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【子育て】過干渉とネグレクトの振り子から抜け出す「中道」のススメ

「我が子に対する過干渉に気をつけよう」
と、私は普段からTwitter(現X)などで発信している。

これは単なる見解ではなく、実体験に基づいた意見だ。

このnoteでは、

  • 子育て方針についての主張

  • 主張する理由・根拠

  • 今後の方向性について最近考えたこと

を書いてみようと思う。


過干渉の親の元で育った影響

子育てに熱心な母のもとで育った。

良く言えば教育熱心だし、悪く言えば過干渉。

小学校の就学時検診で私にかなりの近眼が発覚し、それを機にテレビを禁止された。(中3までの9年間)

唯一見られたのは、スイミング後の土曜夜。『美少女戦士セーラームーン』と『SLAM DUNK』くらい。


当時はテレビがクラスメイトの共通言語
「昨日の◯◯見た?」
という会話が飛び交っていたから、これが結構辛かった……

バラエティも歌番組も分からないから、どう頑張っても話題に入っていけない。

借りてきた猫のように大人しくして曖昧にやり過ごせるようになったのは、多分この経験からだろう。


毎日の勉強も、親の言う通りに進めなければならなくて。今で言う「教育虐待」に近かったのかもしれない。

まず、平日は予習復習を欠かさない。

予習をしていたから授業での発見や驚きは全然無かった。


習い事は通信テキスト(進研ゼミ的な教材)・スイミング・ピアノ・そろばん・書道・英語・塾など多数。

週6か7の勢いで習い事があるため、放課後に友達と遊ぶ機会は自然と少なくなった。

遊ぶ時間も短くて、いつも
「もう親が迎えに来ちゃった……まだ遊びたいけど、怒られるから早く帰らなきゃ」
という焦りがあった。

夏休みの宿題もこの記事に書いた通り、7月中にほぼ終了させる必要があった。


宿題は提出前に必ず母のチェックが入っていたから、まず間違うことがない。

そう、失敗の経験があまりにも少なかった……

今でも間違いが怖いのは、確実にこの経験が影響しているように思う。

自分の意思ややりたいことなんて、考える隙間もない。まるで親の命令通りに動くロボットのようだった。

そうしないと生きていけなかったから、当時は仕方なかったのかも。

幼い子どもには自由になるお金もなく、親の意向に従わざるを得ないから。


うちはちょっと特殊で、周りから隔絶された環境にあって。
周囲には、気づいてくれる大人も頼れる大人もいるように思えなかった。


その経験を元に、母を半ば反面教師にしながら子育てしている。悲しいけれど現実だ。

ここ数年で自分や周囲によって少しずつ癒されつつあるけど、まだこうしてダラダラ愚痴めいたことをつい語ってしまう。


過干渉したくない→放置 につながる

過去の実体験を元にして
「過干渉しないように」
と気を付けてはいるが、ネグレクト(放置)に近づいてしまう危険性も感じている。

例えば、親の反応で
「テストの点数で一喜一憂するのは望ましくない」
らしい。(プロ家庭教師の友人曰く)

毎回そうしていると、子どもが
「テストの点数が特に大事なんだな。点数が良ければ親は喜ぶし、悪ければ怒られる。てか、テストの点さえ良ければ他はどうでも良さそうだ……」
と思うようになるケースが多いらしい。

