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アフリカの地から日本のルッキズムを思う

ジンバブエに来たばかりの頃、アフリカ人の体型には驚かされたものだ。

男性はそうでもない(身長も太さもわりと一定)けれど、特に女性は、大小さまざまな体型の人がいる。細くて小さい人から、大きい人はゆうに100kgはあるんじゃないか、というたっぷりした体型の人もなかなか多い。バリエーション豊かな体型で、洋服をどうやって手に入れているのか気になるくらいである。

特に目を引くのが大きい人のお尻!破裂しそうなお尻を右に左にゆっさゆっさ揺らして歩くさまはなかなか最初は女性のわたしでも目がいってしまったものだ。

そういった体型は、彼らの大事なアイデンティティであるように見える。例えばわたしにその人のことを伝えるとき、名前でわからなければ、あのオフィスにいる大きな人だよ!と言う。そのときには、形容詞はBigが使われる。逆に痩せているときはThinが、背が小さい時にはsmallも使われる。

対して日本を眺めてみると、大きい人から小さい人まで、太った人から痩せている人まで、振れ幅が少ないなあと思う。みんな同じような体型をしていて、体型がアイデンティティになることはアフリカに比べて圧倒的に少ない。みなそれを望んでいないようにも見える。女性は皆一律にすらっと細長いモデル体型を理想とし、男性も背が高く太っていない方が良いとされている。

日本はルッキズムの国だなあと、最近特にひしひしと感じる。"ルッキズム"、日本語に直すと「外見至上主義」。外見へのこだわりが強く、特に体型に関して「痩せたい」という思いや、「太っていると恥ずかしい」という考えが強迫観念的に感じる時さえある。過食症や拒食症になる人も後を絶たない。

アフリカでこんなに大きい女性たちが楽しそうに生きているのをみると、日本人がダイエットに必死になっている姿が滑稽にさえ見えてくる。

ここでは美の基準が日本と違うということももちろんある。アフリカではある程度大きい女性の方が、安心して子どもを産んだり子育てする体力があるとみなされ、痩せこけているよりもモテるのだという。また、男性の好みもさまざま。痩せている人が好きな人もいれば、ふくよかな体型が好みの人もいる。痩せている方が魅力的、という概念がそもそもあまりない。

服を着た時に、体型がちゃんと見えるものの方がセクシーでよい、ということはあるらしく、女性はどんな体型でも、自分のサイズに合った、ピタッとした服を着ている。どんな体型でも、である。みんな自分に自信があって、日本人のわたしから見るとその立ち姿が素敵に見える。

日本人も、もっと自分の体型に自信を持てる世界になると良いのになあと思う。そのために必要そうなことを列挙してみる。

まず、広告が変わること。日本はこれがかわいい!きれい!なりたい!の姿が一辺倒すぎる。おかしい!そんなわけないじゃないか。最近は下着や洋服の会社でも、さまざまな体型の人をモデルに起用したものが出始めているけれど、まだまだ足りない。もっとバリエーション豊かになってほしい。

次に、みんなが外の世界を知ること。外見を気にしない(気にするところが違う)世界があると知ること。なんなら欧米でも日本より体型を気にしないで楽しく生活しているような気がする。海外のビーチに行ってご覧よ、体の大きなおばちゃんたちがビキニで楽しそうに遊んでいるのを見たら、自分なんてどうでもよくなる。

また、自分に合った美の表現方法を知ること。かわいくなりたい、綺麗になりたい、それは当たり前の欲望な気がする。アフリカでもびっくりするのは女性の髪型の変化。変える人は毎週髪型を変えていて、首都だと毎回サロンで30$かける人もいるという。平均月収が200$程度の国で、おしゃれにもお金をかける人はかけている印象だ。

結局、おしゃれなんて自己満足に帰結する気がしている。自分の自信を高めるためにやるのだから、自分に見あった表現方法があればいい。

服で表現してもいいし、メイクや髪型を頑張ってもいいし、ネイルをやってもいいだろう。もはや、外見に頓着しないで食住の部分や趣味旅行にお金を使うのも自由。

痩せたい?結構!なんならわたしも着たい服があってもう少し痩せたいと常々思っている。でも、ちょっと肉がついた今の自分の身体も愛せたらいいよね、とは思う。アフリカのお母さんたちはでっぷりとしていて、それでも大きなお尻を揺らしてみんなで歌い踊り、そしてたくさんの肉とサザを食べていた。素敵だった!


もちろん、こちらにも別の意味でのルッキズムはある。

例えば、女性は女性らしい服装、男性は男性らしい服装が求められる。女性で男性のような服装をしているともれなくちゃんと変な目で見られている。一人トランスジェンダーのような学生を知っているけれど、みんなその学生のことを陰から噂している。それだけ、服装で性を表すし、表さなければならない社会なのだろう。

そもそもアフリカはLGBT意識がないし、ゲイやレズビアンが違法だと定められているくらい。また女性は早く結婚して子どもを儲けないといけないという社会規範があるし、男性は外で稼いで家を支えるという文化なのである。昔の日本もそうだったように、男女の性差を見た目できちんと表しましょう、という文化的規範があり、それはルッキズム的であるように感じる。

また、TPOの概念は日本よりも強そうだ。服装によって身分を表すという意識が強い。偉い人は毎日ちゃんとしたスーツを身につけて威厳を表し、労働階級者は決まった労働者用の服を着て自分は労働者です、ということを主張する。適当なムシカシカ(違法タクシー)運転手は適当なTシャツしか持っていないけれどそれが社会構造のどこにいるかを表しており、上の方の人たちは(中身は知らないけれど)綺麗な服を着ている。それは見栄にも見えるし、事実頭の良い人がそういった服を好んで着るというようにも見える。

こういったことを議論していると、どの文化にもおかしなところはあって、自分がどの文化なら許容できるか、というのはつまり、どの部分により問題意識を強く持つか、というだけな気がしてくる。

あなたは、日本・アフリカのどちらのルッキズムが嫌ですか?
それとも、どちらも許容できるものですか?


私にとっては最重要事項ではないけれど、生きて行くのに見た目は大事だ。
かわいくなりたい、綺麗になりたい。魅力的になりたいというのは、すてきなことだとは思う。

よくないのは、自分の価値を自分で否定してしまうこと。極端に言うと、かわいくないから、わたしなんて生きる価値がないと思ってしまうようなこと。

外見の価値なんて、数学の点数のように100点満点で誰が見ても同じ点数になるわけではない。人によってその人にあげる点数なんて変わるのだから、自分の点数も自分であげてしまえばいいんじゃないだろうか。

誰がなんと言おうと、わたしはかわいい/かっこいいです。と思えたら勝ち。
たとえあなたからしてきれいでなくても、かわいくなくても、私には(別基準の)価値があるので。と思えたら勝ち。

その上で、自分が見たときの自分の価値を上げるために外見を磨く努力をする、ということなんだろうと思う。要は順番の問題。最低限の自分の自信は持ってから外見磨きをスタートするのが、健全な状態なのだろう。

この順番が崩れると、ルッキズムに飲み込まれ、おかしなことになってしまう。現に日本にはおかしなことになっている人が多い気がする。

そういった日本人は皆、一回アフリカに来てみるといい。みんな、楽しそうに体型を主張し、おしゃれを楽しんでいるから!

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