうのではないかという勢いだった。

「この世の全てがライブドアに取られてしまう。急がなくては」

当社が株式上場のタイミングで調達した資金はたったの5億程度。勝負するには全然足りなかった。

そんなタイミングで僕のメアドに聞いたことのない名前の証券会社からメールが来ていた。
どうせ営業メールだしスルーしようと思っていたが、念の為社名をググったら、どうやら欧州ではそれなりに大手の証券会社みたいだった。

「うちは欧州でのエクイティファイナンスに強いんですよ。この度、日本ブランチを立ち上げまして、ぜひとも何かお手伝いさせてください」

どうせ日系の大手証券会社に頼んでも、こんな小さいベンチャー企業なんて断られるのがオチだったし、これは渡りに船だった。

すぐさまアドバイザリー契約を締結して、大規模な資金調達プロジェクトを進めることになった。

「海外の機関投資家にプレゼンする必要があるので、1週間ほど欧州出張の予定をください。航空機やホテル等の手配は全てこちらで致しますので」

人生初の欧州海外出張。
海外に行くのは、大学時代の男バカ3人豪州ナンパ旅行以来、10年ぶりのことだ。

飛行機は人生初のビジネスクラスだった(そして未だに、その一度っきりのままだ…)。

「なにこれ、すげーリクライニングするんだけど!」
「え?シャンパン飲み放題なんですか?」
「このチーズ、美味いっすね。お代わりしよ」
「テレビも見れるんスカ!最新映画も見放題じゃないですかこれ!」

ドイツ・フランクフルトまでの12時間フライトはあっという間。まるで天国。

初めてのヨーロッパ。初めてのドイツ。
町並みは東京と比べて整然としていて美しい。何となく暖色系の建物が多く、暖かい空気感。

「初日プレゼンお疲れさまでした。さあ、ドイツビールでも飲みに行きますか」

僕らより10歳ほど年上で、短髪・色黒・サーフィン育ちのような外資系証券兄さんがノリノリになっている。
昼間の投資家とのミーティング中は居眠りをしていたのに、日が暮れ始めると元気になるタイプみたいだ。
デカすぎるソーセージとザワークラウトとビールを堪能した。

ドイツに2日間滞在した後、イギリス・ロンドンに移動。

こちらも初めてのイギリス。
ホテルの目の前には、緑美しい芝生に囲まれた格式高い精錬された公園。
早起きして散歩してみる。

「オレは今。ロンドンの公園を散歩している。グローバルな男だぜぃ」

足を伸ばして宮殿風の建物を見に行く。
携帯のカメラでパシャパシャと街の風景を撮る。
J-PHONE携帯に付けたさくらんぼのストラップが小さく揺れる。

ドイツ同様、投資家とのミーティングは淡々と済ませて、夜の会食に挑む。

「ロンドンってあまり美味い店ないんですよね。ビール飽きてきたんで、今夜は和食レストランでも行きますか?」

欧州出張同行中、常に二日酔いの赤い目をした外資系兄さんが僕らに提案した。

寿司がメインの和食料理屋だった。
アラカルトでそれぞれ好きなものをオーダーした。

「おおー、まさかロンドンで寿司が食えるなんて。なめこの味噌汁もあるんですね。僕、締めにこれ頼みたいっす」

寿司ネタは当然日本で食ったほうが美味い印象で、味噌汁に至ってはやや苦かった。

その日も2次会はバーに行き、この出張中はいずれもホテルに戻るのは23時過ぎだった。
外資系兄さんはいつも上機嫌で飲食を堪能しており、もはや、この飲み食い目的の海外出張だったのではないかと疑いたくもなった。

ホテル帰宅後は明日に備えて簡素にシャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。
連日連夜の飲みで胃がもたれたのか、少し違和感を感じていた。

なかなか寝付けず、徐々に下腹部に痛みを感じてきた。

突然、便意を催し、トイレに駆け込んだ。

そこから一晩中、のたうち回るような腹痛に襲われた。

下痢が止まらず、一晩でトイレに20回以上かけこんだ。

一睡もできず、意識が朦朧としてきた。

外資系兄さんに連絡しても、どうせ爆睡しているだろう。
ホテルのフロントに連絡してみるか。
ああ、英語でなんて言えばいいんだ…。
下痢って英語で何ていうんだ?
ストマックエイク、ゴートゥーホスピタル?ヘルプミー?

ロンドンに救急車なんてあるんだろうか。
明日がプレゼン最終日で夜の便で帰国予定なのに。
オレだけ置き去りでロンドンに入院なんて。
それにオレ英語しゃべれないよ。


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欧州のロードショー(機関投資家プレゼン)を終えて、平成17年(2005年)10月に資金調達の着金があった。
株式上場10ヶ月後のことだった。
株価も堅調だったので、調達金額は上場時の10倍にあたるおよそ50億円だった。

激しく腹を下した翌日最終日は私一人全ての予定をキャンセルして、丸一日ホテルで寝込んだ。

伏臥したベッドの中で、付き合ったばかりの彼女からもらった「さくらんぼのストラップ」が無くなっている事に気づいた。当時の僕にとっては、「最も大切なモノ」だった。

ロンドン市街の路地裏、地下鉄のホーム、公園前の交差点、探し回ったけれど、こんなところにいるはずもなかった。

トラブル散々な欧州出張だったが、無事に50億円の資金調達に成功した。
50億の軍資金。
さあ、ここからライブドアやインデックスやGMOやサイバーエージェントを追いかけるぞ!と。

この2ヶ月後の平成17年(2005年)12月に子会社のGP社は上場し、その2週間後に「ライブドアショック」なる事件が発生した。

ライブドアショック後、ほとんどのIT企業は上場出来なくなってしまい、ここから数年間は「ベンチャー闇の時代」に突入した。

僕らはいろんな意味で「ギリギリ滑り込みセーフ」状態だった。


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平成17年(2005年)32歳①
はじめまして、商品先物。


ITと金融は親和性が高い。
僕らよりも先に上場していたIT企業たちはこぞって金融業に進出していた。
インターネットで気軽に株取引が出来るようになり、FX(外国為替証拠金取引)と呼ばれる外貨のトレードも流行し始めていた。

「イートレードやマネックスもあるし、今更、株のネット取引は難しいよな。FX業者も外為どっとコムとか乱立してるしなぁ」
「商品先物取引(CX)の市場はまだIT企業に侵食されてないね。これからかもなぁ、チャンスかもなぁ」

新しいマーケットに参入するときは、いっつもこんなノリだった。
前回大ゴケしたお惣菜屋事業も「中食ブームくるよなぁ」という安易なマクロ分析?から始まったんだっけ。
今回違うところは一応、本業の「IT」が絡んでいることと「資金が潤沢にある」ことだった。

商品先物って何だ?
貴金属(金、銀等)、穀物(とうもろこし、小豆)、ゴム、エネルギー(原油)などが銘柄になっている。
それらの価格が変動し、レバレッジもかけられるので、投機的な市場として個人も参加しているマーケットだった。
まずは上場している商品先物企業を調査してみた。
10社ほどあったが、どの企業も株式市場では人気がなく、株価は低迷していた。

「この中で一番良さそうな会社と提携するのがいいかもな。Y商事の株をネットで少しずつ買ってみてよ」

3年前に千葉県市原市のアパートでやっていたように、指値だったり成行きだったりしながら、日常業務の合間にネットで株の買いオペをポチポチいれていた。

「そろそろ、保有比率が5%にヒットしちゃうね。先方に会いに行ってみようか」

株式市場で5%以上保有すると「大量保有報告書」という資料を提出しなければならなかった。
ネット上でも公開され、発行会社は初めてそこで5%以上保有する株主が「何者」なのかを知ることになる。

