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「できる」って、そんなに素晴らしいこと?|通知表の通信欄を読んで感じたモヤモヤ

実家で先日、昔の通知表を見る機会があった。

通信欄に書かれた先生や親の言葉に、なんだか色々考え込んでしまって……

あまり明るい話ではないけれど、何かのヒントになりそう。少し考察してみる。


昔から得意だったこと、変わらぬ趣味

小学校1年生の頃から、整理整頓と読書が好きだったらしい。

整理・整とんが上手で、学習用具の準備や片づけが手早くでき、いつも身の回りがすっきりとしています。その能力を生かし、本をよく整とんしてくれました。

学校の本の整頓はまったく覚えてないが、小学校低学年で近所の図書館での司書体験をさせてもらって、とても楽しかった記憶がある。

本を読むことが好きなだけあって、文章を読み取る力に優れています。

読書が好きで、1年生の夏休みには本を50冊ほど読んだらしい。

もともと活字中毒だし、テレビを小中9年間ずっと禁止されていたせいもあって、そりゃあ暇だから本も読むよね……

毎週のように母と妹と図書館通いをしていた。

ノートのまとめ方からわかるように、授業中にあらゆる事を吸収しようという姿勢が身についています。まじめな努力家でもあり、多方面にわたる成果は素晴らしいものでした。

ノートにまとめるのは中学生の頃に
「得意だし好きな作業だな」
と気づいたが、小学校の頃から得意だったとは……

不思議なことに10歳頃までの記憶がほとんど消えているから、自分のことながら興味深い話だ。


必死に頑張り続けた勉学の日々

思った以上に、小中高時代の自分はどうやら優秀な生徒だったらしい。

成績も高校までは原則トップに近く、体育などの不得意分野はあっても全体的に評定は高い。

水泳は学校代表、持久走もほぼ1桁の順位。

英検漢検などの試験も毎年積極的に受験している。(もちろん親の意向)

そろばん、習字、ピアノ、スイミング……
習い事のほとんどでも、テストにパスしたり賞を取ったり。

夏休みの宿題や写生大会でもよく入賞していて、もらった賞状の数はかなり多かった。

就活に失敗したことで
「学力や学歴がいったい何になるんだ⁈ 単なる過去の栄光でしかなく、人生において無意味だ」
と思い、キレイさっぱり忘れていたんだろう。

でも、たとえ親の強制であったとしても
「その時一生懸命頑張っていた自分」
まで否定しなくてもいいのかも
しれない……

アラフォーの今、ようやく気づいたのだった。


微妙な対人関係と成績ばかり気にする親

先生からの通信欄に、こんな記載もあった。

何でもできるためか、時々人の誤ちを責めてしまうことも見られました。

この言葉から読み取れることは何だろう?


私はいつも「頑張って」いた。それこそ、呼吸したり歩いたりするのと同じレベルで、毎日毎日「頑張る」ことを親から強いられていた。

そのストレスが学校の友人関係に現れてしまっていたんだろう……
と、今なら分かる。

親が怖過ぎて反抗できないし、反抗しても結局
「お金も生活力もない子どもだから、仕方ないよね」
と諦めている状態。

だから、発散できそうな場所で発散していたんだろう。

その行いを褒めることも肯定することももちろんできないけれど、当時の自分には多分どうしようもなかった。

親からの重圧を察していたのか、

ゆったりした気持ちで過ごせると、○○さんの良さがそのまま出るのではないかと思います。

と書いてくれる先生もいた。でも親の返答は

・小さなミスが目立つので、見なおしをしっかりやってほしい
・自立心のなさ
・折を見ては注意をしていきたい

という、トンチンカンなものになっている。
まるでキャッチボールができていないし、そもそも先生からのボールを拾おうとすらしていない。

「勉強を中心として日常生活で過度に干渉しているのに、子の "自立心" を伸ばしたいだなんて、どんな冗談?」
とツッコミたくもなる。


高校の一時期を除いて学校側は私の成績に良い評価なのに、親は

・集中力を持って
・復習ばかりになりがちなので、もっと予習を
・時間を有効に利用していない

など、常に"もっと頑張るべき"というコメントばかり。

読んでいて、大人になった今でも少し苦しかった……


自分なりに頑張っているのに全然認めてもらえず、更にもっと尻を叩かれる日々。

98点を取っても、たった2点のケアレスミスを責められる。
「まったく理解してないならともかく、ミスなら別にいいじゃんか」
と今の私が親なら思うんだけどな……

そりゃあ苦しくなるだろうなぁ。思春期に少しグレていた時期があったのだが、この通知表だけで「さもありなん」という感じ。


器用貧乏は良いのか悪いのか?

多分、私は器用貧乏なほうだと思う。大抵のことは頑張ればできてしまう。

ただそれが人並みなのか特異的な点なのかは分からないし、周りと比べてとんでもなく優秀な訳でもない。

「まぁできるよね」
というレベルで、おしなべて大体70点程度は取れているよね……というような感覚だ。

それが果たして良いことなのか?


「好きで得意なことを伸ばすべき」なのだとしたら、「好きで得意なこと」が見えなくなりやすいのは器用貧乏ならではのデメリットである。

「頑張れば得意になれること」と「好きで得意なこと」との区別がつきづらくなるからだ。

経験則だが、歴史に名を残すような偉業を達成する人には
「自分にはこれしかないから」
と、ある意味開き直っているタイプが多い


頑張ることの是非

「頑張ること」。

それ自体は別にさほど悪くないかもしれない。
確かに、「頑張りたい」と思う心は尊いものだろう。

ただ、頑張りを強要されることはいかがなものだろうか?


何にせよ強要する行為には良い影響がないと思うが、特に
「しっかり頑張りなさい」
は危険
だと思っている。

なぜなら「頑張り」を強要されて辛い人は、他人にも「頑張り」を強要するようになるから。私も親から日々「頑張り」を強いられ、周囲の頑張っていない(ように見える)子たちが許せなくて、責めたのだと思う。

「頑張れよ」の連鎖は危うさも孕む。
誰かを教え育てるような立場にある人は、心に留めておいてほしい。


まとめ

通知表を紐解く行為は、図らずとも自分が受けてきた教育・子育てを振り返る機会となった。

心の痛みも伴ったが、
「今の自分の子育ての方向性は間違っていないだろう」
と確信する時間でもあった。

「昔の私のような、辛い子どもを減らしたい」
という気持ちを今後も大事にしながら、色々な物事に取り組んでいきたいと思う。


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