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魔法が使えるなら、動物と話したい

8才くらいの頃の記憶。
近所のお友だち2人と遊んでいて、
「魔法が使えるなら何を使いたい?」と、1人の子が言った。

もう1人の子はドラえもんの四次元ポケットをイメージしながら「どこでもドアかなぁ、タケコプターかなぁ」と世間話程度に返していた。


だけど私はその質問に“本気で精査した答えをしたい!”と直感的に感じ、
「どんな魔法が使えるようになりたいだろう?」としっかり考えた。


そして出てきた答えが
“動物と話せるようになりたい”
だった。

私は物心ついた時から動物が大好きで、人間のお友だちよりも動物と接している時の方が楽しかった。しかも遥かに。

幼い頃の私は“動物が好き”というよりも“人間が嫌い”のほうが強く、
『動物側の世界で暮らしたい≒動物が好き!』と思い込んでいたのだ。

だから「動物好き」というと「優しいね」と言ってもらえることが多かったが、
本当の理由は“優しい”とかそういう問題ではなかった。


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そういった自分サイドの問題を差し引いたとしても、私はある意味純粋に動物が好きだ。

人の顔は2〜3回会わないと覚えられないが、なぜか動物は一発で覚えられる。

雰囲気と顔の表情を一致させるのに、私は少し時間がかかるが、
動物は雰囲気がそのまま表情に出ているから覚えやすいようだ。
(こうやって書いていても、やっぱり私は色々アレだなと自覚しています、はい。。)

とまぁ、動物好きな私だけど、何故好きなのかを考えていると、
どうやら他の人が考える“好き”とはまた違った捉え方を(自分でも気づかぬ内に)しているようだと改めて気づいた。


結論を先に言うと、
『動物と話したい』と願った理由は

“言葉を持たないものたちの世界を、細分化してわかりたい”
から。

私の生きる目的の一つとして
『見えない、言葉にならない、わからない』を少しでもわかりたい、という欲望がある。

“あるようでないもの、ないようであるもの”
に迫った感覚を得られたとき、私はひとり感嘆する。

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「動物は言葉を持たないから、言葉を持つ人間が代弁して救ってあげなければ。だから動物と話して、動物を救う人になりたい」
と昔は思っていた。

けれどその構図は
人間>動物
になっている。

(※追記
私にとっての感覚で、人間>動物
ということであり、動物たちを救うことは大切な役割だと思ってます。
ただ、“私の使命”について考えた時、『動物を救うこと』がやりたいわけではないと気づいたという、すごく個人的なことです)

そうではなくて、人間も動物も同じだと私は思っている。

だから救うとかそういうことではなくて
(もちろんペットとして迎えた動物のケアはきちんとします。具合が悪そうなら気づくのは飼い主の務めだと思います)

ただただ人間とコミュニケーションするように、動物ともコミュニケーションしたい。
(対人間でもコミュニケーションできる場合とできない場合があるから、そこも同じかと)

動物とcommunicateできれば、動物の視点になれるはずだから、この世界を新たな目で見ることができるように思う。

そしてその目で世界を見たとき、非常に満足のいく美しさがひろがっていることを直感的に知っている。

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『世界を細分化する』ことで、“見えない、わからないけどあるもの”に近づくことができる。

こうやって、『動物と話したい』という感情(見えないもの)を細分化する作業のおかげで、昔の自分ではたどり着けなかった理由にたどり着けた。

細分化に必要なのはやはり言葉だ。

言葉は今ココ、今ココと、マーキングするためのツールであって、
人間に与えられた一生で何回も生きる(気づくたびに生まれ変わる)ためのギフトのようなものだと私は思う。 

(今回も一つの結論に辿り着いたと思っているが、数年後にはこれを足がかりにまた違う答えに辿り着いていると思う)

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だから、突然不思議な能力に目覚めて「動物たちの声が聞こえるようになりました!」というような、ドクタードリトル的展開はあまり望まない。

人間クサいやり方かもしれないけど、私はこうやって、あーでもないこーでもないと考えながら、結果「動物の声は余裕でわかるよ」みたいな場所に辿り着きたいと思う。
(因みに飼い猫との会話は割とスムーズにできるレベルになりました)


幼い頃、“魔法だ”と思っていた能力は、これからの時代では魔法でもなんでもなく、当たり前のことになっているように思う。

魔法が魔法じゃなくなる時が来るのを早めるために、頭の中の言葉たちを出してあげようと綴りました。


おしまい。

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