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「はじめまして、この度、御社の株式を保有させて頂いております。つきましては一度お時間を頂けませんでしょうか?」

的なメールを送ったら、すぐさま先方から返事が来て、代表取締役会長と会うことになった。

日本橋の水天宮前駅から3分ほど歩いたところに自社ビルがあった。
懐かしい場所だ。このあたりは僕が前職で働いてた場所だった。
20代の中頃、平成11〜14年(2002年)頃かな。6年ぶりだ。
昔の記憶が走馬灯のように蘇る。
鬼上司のゲキヅメ、ハゲ社長の狂気。
股間を洗ったトイレ。飛び込もうとした隅田川。ウズラの卵食べ放題のそば屋。居酒屋とくの煮込み。豆乳ラーメン。

僕はもうあの頃の若造ではない。
いちお、上場企業のCFOだ。
これから自社ビルを持つ上場金融会社の代表取締役会長と商談をするんだ。
ビジネストークするんだ。
資本業務提携だ。


「いやぁー、こんな若い子たちだとは思わなかったよ。聞いたことのない社名だったから部下たちに調べてもらったんだけど」
「どんなハゲタカがやってくるのかってうちの連中はとても警戒していたんだけどねぇ」

会長さんは僕らとは倍以上年齢が離れた、昭和初期の映画俳優のような70歳過ぎの好々爺だった。

僕らは「決して怪しいものではありません」的な自己紹介プレゼンをして、「何か前向きに一緒にやりませんか?」と提案した。

会長の表情が徐々に崩れて、「また改めて顔合わせをしましょう」とのことで、後日、役員陣5名との顔合わせ会を経て、日本橋近辺での会食が催された。

「我々の業界だとITって聞くと胡散臭いと思ってるんですよ。アタナたちみたいな人でホントよかった」
「お酒はイケるんですか?じゃんじゃんいきましょう」
「うちの息子より年下ですね。しっかりしてるなぁ」

僕は会食では「酒飲み盛り上げ担当」で、先方の60代管理本部長S塚さんとすっかり仲良くなり、その後の業務連絡がとても楽になった。

IT業界は20〜30代が多く、ましては自分の部下は新卒ペーペーばかりの環境だった自分にとって、60〜70代の方々と話すのはとても新鮮だった。そして、みんな人間的に「いい人」だった。会長のリーダーシップのもと、会社のカルチャーがしっかり浸透している雰囲気だった。


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「今度、荒川の河川敷で社内ソフトボール大会をやるんですが、参加しませんか?」

現場レベルでも毎週ミーティングをするなどして資本業務提携から1年ほどたったころ、先方部長から提案があった。
僕らの会社は社内交流の乏しい企業カルチャーで、全社員参加のイベントや飲み会などはほぼ皆無だったし、受けるべき提案に感じた。

日曜の朝。
僕らの会社からは直属部下を中心に若手10人ほどが参加した。

「ああ、眠い…。せっかくの休日にソフトボールか。やっぱ部長の提案、断るべきだったなぁ…」

などと朝からJR埼京線で憂鬱な気分になっていたが、雲ひとつない青い空広がる河川敷グランドを目にすると、少しテンションが上がった。

Y商事のオジサン会社員たちと混成チームで大会に臨んだ。社会人になってから運動を全くしてなかったけれど、オトナになってからの球遊びは新鮮で意外と楽しく感じた。

中学時代野球部補欠だった僕が、初めて大きなグラウンドでバッターボックスに立つ。

「昔の俺とは違うぜ。オトナになった俺のホームランを見せてやる!」

と意気込んだものの、思ったよりもボールは飛ばず、渋いレフト前ポテンヒットに終わった。

途中でお弁当のランチタイムを挟み、ほぼ一日中ソフトボールに時間を費やした。

荒川の上流方向に大きな夕日が落ちていくのが見えた。
こんな大きな夕焼けをみるのは、社会人になって初めてだった。

「夕日ってこんなに大きかったんだっけ」

茨城県の田舎少年だった頃を思い出す。
大学から意気揚々と都会に繰り出し、社会人になってから一人暮らしで完全に上京して5年ほど経っていた。
「東京で頑張る若手青年キャラ」を演じていたが、それって実はビルに囲まれた灰色の街で、オフィスとアパートを行ったり来たり、パソコンに張り付いてしかめっ面をするだけの日々だった。

今日見た夕日のような美しい光景を見たことはあっただろうか。
高層ビルの商談は美しいだろうか?人のあふれる賑やかな繁華街は美しいだろうか?地下鉄の車窓は美しいだろうか?コンビニのランチは美しいのだろうか?すれ違う人たちの顔は美しいのだろうか?

都会で働くサラリーマンとしては仕事に追われるばかりではなく、休日ぐらいたまには無邪気に遊ぶのも必要な気がしたけれど、僕の現実社会TOKYOはそれを許してくれなかった。

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平成17年(2005年)32歳②
弁当男子とガンジー


会社が上場しても、借金を返すことは全く出来ていないし、貯蓄も増えなかった。
常にインサイダー情報を抱えている取締役CFOだと安易に保有株式を売却するタイミングがほぼなく、金欠状態が続いていた。

プライベートでは日々、支出を減らすことに注力した。

ランチは自分で手作り弁当を持っていった。そもそも仕事が忙しすぎて日中に食べに行く時間がもったいなかった。

週末に高円寺の八百屋やスーパー(サミット)で素材を仕入れ、一気に調理して作り溜めし、冷凍保存する。
おからが安かったので大量に作った。
小麦粉が安かったので、具ナシお好み焼きを大量に作って冷凍した。

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ランチタイムになると、いつも友人兼子会社代表のY田が僕のデスクにきた。

「お前、会社上場したのに手作り弁当食ってんのかよぉ」
「しかも、そのおかずなんだよそれ。まっずそうだなぁー。おから?」
「自分で弁当作ってるオトコなんているかよぉ?ケッケッケッ」
「また、おから?おいおい、何でそんなビンボーなんだよぉ、ケラケラケラ」

細身、色黒で学者のようなメガネをかけていてガンジーにとてもよく似たY田は、とにかくニヤニヤと嬉しそうだ。

「嘲笑」というやつだろうか。
人は自分より愚かな人間をみると、こんな平和な笑みを浮かべるようだ。

僕はなぜか、自分が馬鹿にされているにも関わらず、そのガンジーY田の「嘲笑」が好きだった。

スピード狂なベンチャーカルチャーな職場において、ガンジーY田はいつもやや周回遅れ気味な口調で仕事をしていた。
週イチの経営会議では、他の役員陣に詰められるシーンも多かった。

「おい、この恐竜ゲーム、売上いくらなんだよ。1万円?話になんないじゃん」
「Y田がネット上に顔出して『どなたか、お金振り込んでくださぃ〜!』って土下座した方がいいんじゃないこれ」

Y田はいじけて無言で会議室を出ていったこともあった。
そんな苦労人Y田を笑顔にしてやるのも、親会社CFOの仕事の一つではないだろうか。

夜ご飯は8時以降に近所のスーパー「吉池」に向かう。
8時を過ぎると食材に「半額シール」が貼られ始めるからだ。
うどんの生麺が20円だった。
豆腐が40円だった。
豆腐の中にうどんの生麺を入れて、醤油をかけて食べた。


「お前、生のうどんをそのまま食うやつなんているかぁ。へっへっへっ」
「うどんに豆腐混ぜんのかよ!何かグチャグチャで汚ねぇなぁ、よくそんなの食えるなぁ。カッカッカッ」
「パソコンの横に醤油置いてる社会人なんているのかよぅ、クックックッ」

