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帰りたくても帰れない

深い眠りから醒めない。

まだ夜は明けない。

明日は来ない。

一人静かにユーカリの香る中で、
知らない人の未来を夢見る。

オレンジに煌めく街燈の、
その光の揺らぎが、
夜の深まりを教える。

早々に帰らなければ、
この町に独り取り残されてしまう。

けれど、
まだ帰りたくない。

する事も無いのに何も無い今を、
如何にか引き延ばそうとしている。

遠く灰色に霞む山々の端に、
家々の明かりが瞬く。

山小屋にまだ明かりは灯らず、
黒く濁った風景の片隅にぼんやりと描かれる、
まるで洋服に付いた染みのように。

もう決して取れないのに目立つ。

厄介な代物。

人々の歩みの中に身を置くと、
僕はようやく生の実感を得て来る。

淋しくは無いのに、
この広遠な宇宙へ取り込まれ消失してしまいそうな自己。

それは本来の姿へ帰る事なのかも知れないが、
まだオレンジの街燈にしがみつきたい己が居る。

明日もきっと晴れるのだ、
時を引き留める事は永遠に出来ない。

そう言い聞かせようやく眠りに就く。

翌日は果たして雲一つ無い快晴。

夜を越えた甲斐があったと言うものだ。

そうやって日々は過行く。

季節は移り行く。

生活も変化して行く。

僕の畑にはブロッコリーが植えられた。

キャベツや白菜も育ち始める。

人参は種が撒かれる。

そうして少しずつ冬の様相を呈する。

小屋を彩る花は、
黄色やオレンジが増える。

森を下った先に広がる田んぼも、
黄金に輝き始めた。

あぜ道を飛び回るのは赤とんぼ。

晩はカナブンと羽蟻の大群衆。

その羽音の隙間より、
絶えない鈴虫の大合唱が流れる・・・。

「お早う。」

小さなヤマガラへ声を掛ける。

エゴノキに大量に出来た実は、
彼らの大好物。

それを一つ懐へ捻じ込むと、
小さなヤマガラは頭を垂れた。

律儀なものである。

彼らでさえ隣人への礼儀を忘れていない。

僕は、
大家のミセススフィアに対して礼儀を欠いていた事を恥じた。

礼儀だけで無い、
多大な恩義だってある。

自己に集中し過ぎて、
周りが見えなくなった。

山小屋に明かりを絶やしてはいけなかった。

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