子どものテストを見た時に何と言えばいいか分からないから、今までは敢えてほとんど見ないようにしていた。

宿題も基本的に任せている。
小学校1年生の時にはさすがに付き合ったが、2年生以降は手伝ってない。

夏休みの宿題用にシールを貼る表を作ってあげたこともあったが、最近は頼られない限り完全に任せている。

でもそれってちょっと放置が過ぎるし、
「行き過ぎたらネグレクトじゃん?」
とも感じる。

もう少し寄り添ってあげた方がいいのかも……?とは思っていた。


放置を経験した人は、過干渉になりやすい

こういう反動には、逆パターンもある。

とある知人もそうで。

「親が色々やってくれたから今があるんでしょ」
なんて私に言ってきた人の話をよく聞いたら、
「もっと親に構ってほしかった」
という強い気持ち
があるようだった。

「親が色々やってくれる=愛」
と信じている人もまだ多い。その視点で見る景色は、私とは全然違うのだろう。

実際その人は、私がドン引きするほど子どもに干渉している。関わりが薄いし他人の家庭だから、もちろん何も口出ししないけれど。


そして、数年前に気づいた。
「うちの母も親に放置されて育ったんだった」
……と。

だから彼女にとって子どもへの干渉は、まごうことなき愛だったのだろう。


何代にも渡って揺れる振り子のよう……

過干渉、放置、過干渉、放置、過干渉……
無意識で生きていたら、きっとこの連鎖は変わらない。


プロ家庭教師の友人が最近言っていたことが、印象的だった。

「長子は親の期待が重荷であることが多いが、第二子以降は親から期待してもらえず"寂しい"という気持ちが奥底にあるケースが多い」
……と。

やっぱり私は
"長子・期待され過ぎた子ども"
だった立場から世界を見ているのだろう。

多くの親子を見てきた彼女が言うなら、きっとそうなのだと思う。

ではどうするか?


あえての「中道」で子育てしてみよう

辛いし正直大変だけど、私の代で負の連鎖を断ち切りたいなら
「中道」
(ちゅうどう)
に寄せたほうが良い
のかもしれない。

意外かもしれないが、過激な意見を作ることはとても簡単。世間一般の常識を反対にすればいいだけ。

ダメ出しも楽。単に批判すればいいだけだから。でも、対案がなければ結局ほぼ無意味だ。

そこで「中道」だ。これ、実はかなり大事。

過ぎたるは猶及ばざるが如し

ブッダも「行き過ぎた修行には意味がない」と言っていた。(らしい)

※ 注
中庸なのか中道なのか、ググったけど話者によって言うことが少しずつ違い、よく分からなかった。どれも孔子とアリストテレスとブッダの話が出てきて、中庸と中道をほぼ同じものとしたり、全然違うものとしたりしている。ただここではそれが本質ではないので一旦置いておき、この記事では「中道」とする


全て真ん中を取ればいい……というものではないが、過激な主張よりも現実に即していることが多いし、実際に利用価値のある意見も多い。

私はつい極論に走ってしまうことが多いから、真ん中に寄せようとする行為にはきっと意味があるはず。


親自身がリラックスして過ごすことの重要さ

不機嫌な親の前では、子どもはいい子になる。

アンガーマネジメントを行わないとならない人は、強者の立場にいる。

少なくとも親子の関係なら、親は子よりも強い。子どもは親によって物理的にも精神的にも左右されてしまう。

でも、どんな親でも子にとってはかけがえのない親である。

虐待をされても親に縋り付く子が多いと聞くが、その形しか親子愛を知らない場合は当然の行動だと思う。(良い悪いはともかくとして)

子は親のことが心底大好きなのだ。だから、親には笑っていてほしいはず。



もちろん親側の大変さも分かる。

特に今の日本では福祉や社会の支えがあまり機能しておらず、親(特に母親)がしんどい思いをするケースが多いと感じる。


でも、だからこそ親がまず自分を大事にしてほしい。そうでないと子への悪影響がある。

「ちゃんとしなきゃ」
にこだわらず、できるだけ"今ここ"に焦点を当てて、どうか生活を楽しんでほしい。

そして、もし大変なら手伝いたい。
お片付け・時間管理など、私にできることはサービスとして提供する。
私にできないことは、友人知人のプロを紹介できるかもしれない。

そんな風にして、虐待(とは行かないまでも望ましくない行為)を減らしていきたい

昔の私のような子どもを減らすために。

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