Y田はいつも以上に笑っていた。

たまの外食は「はなまるうどん」だった。
同行したY田は興味津々な表情で「オレはかけうどん中サイズで200円と天ぷらつけて300円かな。さ、お前はどうするんだ?」とふっかけてきた。

「Y田、甘いな。かけうどんは100円の小サイズを2つ頼んだほうが汁が多いし、2つの味を楽しめるんだぜ」

一つのかけうどん小に無料の天かすを大量に入れ、もう一つのうどん小に無料の生姜を大量に入れた。

「お前、無料だからって天かすをそんなに入れる客いないだろ。お店に迷惑だろ謝れよ、クックック」

嘲笑を繰り返すY田はこの翌年、子会社上場により大金持ちになった。


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平成18年(2006年)33歳①
赤坂事件簿(汚物、盗難)


CFO管理本部長。

管理本部は、会社のバックオフィス全般、すなわち、財務・経理等の会計数字周りから、採用・人事・労務などの人材周り、広報・IR、総務・法務といった会社のインフラや危機管理全般などの役割を担っている。会社では「守りの要」的な部門だ。

これに加えて、M&A(企業買収)やベンチャー投資といった、お金を使った「攻めの投資」も積極的に推進していくことになった。

「攻めと守りを同時にやる」というなかなかの矛盾性を孕んだ役割だった。

上場CFOデビューの新人1年目は初めてのIR対応(決算開示・投資家対応)に加え、株主割当スキーム、子会社上場、海外で資金調達し、3件のM&A(企業買収)、4件のベンチャー投資、ファイナンス子会社設立して代表取締役に就任など、相変わらずとてもバタバタと多忙な日々だった。

CFO管理本部長としては、高度なファイナンス荒業を実現する一方で、日々、泥臭い仕事も処理しなければならない。


「男性エンジニア社員の体臭が臭すぎて仕事になりません。管理本部長、どうにかしてください」

と複数の女性社員が僕の席に駆け込んできた。

開発現場も多忙なプロジェクトに追われていた。
僕もよくオフィスに寝泊まりしていたが、開発部門のオフィスでもちらほら徹夜する常連がいた。

「今日は僕がここのソファで寝ていいっすか?」

などと、会社受付にある唯一のソファ利用を巡って、深夜2時頃に現場の徹夜常連メンバーと交渉しに行くことも多々あった。

徹夜続きで風呂に入らず、やや酸味のある腐臭を匂わせる社員に対して、管理本部長は何らかの指導をしなければならない。

「社員各位 皆さん、ちゃんと帰宅して、家でお風呂に入りましょうね」

的な文章を月曜の朝イチに全社員メールで送るというのも管理本部長の仕事だった。

「管理本部長、会社の入り口にいつもツバが吐かれてるんです、どうにかしてください」

「社員各位 入り口でツバを吐かないでください」

「管理本部長、会社の入り口にカラスがいるんですよ。カァーカァーすごくうるさく鳴いてます。どうにかしてください」

入口に行くと、カラスのひなの死骸を発見。え、これを俺が除去するの?親カラスがめっちゃカァーカァー威嚇してるんだけど…


「ファイナンスだのリーガルだのスキームだの高度な仕事やってるのに、体臭だ、ツバだ、カラスだ、うるせーなおい!!」

などと発狂しそうになる気持ちを抑えた。

支離滅裂、シッチャカメッチャカ、暗中模索、阿鼻叫喚、無茶苦茶な労働環境には慣れていたせいであろう。

その後も、
「管理本部長、会社の入り口にゲロがあります」
「管理本部長、会社の入り口にウンコがあります」

などのこの「会社の入り口」に関するインシデント報告が絶えなかったのは、オフィスの立地や設計によるものもあった。
港区赤坂。繁華街のど真ん中にある東海赤坂ビル。
8階建ての雑居ビルで1Fは飲食店。
ハーフサイズの螺旋階段をのぼると2Fの会社入り口。
酔っ払いたちが休憩するにはもってこいの踊り場スペースがあるのだ。



「おいおい、こんなボロいところに上場企業が入ってるのかよ。」

と多くの来客ビジネスマンは驚いていたに違いない。


===

そして平成18年(2006年)の春。

ツバやカラスやウンコとは比べ物にならない「大事件」が舞い込んできた。

「管理本部長、会社のサーバーが盗まれてるようです!!」

「ジャン!ジャンジャンー!ジャン!!」
頭の中で「踊る大捜査線」のイントロが流れる。

本格的な刑事本部長デビューが始まった。

ハードディスク30台盗難事件。
その中には64,200人分の顧客情報も含まれていた。

刑事本部長としてすぐさま現地に向かった。
犯行現場は会社のある赤坂ではなく、業務委託先の池袋サーバーセンターだった。60階建て高層タワービル「サンシャイン60」。

「外観やエントランス等から判断しても、全然、うちの会社よりもセキュリティしっかりしてそうだけどな…」

現地で開発部門の責任者や子会社の幹部とも合流した。
盗まれたデータは子会社のオンラインゲームユーザー情報を多く含んでいて、一番のダメージを被るであろう子会社幹部も駆けつけていたのだ。関係各社による緊急対策会議が開かれた。

「これはマジでヤバいことになりましたね…」

「個人情報漏洩は大問題ですよ。明日、リリースを出さないとマズいね」

「警察にも被害届を出しましょう」

「ユーザーのIDとパスワードが漏れてるので、ユーザーにも告知しないと。ゲームは一旦止めないとですね」

「しかし、一体、誰がどうやって盗んだんだ…」

「構造上、これって明らかに内部の仕業ですよね」

「犯人はこのサーバールームに従事しているアルバイトの誰かに違いない」

「弁護士にも相談しよう。普段の企業法務とは違う刑事事件に強い弁護士を探そう」

本事件に関して一番熱く議論をしていたのが、子会社幹部のE君だった。
E君は2年前に僕が面談して中途採用で入ってきた社員だ。
20代後半、プロレスラーのように図体がデカくて、顔つきも野性味があって迫力のある男だ。子会社の上場準備で人手が足りなかったし、前職で上場企業の経験もあり、攻撃力が高そうだったので即採用した。

「会社へのダメージハンパないっすよこれ!絶対に犯人を見つけて、徹底的に追い込んでやりますよ!!」

血気盛んなE君の大号令によって、B級刑事ドラマの始まり始まり。

警察署に被害届を提出し現地調査してもらった。
若い警官がサーバールームに入り、1台1台盗まれた箇所を確認し、面倒くさそうに指紋の採取を行っていた。「たかがパソコンの部品が盗まれただけでしょ?」といった感じの対応だった。

「東京の警察なんて頼りにならないっすよ。我々で徹底調査しましょう!」

Eくんは血気盛んに僕を連れ回した。

サーバー監視業務は24時間稼働の交代制で、10名のアルバイトで対応していた。みんな20代前半の大学生かフリーターだった。
彼らを「容疑者」と見立てて、僕ら凸凹刑事コンビの事情聴取が行われた。

「トゥルル、トゥルル、トゥルルルー」
「トゥルル、トゥルル、トゥルルルー」
頭の中で「古畑任三郎」の挿入曲が流れた。


「お前がやったんじゃねーのかよ、えー!白状しろや!」

深夜のサーバールームにEくんの怒号が鳴り響いた。

10名全員との面談を済ませたのち、僕らは打ち合わせ用の小部屋に移って今後の対応を話し合った。

「間違いなくアイツがやりましたね。今日中にアイツの家にガサ入れにいきましょう」

ヒョロっとしたオタクっぽいフリーター男性が僕らの容疑者Xとなった。

「えぇー?えぇー?僕、なんにも知りませんよぉ」

容疑者X青年はおどおどしながら答えていたが、瞳の奥では我々を若干バカにしているようにも見えた。
Eくんはその瞳の奥のくすみを逃さずに、「こいつ、俺たちを見下してる。絶対に犯人に違いない」と激しく思い込んでいた様子だった。

