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生命の網

最近はまた、
ガラガラ声の母猫が山小屋を周回するようになった。

夜も深まり人々の寝床へ潜り込む時刻、
猫のメメが足元で丸くなると、
何処からともなく「ギャアギャア」鳴く声が聞こえて来る。

最初は狐かと思った。

狐はギャアギャア鳴く、
その声にそっくりで。

けれど、
ある晩不図ウッドデッキへ通じる道を眺めていると、
月明りの下に現れたのは、
茶色の大きな猫。

良く見ると、
その後ろへ小さな子猫を従えている。

二匹は臆する事無くウッドデッキへ上がり込むと、
テーブルの下へ座り込んだ。

空は、
月に雲掛かり、
雨が降りそうだった。

翌朝、
二匹は忽然と姿を消していたものの、
つい先刻までそこへ居たような雰囲気があった。

僕は試しに、
その晩は煮干しを皿へ盛っておいた。

さて、
二匹はどうするか。

更に翌日、
僕が明るくなったウッドデッキへ出てみると、
食い散らかされた煮干しが辺り一面転がっていた。

全く、
行儀の悪い二匹だ、
と溜め息が出るが、
その晩から度々やって来ては煮干しを頂戴するようになった。

それが、
半月も経たずぱったり止んでしまった。

僕は仕方無く煮干しの供給を停止し、
状況の観察に徹する。

それから半月、
寂然たる晩に母猫だけが、
たった一匹フラフラと戻って来た。

疲労の滲む鳴き声が、
月夜の晩に木霊する、
僕は眠れない。

心臓が締め付けられる。

一体何を呼んでいるのだろう。

猫は決して姿を現さない。

代わりに言葉を届けようと、
僕の寝入り端を襲う。

目を閉じていられない。

窓の外は零れ落ちんばかりの星空。

「君の子どもはどうしたの?」

堪らなくなり、
黒く沈むウッドデッキへ声を掛ける。

猫は前足を舐めて頭を掻く。

黒く塗りつぶされて姿は見えない。

満天の星空を仰ぎもう一声鳴く。

ペタペタと音を立て徐々に遠ざかる、
まるで別れを惜しむかの如く。

猫は今度こそ本当に姿を消す、
これが最後の挨拶。

夜空の星が東から西へ、
波のように輝き去った。

足元のメメは微動だにしないが、
耳をそばだてているのが分かる。

あるものの始まりと終わり。

たった今、
儚いものが一つ、
生命の網の隙間より零れ落ちた。

夜空に悲嘆のメロディーを聞くのも今晩が最後。

零れ落ちるものをせき止める法は無い、
それは既に網目をすり抜けてしまった。

不図、
僕は天へ昇ったのに気が付いた。

見下ろす町明かりが弱々しく光っている。

隣へ立つのは小さな子猫。

煮干しを咥え、
嬉しそうに僕を見る。

僕はその頭を優しく撫でてやる、
温かく柔らかかった。

子猫は駆ける、
この空を縦横無尽に。

子猫の姿に、
星々は歓喜に満ちて明滅した。

安堵と共に僕は地上へ向かって落下を始める。

僕の手足は暗い宇宙空間へと続いていた。

そのお陰か墜落の衝撃は殆ど無かったはずなのに、
暗く雑然とした寝室は酷く空虚で痛々しかった。

僕は涙した。

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