【詩】手を洗う

陽が沈み黄昏て
黄色く汚れた街に月が出る頃
男たちは手を洗う
 
むかし場末の名画座でみた映画で
男が手を洗っていた
敵との闘いから生還した警部補が
洗面台に向かって延々と手を洗い続ける
重い疲れと血を洗い流すようにいつ果てるともなく
それがラストシーンだった
 
若い志賀直哉も日に何度も手を洗った
さきほど洗ったばかりの手を
また念入りに洗わなければ気が済まなかった
その若い清潔な手にケガレがみえていたのだろう
 
あの映画をみた頃の若いわたしも頻繁に手を洗った
自分の手にケガレがみえていたのだろう
「神経たかり」とも云われていた
「ケッペキにいさん 手を洗う」
と吉田美奈子が歌うレコードが出た時
視られている!
鳥肌で四畳半を見回した
 
女たちだって手を洗う
それは知っているよ
マクベス夫人も執拗に手を洗っていたもの
彼女だけにはみえる血糊を流そうとして
 
あの映画の俳優もすでに遠く死んでしまったけれど
あの映画の中で警部補はいまだに手を洗っているのだ
激しく執拗なカーチェイスの場面より
洗面台の鏡の前で手を洗う男を思い出す
疲れ果てた寂しい背中をみせて手を洗っていた男と
蛇口から流れ続ける水の音
 
黄色く汚れた街に月が出た
ところでわたしはまだ手を洗い続けている
あれからずっと
擦り切れて血の滲むまで
夢の中でも手を洗い続けている
 
 

 


2020年1月10日作
2021年1月 佐藤三千魚さんのサイト「浜風文庫」に初出発表
2023年4月改稿
これを書いた頃はその後、至る所でみんなが熱心に手を洗うようになろうとは思ってもみなかったのであったが……。

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