「このままお前の家にいくぞ、いいな」

「えぇー、なんでですかぁ。そんな権利あるんですかぁ」

Eくんを半ば強引にタクシーに乗せて、容疑者Xの家に向かった。

都内からタクシーで1時間半。
千葉県郊外の住宅地だった。当時、地名や最寄り駅を聞いたはずだが、今になって全く思い出せない。
聞いたことのない私鉄が近くを通っていた。
駅周辺は帰宅するサラリーマンや若者が多く見られたが、店はコンビニぐらいしかなかった。

容疑者Xの自宅は、駅から少し離れた住宅街にある築年数の古いアパートだった。
深夜に明かりは乏しく、少し離れた幹線道路に中古PC買取屋「ハードオフ」の看板だけが目立っていた。

容疑者Xはしぶしぶドアを開けると、Eくんは真っ先にドシンドシンドシン!と外国人レスラーのような動きで、部屋の中に乗り込んだ。

ワンルームの真ん中に小さなノートパソコン。
敷きっぱなしの薄汚い布団。
テーブルの上には飲みかけのペットボトルとカップラーメンの食べ残し。
開きっぱなしのマンガ週刊誌。
そして異常な量の散乱するCDROM。

テレ朝のバラエティ「銭形金太郎」で見る光景に酷似していた。

パワーレスラータイプのEくんは散乱したCDROMをベイダーハンマーでかき回しながら、ドスの効かせた咆哮を上げた。

「この中に盗んだPCメモリーがあるんだろうがぁ〜!」

容疑者X青年は怯えることもなく、部屋の片隅でゴブリンのような薄ら笑みを浮かべていた。


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平成18年(2006年)33歳②
恫喝金融屋vs新卒軍団


「犯人探ししてても、どうせ何も返ってこないから、もう通常業務に戻ってよ」

社長兼友人のKくんが、いつもどおりの口調でさらりとしたメールを送ってきた。

結局、ハードディスク盗難事件は証拠不十分で迷宮入りとなった。

事件のリリース以降、本社と子会社の株価は暴落し続け、責任を取る形で役員報酬の減額がリリースされた。

https://www.aeria.jp/pdf/cTG6Uz

そんなこんなで上場してからも、ジェットコースターのような毎日。
調達したお金で企業買収をし、関与先の企業が増えた。ついこないだまで単なるWEB開発会社だったのに、今では子会社10社を超えるグループ連結経営体制に移行することになった。

僕は親会社CFOとして子会社の役員も兼任し、経営のモニタリングをするため、毎月一度は子会社の経営会議に参加することになった。
大阪のコンテンツ制作会社。品川のサーバーホスティング会社。秋葉原のゲーム開発会社。八丁堀のWEB開発会社。名古屋の特許管理会社。初台の不動産管理会社。
場所も業態もバラバラだった。

また100%ファイナンス子会社を設立して代表取締役社長にも就任していた。
投資案件のソーシング(探すこと)とグループ子会社管理が業務の大半を占めるようになり、新卒社員を中心とした若い部下を抱えて業容の拡大に追われる日々。

社会人になって10年。いろんな人と仕事をしたが、僕は「若い人と働くのが向いている」ということが分かった。

インターンとして学生時代から働いていた明治大卒のS木くんがそのまま入社して即戦力となり、慶応SFC卒のM山くん、S崎くん、中央大卒のOくん、東洋大卒のT沢くんなど一回り離れた新卒の男たちが僕の部下になることになった。

上司というのは威張ってはいけないと思っていた。
だって自分が部下だったときに威張られてたのは嫌だったので。
ミスした部下に「何で出来ないんだ!」と指摘したところで、改善して出来るようになることはほぼなかった。
具体的なヒントを出してあげたり、答えをそのまま教えてあげて「この通りやって」と言ってしまう方が解決が早かった。

ただ、とにかく「手を動かすのは早くしろ」と指導した。
「パソコンはマウスを使うな」と竹刀片手にパワハラ体育教師さながらの熱血指導をしていた。
最低限の簡単なエクセルは教え込んだ。
パソコンでのエクセル作業はかつてのそろばん(算盤)のような基礎スキルだ。

投資やM&Aの仕事は、見つかることのない金鉱脈を探すような作業ばかりでとにかく無駄や不毛になることが多かった。
相手と会って、情報を収集して、分析して、エクセルで計算してみる。
95%ぐらいハズレくじなのだけれど、諦めずにくじを引いてると「当たり」に出会うことがある。とにかく高速でハズレくじを引き続けながら、諦めない精神を維持するという根性や忍耐のセカイだ。

くじを引くには、人(&企業)と会話しなければならない。
人っていうのも千差万別で、パターンが多すぎる。相手を理解し、相手の意向を上手く汲み取らないと、誤解が生まれて物事がうまく進まない。

対話とエクセルを駆使して進める仕事は、現代版の「論語と算盤」のようだった。

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投資や金融といった「オトナの世界」にこの新卒シロウト軍団で挑む。
まだこの頃はキングダムは始まってなかったけれど、「飛信隊」にでもなるつもりだったのだろうか。

当時まだ小さかった日本M&AセンターやM&Aキャピタルパートナーズ、ストライク、レコフ、などといったブティック型のM&A業者と片っ端からやりとりをして、年間100社ほどの投資案件検討をさばいていた。

「ゲームが好きだからS崎くんはゲーム会社担当。SFC卒だからネット企業はM山くん。金融系はS木くんね」などと、担当窓口を新卒メンバーに割り振った。(テキトー過ぎる…)

しかしながら、持ち込まれる投資案件の多くは精査した上で見送りになるため、成立するのは100件に1件の1%程度だった。

「それにしてもこんなに多くの案件を見送るだけってのはもったいないな。これって社内副業的にビジネスに出来ないかな?」

当社は元々WEB開発会社だったので、社内のエンジニアに頼めば簡単なウェブサイトはすぐに作ることが出来た。

こうして恐らく日本で最初のM&Aマッチングサイト「M&A one」が安易に爆誕した。

そして、このサイトをローンチすることで、当社の事業領域に限らず雑多な投資案件が持ち込まれ、更なる数多くの「胡散臭い人たち」と対峙することになっていった。

Jブリッジ、平成電電、ICF。
元・東京地検特捜部。
大御所俳優の専属裏マネージャー。
政治家支援団体。

当時はfacebookもなかったので、魑魅魍魎の胡散臭い人たちのレファレンスを取るのが簡単ではなかった。「山岡俊介ストレイドッグ」や「東京アウトローズ」、「もう気が済んだかい会社ごっこ」といったブログニュースサイトを回遊チェックした。

この時期会った人で、のちに恐喝、詐欺などで逮捕された人は僕が覚えているだけで5人いる。

M&Aの検討でやり取りして、途中で見送りになったことを伝えると、
「お前らだけは絶対に許さないゾ、ゴラァ…」
と10歳ほど年上のイカツイオジサンに電話口で恫喝されたこともある。

当時はまだ若かったのでよく分からなかったのだけど、こういう嫌な思いをするのが「金融業」だったのかもしれないし、恫喝してきたイカツイオジサンも他の誰か(ビッグブラザー的な人)に支配された存在だったかもしれない。社会とは常に見えない上位層がいて、現場で強がって恫喝している実行犯は本当は「弱い立場の人間」だったりするのだ。

「平成の経済事件ベスト5」に入る巨額詐欺?案件で東京拘置所に入った人とは、一緒に中国出張にも行ったことがあった。有名私立大学の経済学部を卒業し、厚レンズなメガネが似合うマジメ風ビジネスマンだったが、「カネ」「儲かる」みたいなワードが好き過ぎて、度を超えてアチラの世界に足を踏み入れてしまったようだった。

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週1回の業務報告会は若手部下たちのTODOチェックに加えて、とにかく「笑い」を作り、場を和ますことに注力した。

会社とは常に数字の成果を求めるし、目標数字も大体努力してようやく届くぐらいに設定されている。そもそも結果の出づらい辛い仕事ばかりだったので、ハッキリいって「やってられない感」が満載であり、笑いの一つでもないとやってられない感じだった。

「お前ら恋愛の方はどうだ?え、みんな彼女いないのか。しょーがねぇなー、オレが合コンセッティングしてやるかぁ」

などと、今ならパワハラ・セクハラギリギリの上司オジサンだが、昭和の師弟関係よろしく部下の面倒をみるプレイとして何度か合コンをセッティングした。

若者との会議では、IT企業の先輩として「最先端の情報を追いかける姿勢」も示さねばならない。

「えー、会議の前に一つ。お前らTENGAって知ってるか?」
「なんですかそれ?聞いたことありませんね…」
「子会社で運営企画やってるK元くんに聞いたんだけどサ。早速サイトで買って試してみたんだけど、マジすごいよこれ。革命だぜ」

と部下全員にプレゼントし、後日それぞれからプロダクトの「抜きフィードバック」を聞いたりもしてみた。

また、笑うためのネタとして、週次で追う「裏KPI」の一つに「今週の数珠」というコーナーもあった。

投資事業やM&A関連の新規商談で日々色んな人に会っていたのだけれど、とにかく目つきの怪しい胡散臭い男が多かった。
些細な笑顔はキュートだけど、瞳の奥が異様にくすんでいる。外見はとても小綺麗でスーツ姿は清潔感あるのだが、腕に「数珠」をつけている男がやけに多かった。

「今週の数珠ラーは、大粒で真っ黒な大理石をつけてました。岩石みたいな顔で、浅黒くて、アメフト選手風な体格でヤ●ザみたいでマジ怖かったです」

数珠をつけた男たちはほぼ100%詐欺まがいだったので、僕らの合言葉は「数珠には気をつけろ!!」だった。

元証券マン、元会計士などの肩書で「私はちゃんとしてますよ」風に入り込んでくる小太りの中年男性も概ねアウトだった。

たまに「顧問」「会長」という肩書だけの名刺を渡してくる、あきらかに「組長タイプ」の強面ボスと対面することもあった。上司である僕自身も所詮初心者レベルであり「かわのよろい and どうのつるぎ装備」で大ボスに対峙する日々は精神をすり減らした。(もちろん戦わずに逃げることが多かったが、回り込まれることも多かった)

ほぼ新卒の若手素人連中を揃えたチームで、魑魅魍魎の輩が徘徊するセカイでM&A等の投資事業を推進するのは、さすがに無理ゲー感があった。

若者たちの精神衛生を保つためにも、「スベリ合コン」や「TENGA」や「数珠ラーKPI」のような笑いや癒やしが必要だった。赤坂の雀荘で徹夜麻雀したり、休日にバトミントン、木場公園でビニールバット草野球。正月には桃鉄大会。

日々、怖いボス敵と対峙するには、童心に帰るような遊びでもしないとうまく精神バランスが取れなかったのかもしれない…。

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平成19年(2007年)34歳
奇々怪々の大阪

M&A(企業買収)というのは実行後が大変と言われている。
企業は所詮人であり、決算やKPIなどの数字を見て評価してみてもそれは実態ではないし、数字と数字を重ね合わせても、付加価値は生まれない。
人と人が腹を割って相互理解に努めないと、数字だけを追った企業買収はロクな事にならない。
買収した各社社長のパーソナリティも営業型やクリエーター型などバラバラで、親会社の経営陣と歩調を合わせるのはなかなかの無理ゲーだった。
ましてやカルチャーの大きく異る会社同士での企業連結は難儀を極める。

平成19年(2007年)の6月に株式公開買い付け(TOB)を使って子会社化した大阪の金融会社D社。
この弊社最大のM&A案件が、企業自体のべクトルを大きく変え、また、その後の僕の人生に大きな影響を与えている。

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「ちょっとこのままじゃヤバすぎるよ。大阪乗り込んでくれない?」

TOBによる過半数取得で買収したD社は上場企業だったので透明性あるクリーンな企業のはずだった。
PBR1倍割れで、要するに「純資産より安い状態で企業買収出来る割安なM&A」と思っていたが、見た目の数字には載っていない負の遺産が隠れキャラのように存在していた。

このM&A案件は先方のオーナー社長から「よかったらウチと提携しませんか?」と直接持ち込まれたものだった。

こっちは上場企業といえど、従業員50人足らずのちっぽけな開発会社だった。買収される上場金融企業は従業員400名強、子会社も5つあるホールディングカンパニーで、1950年(昭和25年)創業の社歴ある企業だった。

「買収するにしても大き過ぎるし、誰か社長を派遣しないとな。誰かやってくれる人いないかな…」

社内には大阪の老舗上場金融企業を経営できるような「社長の器」をもつ男は皆無だった。

「大阪の上場企業で社長かぁ。オモシロそうっすね…」

デイトレーダーのM瀬師匠が名乗りを挙げてきた。
僕より3つ年上だけど、ぷっくりお腹に白髪交じりのパーマヘア。晩年の天龍源一郎を思わせる貫禄があり、ルックス的には申し分ないかもしれない。
資本提携交渉の席にも「次期社長候補」として商談を進めてみると、60代後半の大阪オーナー社長とも何だかノリが合う様子だった。

M瀬さんはそのままスムーズに代表取締役社長に就任し、単身で大阪に引っ越した。僕もいつもどおり買収先企業の取締役になった。これで10社目の役員兼務だった。

初期の大阪出張では丸2日間かけて、子会社の部長以上全メンバー約20人との面談を実施した。

今までの社会人人生では会ったことのないタイプの人たちばかりだった。前職で取引先だった池袋のH通信社と似た雰囲気の「ゴリゴリ営業会社」だったものの、「年齢層の高さ」と「関西風」により同じように見えるけど全く異なる位相を感じさせた。いや、逆にトポロジー的には違うように見えるけれどこれは「同相」なのかもしれない。

「この連中は多少無理目な営業させるんですわ。ちょっと入れ替えないとあきませんな」
「この若い子たちは優秀でっせ。京都大卒に同志社大卒です。ぜひ、使ってやってください」
「例の顧客との訴訟の件は解決したんか?2億だったか?」

同席したオーナー会長は鋭い視線とベタベタの関西弁で会議を仕切り倒していた。資本提携時に僕らに見せていた和やかな表情とは別人のようだった。

「いやー、東京から来て会議ばかりで疲れましたやろ。うな重でも食うてください。こんな狭いところですんませんけど」

僕は30年ぶりにうな重を食べた。
もうこれを食べてしまったら、買収後にどんな悪い結果が出たとしても、妥協せざるを得ない気がした。
このうな重によって「あのとき、一緒にうな重食うた仲じゃないですか」と交渉切り返しの一手に使われるような気もした。

そして20人面談の際に再三出てきた「顧客との訴訟」という文言が気になった。

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企業買収後のPMIは新社長のM瀬さんに任せて、自分は東京に戻って普段通りの煩雑な連結経営&投資事業等に戻った。

買収後の四半期決算数字はボロボロだった。
この買収のせいで、平成20年(2008年)の連結決算では上場後初の赤字に陥った。

「このままじゃヤバイよ。M瀬さんは現地ですっかり現場の関西人たちに懐柔されちゃってるからドライな判断が出来なくなってるよ。大阪行ってきてよ」

新幹線に乗って久しぶりの大阪。

そういえば大阪って、社会人になってから何度か来てるけど、いい思い出が一つもない。

平成17年(2005年)に買収した大阪のコンテンツ制作企業も経営管理が恐ろしくずさんで、企業の親子間を調整する中間管理職的な立場の僕はさんざん苦労させられていた。

久しぶりにリアルで会うM瀬さんの頭髪は真っ白になっていた。
日中にいくつかの会議をこなしたのち、その晩、初めて大阪で飲みに行った。

近くの居酒屋で不味いちくわの磯辺揚げなどを食べながら、M瀬さんを慰労することにした。

「いやー、大阪、マジキツイっす」
「毎日、赤坂から指示メール来ますけど、正直現場はキツイっす」
「酒飲まないとやってられないすよ。毎日ウイスキーの小瓶飲んでます。もうアル中っすかねこれ」

白髪のM瀬師匠は10歳ぐらい老けてしまったように見えた。相変わらずお腹はぽっこりとしてて、白髪交じりの天然パーマ姿は引退直前の天龍源一郎のようだった。

かつて僕に伝授してくれた奥義「腹式呼吸」は使っているのだろうか?何をやっても歯が立たない窮地に追い込まれている様子だった。


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東京に帰って社長に報告した。

「これはもう無理だね、会社売却するしかないな。大至急動いてくれない?」

この企業売却案件は規模が大きすぎたので、若い部下には任せることが出来ず、自分単独で動くことになった。
上場企業子会社のインサイダー情報案件なので、社内に情報も漏れないように秘密裏に動いた。

これまで数多くのM&A系金融業者と接点をもったことが功を奏したのか、比較的早く候補者が見つかった。


一人目のエントリーはは体重150kgぐらいの巨漢で、色白でタレ目、甘いものが好きそうな横綱大乃国のような人だった。
年齢は50前後で真っ黒な車に乗って、僕らのオンボロオフィスに現れた。

「この人はホントすごい人なんすよ。300億の土地の売買とかもこないだなさってましたもんね」

ハトのような目をした社名も聞いたことのない中小証券会社の仲介営業マンがゴマをすっていた。

「会長 高瀬高舟」という名刺だった。住所もメアドも書いてなかった。明らかに偽名だろう。くっきり二重の瞳の奥は全く笑っていなかった。

二人目のエントリーは二人組でやってきた。
年齢は40代中盤ぐらいで終始ニコニコしたオジサンだった。背は低く小太りでキツネ目の男だった。元証券会社勤務とのことだった。
もう一人も同じぐらいの年齢で、中肉中背タマゴ肌で顔ツヤが良く、明るいAV男優っぽいオジサンだった。元商品先物業界とのことだった。

どちらにしても、超ド級の「胡散臭い」人物たちだった。

「もうホント、急がないとマズいよこれ。どっちかに売っぱらっちまおうぜ」

後者の二人組への売却を進めることとなった。
数千万ほどの運転資金を会社に残し、子会社4社をまとめてほぼ1円で売るようなスキームにした。
スピーディーに契約まで進んだ。


「明日各社から正式にリリースされるので、私も新オーナーとして大阪にいって社内でアナウンスしてきます。以降、大阪の現場経営はコチラの二人で仕切らせようと思ってます」

小太りのキツネ目男はニコニコしていたが、細い目の奥はやっぱり笑っていなかった。

現場経営を任せる二人とは、業界経験のあるタマゴ肌の男に加えて、同じく40代半ばぐらいのメガネをかけたガリ勉教授風の男だった。「ヨロシクオネガイシマス」とやや歪んだ表情で挨拶した。公認会計士資格をもち、以前は新聞記者もやっていたとのことだった。

ここから半年は業務の引き継ぎが発生するが、自分たちの経営管理下からは正式に外れることになったので、僕もM瀬さんもホッと胸をなでおろした。

しかし、本当の地獄はここからだった。


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買収後大阪に乗り込んだ二人組は態度を急変させて、現場に厳しく当たり散らし大きな混乱が生じているようだった。
また、すぐに「会社の現金が足りない。引き継いだ社員に給料が払えない。お金を貸して欲しい」と運転資金を要求するようになった。

口調も買収前とは異なり、メールの文章含め、脅すような表現が増えていった。
キツネ目のリーダー格に加えて、交渉相手の新顔として、ギョロ目で肌荒れが激しいヤンキー風幹部が現れた。
満を持して登場してきた切り込み隊長のように。

ギョロ目は休日にも容赦なく、携帯電話に催促の電話をかけてくる。
「おい、お前らのせいで大変なことになっとるぞ。早くカネを振り込め。いつになったらカネを振り込むんや、こっちはヤバいんだよ」

電話口の後ろでは、日曜競馬実況の音声が聞こえてくる。

ギョロ目からの執拗な攻めに続き、大阪の経営現場を仕切っている二人からも頻繁に相談メールや電話が来る。

メガネ男からは「あの人達ってちょっとヤバいんで、言うこと聞いたほうがいいですよぉ」などと、婉曲的な脅迫メールを送ってきたりする。
タマゴ肌からは「僕の立場もホントやばくなるんですよ、早く助けてくださいよ。早くとっとと振り込んでください」と懇願モードを使ってきたり。

一方で引き継ぎ業務で振り回されている大阪のM瀬さんからは「SOS」の連絡があった。

「こっちの状況ヤバすぎます。ハッキリ言って、あらゆる方向からの身の危険を感じます。ボディガード雇ってもらっていいでしょうか?」


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「君たちみたいな若いIT企業は、こういう連中に狙われやすいんだよなぁ」

上場企業のトラブル対応に精通しているヤメ検と言われる元地検特捜部の弁護士を顧問につけた。
赤ら顔したルパン三世風のヤメ検先生は、気さくでざっくばらんな方だった。

「まずは奴らの身辺調査出してみましょうか」

1週間ほどで調査会社から、キツネ目とギョロ目の身辺調査レポートがあがってきた。

「やっぱり、とんでもない奴らだなぁ。いわゆる、ヤカラだね。半グレって言ったほうがいいかな。まあ、まともに対応しちゃダメですよ」
「万が一、相手に会うときは一人で会わないでください。同行者を必ず連れて行くように。場所も相手の指定先は避けましょう」

ルパン先生はしかめ面をしながらも慣れた口調で、矢継ぎ早にアドバイスをくれた。

「うーん、あと一応夜道は気をつけた方がいいね。地下鉄も乗らない方がいいかもなぁ」


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「大阪のM瀬さん同様、オレにもボディガードつけてもらった方がいいかな。ヤカラの二人は東京にいるんだし」

法律事務所からの帰り道、社長兼友人のKくんに尋ねてみた。

「そんなのダイジョブだろ。M瀬さんはビビってるだけだよね」

度胸あるオトコ・社長の器だな、などと感心する一方、ヤカラたちと対峙してリスク負ってるのは僕とM瀬さんの二人であり、社長は一切表に現れてないんだよなこれ。


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「とうとう大変なことが起きました。銀行通帳を持った管理部長が、彼らに拉致されました!」

大阪本社の金庫番である老齢の管理部長Aさんがひどく恫喝され続け、挙句の果てに、銀行通帳とともに拉致されたとの一報が入ってきた。

人が拉致される。

普通の社会でこんなことはあるのだろうか。「拉致」という言葉自体、ニュースでしか聞いたことがないし、そもそもどういう現象なのかもよく分からない。

自分の身近でこの「拉致なるもの」が発生し、その事象の緊急報告を受けたとて、自分は一体何をすればいいのだろうか。こちらは警察でもあるまいし。今から急いで走って現場に向かおうとしても、大阪まで400kmも離れている。

一体、どうやって助ければいいのだろう?

大阪D社の管理部長Aさんは従順で長年会社の経理部門を支えていた功労者だった。
買収後も連結決算の連絡業務など、真摯に対応してくれる、実直で真面目なタイプの方だ。

ああ、無力感。

無事を祈ることしか出来なかった。


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ふと、M瀬さんと大阪で飲んだ日のことを思い出した。
飲むと普段以上に明るくなる人だった。
ルックスは天龍源一郎のようなオジサンだったけど、気持ちは若いし、よく笑うし、シュールなギャグにも受け身が取れるタイプで、雑談相手としては最高だった。

ウイスキーの水割りを部活帰りの学生みたいにガブガブ飲んでいた。「飲まないとやってられない」というのは、こういうパターンのことか。酔って脳をバカな状態にして「現実を認識できないように」しないと、心がやられてしまうのだ。

「M&Aとかこんなアコギな仕事ばっかりしてると、いつか東京湾に浮かぶ日が来るかもしれませんよ!ガッハッハ」

どんな悲惨な状況でも笑いを取りに来る姿勢は、見た目はやや汚いオジサンであっても「美しさ」すら感じた。僕ら自身の境遇を揶揄する笑い。自虐ギャグの美しさ。廃墟や廃れゆく商店街の美しさ。


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平成20年(2008年)、35歳の転落
リーマンショックとFX


「子会社のGP社だけど、こっからもっと伸ばすなら、ブランド力のある大企業と提携とか進めたいよね」

役員陣の知り合いルートを辿ってソネット社に接触してみた。彼らも「エンターテイメント領域」に強く関心があったようで、トントン表紙でことが進み、2年前の平成18年(2006年)に資本提携した。

僕ら経営陣よりも10歳ほど年上の気品あるジェントルマンな方々だった。
提携ディール後は高級中華の会食に招かれた。

僕らのような雑草魂ベンチャー少年とは異なる、育ちのいいエスタブリッシュメント感が醸し出されていた。
M&A界隈で接する胡散臭いオジサンとは全く違う。
とにかく「いい運気」を感じた。
もう直感で「さすがソニーだな!」という印象。
調べてみるとソネット社の提携先は成功している会社ばかりだった。(ソネット)エムスリー、DeNA、エニグモ。うん、これは運がいい。

資本提携後、僕はその運気の恩恵に更に乗っかるべく、ソネット社が引っ越しする際に当時CFOであったT時さん(今ではソニー本体の超偉い方)が使ってた机を譲り受けた。

「お前、会社上場したくせに、机も買ってもらえず、また、人からもらってるのかよ。相変わらず乞食みたいだなぁ、クェックェックェッ」

とガンジーY田からは再び嘲笑されたが、そんなことはどーでも良かった。
人から笑われようが、運気が上がればこっちのもんだ。
よっしゃ、これでオレの運気もバク上がりだぜ!

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そんなスピリチュアル気分な資本提携から2年後。
ソネット社から「残りの株式も全て買取して100%子会社にしたい」との提案が来た。

子会社GP社とはお別れ。ガンジーY田の嘲笑が見れなくなるのは寂しいけれど、その代わりに運気上昇間違いなしのT時さんのお下がり「ラッキーデスク」を手に入れてるので、まあいいか。

僕個人も上場していた子会社(GP社)を付与されていたので、ソニーグループ(ソネット社)に売却することでお金をもらえるようだった。

平成20年(2008年)4月のことだ。

金欠を極めていた僕の社会人人生において、初めてまとまったお金(外車買えるくらいの)が銀行口座に突然振り込まれてきたのだ。


さてさて、このお金をどうするものか。
借金返済に全て当ててしまうか。

いやいや。いやいや。

ちょうど仕事でY商事さんと提携を進めていて、僕自身もう少し「金融業」を勉強しなければならない。
FX(外国為替証拠金取引)やCX(商品先物取引)を理解する必要がある。

早速口座を開設し、少しだけトレードなるものをしてみた。

為替のことはサッパリ分からなかったけど、チャートはM瀬師匠に教えてもらって読み方が何となくわかったつもりになっていた。

大学時代に旅行したオーストラリアの印象が良かったので、「豪ドル」なるものを買ってみた。

株式投資のときと違って、すぐにプラスになった。

月の利回りで計算すると15%ずつぐらい増えていた。

「なにこれ、、超簡単やん。。。」

社会人になってから数字を扱う仕事も多くこなし、エクセル作業もめっちゃ早かったので、スキルには自信があった。
なのに、5年前では株ですっからかんの大損したりして、我ながら「なんでやねん!」と納得がいかなかった。

しかも株式と違ってFXは24時間取引可能なので、仕事が終わってから簡単に出来て、現業の邪魔をすることはなかった。
てゆうか、現業で金融業と提携進めているんだから、これはもう「本気でやるべき仕事」の一つだと解釈した。

月15%で全ての現金を運用するシュミレーションをエクセルで簡単に作ってみた。すごい金額になった。

「これか!やっと、お金の女神がようやくオレに微笑んでくれたのか!!」

長い道のりだった。
東京のベンチャーサラリーマン人生。働けど働けど楽にならず。滑ったり転んだりで苦労の連続だったが、ようやく報われる時が来たのだ。
「時は来た!」

早速、銀行口座にあった現金をFX口座に移して、豪ドルに加えて、何となくNZ(ニュージーランド)ドルも買ってみた。(羊が好きだったし)
小さい利率だけどどうやら金利ももらえるみたいで、レバレッジをかけて金額がそれなりに大きくなるとその金利も馬鹿にならなかった。

「金利だけで給料ぐらいイケるんちゃうこれ!!」

心の中で僕のにわか関西弁が響いた。


===


3ヶ月後の平成20年(2008年)9月。
定時は10時出社なのでいつもどおりゆっくりとした朝。
今日も会社のエントランスは汚れていたが、これだっていつもどおりだ。

運気デスクの上には醤油の小瓶。
いつものようにバランスボールに座って、軽く揺れながらメールをチェックすると、受信トレイが溢れかえっている。


「強制決済のお知らせ」
「強制決済のお知らせ」
「強制決済のお知らせ」
「強制決済のお知らせ」
「強制決済のお知らせ」
「強制決済のお知らせ」
「強制決済のお知らせ」
「強制決済のお知らせ」

受信トレイに100通は届いていただろうか。

俗に言う「リーマンショック」というやつだった。

パソコンの受信トレイを見つめていると、あたり一面が真っ白な世界になっていった。

白銀の世界とは程遠い、限りなく、くすんだ白。

白なのに、くすんでいる。

脳が取れたかと思った。

脳が無くなってしまった頭で、世界をみているようだった。脳がなくなると、こんなくすんだ「白」を見ることが出来る。

脳が取れて考えることが出来なくなり、世界はくすんだ白になったけれど、要するにまたしても貯金がほぼ全て無くなったということはなんとなく理解できた。脳が取れてるのに、惰性で理解できた。

苦労に苦労を重ねて、ようやく見つけた、金のラッキーボールが手元のグローブからこぼれ落ちてしまったような感覚。

走馬灯のように、荒川河川敷でのソフトボールを思い出した。

オレンジ色の大きな夕日、綺麗だったな。

大きな夕日がゆっくりと西に沈んで、僕の周りを暗闇に包んでいくようだった。


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「カネが無くなっただけなら良かったじゃん。死んだわけじゃないんだし」

友人兼社長のKくんの助言はさらりとしていた。
これは「また稼げばいいんだよ」というニュアンスも含まれていた。
こういうハートの強いオトコが、起業家には向いているのだろう。

僕は何日もクヨクヨしていた。(まあ、そりゃそうだろうに)

「何でこんなことになってしまったんだ」
「何でオレはいつまでたっても馬鹿なんだろう」

しかも僕は既にマンションを購入し、住宅ローンを抱えていた。
それは2年前、平成18年(2006年)の夏。

僕は江東区の木場公園近く賃貸ペンシルマンションで一人暮らしをしていた。
付き合い始めた彼女が中央区月島に住んでいた。杉並区の新高円寺在住だと遠すぎてしっかりとした恋愛が出来ないので、早々に近くに引っ越してきた。

文字通り細長い鉛筆みたいなマンション。ワンフロアに一部屋しかないのでお隣さんがいない気楽さがある。
エレベーターを降りるとすぐに扉があり、5Fの窓からは東京都現代美術館が見えた。

「美術館が見えるマンションなんて、ロマンチックだな」

残念ながら、引っ越してきてから3日間はよく眠れなかった。
幹線道路が近くにあり、夜も朝もトラックがバンバン通って車の騒音がうるさかったのだ。

半年ほど過ぎた頃。
ポストにチラシが入っていた。
「近隣の方限定にご案内しています。販売中の新築マンションで空きが出ました。ぜひ、ご見学にいらしてください」

ペンシルマンションの裏にそびえ立つ、高層タワーマンションだった。

マンションの見学は、お金がかからないし、デートのコンテンツとしては悪くないと思った。
一緒に住むイメージを何となく共有できる。

僕は恋愛に焦っていた。33歳の夏。もう早く結婚したかった。
判子さえ押してしまえば、そう簡単に失恋することはないと確信していた。

「西側の窓からは湾岸のイルミネーションが見えます」
「隅田川花火大会や東京湾花火も見れるでしょうね」
「朝は富士山が見えると思います」
「北側にはいずれ東京スカイツリーというタワーが立ちます。お風呂からも見えると思います」

大手不動産企業の若手営業マンは饒舌だった。
確かに28階角部屋は窓に囲まれていてとても広々として壮観だった。

「花火にイルミネーションに富士山か。そして東京スカイツリー。ロマンチックやん」

同行した彼女もとても楽しそうだった。
付き合って1年半。
「もうこれは、勢いで買っちまうしかねーな」と強く思った。
プロポーズはしてないけれど、先にマンションを買ってしまえば、コトが進むに違いない。
住宅ローンの審査はスムーズに通って、契約書にハンを押した。

しかしながら、彼女の親から「結婚はまだ早い」と言われてしまい、新婚用のマンションでの寂しいタワマン一人暮らしをする羽目になった。

そして紆余曲折を経て、何とか何とか、平成19年(2007年)の夏に無事結婚した。

結婚後も仕事は多忙で、終電まで残業は当たり前だったけど、何とか20代絶望の淵から返り咲き、34歳にしてようやく掴んだ「小さな幸せ」だった。

その新婚生活1年足らずにして、リーマンショックという大波がやってきて、全貯金をかっさらっていったのだ。

この喪失感は、再び自律神経失調症が訪れるパターンかもしれん…。


いや。


しかし前回と違うのは、日々多忙な仕事もあるし、家に帰ると妻がいる。


そこにはまだ何も変わらない「日常」があるのだ。

ただただ。

より一層、目の前にある日常をこなしていくしかない。

西日が強く差し込む窓の外を眺めると、小さな夕日がビル群にゆっくりと吸い込まれていった。

===

【エピローグ】


「あなた方は、この会社をどうするおつもりなんですか?」

大阪D社の株主総会で、最前列の株主から、社外取締役である僕へ指名質問が出された。
株主総会という公的の場において、議長である社長以外に直接質問が飛んでくることは非常に稀だった。(平成時代は特に)
最前列に座っている人たちは10名ほどで、40〜50歳後半の眼光鋭い男たちだった。
全員、かつて面談した幹部社員の方々だった。

===

もう、自分に合わない仕事は辞めよう。

仕事においては上司や友人から言われるがままに、流されるがままにこなすスタイルで戦ってきたが、この働き方もそろそろ限界を迎えていた。

「トラブルや辛いことも、何事も経験だ!」なんて言い聞かせてきたけど、見知らぬ土地の見知らぬオジサンを実質リストラ(企業売却により)して小さな恨みを買ったり、夜道に気をつけて歩いたり、「お前らここでハシゴ外すのかよ。お前らはそういう仕事をするんだな。てめぇだけは絶対に許さないからな」と恫喝されたり、企業収益という数値のためとは言え、これは「自分がやるべき仕事」なのだろうか?

大規模なM&Aをしてターンアラウンド(企業再生)するなんて仕事は、数字上は儲かるかもしれないが、まだ30代半ばで感情型な自分にはマッチしていなかった。(しかも儲からなかった)
それならまだ若い起業家とスタートアップでもやってる方が向いてるな、と思った。


平成20年(2008年)10月には仕事で知り合った同じITベンチャー企業勤務のM山さんと意気投合して、学生起業家を支援する「i-shin  アジア学生起業家支援ファンド」を立ち上げた。
母校である早稲田大学のインキュベーションセンターにも出入りし、会社では経費許可が下りないので自腹で月額会費を払った。
学生と知り合い、起業家コミュニティを作り、根気よく交流したり指導したりもしてみた。

Twitterなんかも始めてみた。
著名なベンチャーキャピタリストT河さんのツイートを見て「インドネシアITベンチャー視察ツアー」にも乗っかってみた。

平成22年(2010年)1月、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を見た。
僕の大ボスたちがこぞって「龍馬サイコー」と崇拝していたので、司馬遼太郎を読んだことのない僕は満を持して主演福山雅治に乗っかった。「龍馬って色んな人と交流して、ただただ酒を飲んで大成したのか!」と解釈して、これならオレでもできると思い、そこからは「飲酒にコミット」し始めた。全品300円居酒屋の「赤坂亭」で後の著名人たちと酒を酌み交わした。秋葉原の激安中華「順世福」で子会社社長たちの愚痴を聞き、上野のスナックに同行した。六本木のアワバーやら西麻布やらにも繰り出した。幕張メッセの東京ゲームショウ後は立食パーティで最後まで飲み、2次会はサイゼでデカンタワイン。

かつての子会社と競合する形の、無謀すぎるオンラインゲーム事業の立ち上げも手伝った。

部下たちはそれぞれ子会社の現場に異動していき、僕の代わりの老齢な管理部長も入社して、運良くフットワークの軽さを維持できる身軽な立場になっていった。

会社オフィスは赤坂見附繁華街の東海赤坂ビルから、丘の上にそびえ立つ重厚感たっぷりの赤坂パークビルに栄転した。

腫れ物がとれ、動きやすくなり、「いい仕事の流れになってきたな」と思った矢先。吹き矢のような、鋭利で微小の嫌味が飛んできた。

「最近の仕事っぷり、何か、バリューないよね」

丘の上のビルからの帰り道。TBS社屋裏にある薄暗い急階段を下りて、千代田線赤坂駅に向かう。赤坂の夜風は赤坂見附と比べて刺すような冷たさを感じた。

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「はい、ラーメンに青椒肉絲もお待たせしましたぁ」

僕はハッとして、止めていた箸を動かし、小ぶりの焼き餃子を再び口にした。深く目をつむり、丁寧に、丁寧に、その皮とその餡を咀嚼した。

店内のテレビは既に事件報道のニュースを終えていて、春の訪れを知らせる桜の開花の話題に移り変わっていた。

僕の口からは得体のしれない香辛料の苦味が少しずつ薄れていった。

もっと美味い餃子が食べたい、と思った。



今度、珉珉に餃子食べに行こう。

希須林の担々麺も食べたいし、一点張の味噌ラーメンも食べたい。赤坂ラーメンはもういいかな。


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#創作大賞2022

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