妹思う -St. Veronica's handkerchief-

同人誌『蝶の翅はなぜ青いか』収録作品。

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 上手く、眠れずにいた。アラームの音がする前に、かすかな鳥の鳴き声でいつも目が覚めてしまうのだ。軽い貧血に襲われながら傍らの時計を確認すると、針は大抵予定時刻の二時間前を指している。寝直すにも半端だからと仕方なくベッドから降りて、洗面所へ向かい朝の身支度を始める。シャワーを浴び、朝食を済ませ、シャツの袖に腕を通すころ思い出したようにアラームが鳴り、嘆息まじりに止めに行く。そんな毎日だった。

 西條樹は背の高い男だ。街を歩くと必ず視線を呼ぶ。なかなかに精悍で感じの好い顔立ちをしているが、本人は自らの容姿を妹に劣ると見ていたようだ。妹の名は、西條美樹。初夏の生まれ月に相応しい名を彼女自身は古くさいと疎み、頻繁に別の名を騙っていた。《ビアンカ》。彼女の黒髪のショートボブと自信家らしい吊り気味の瞳は外人めいていて偽名も似合った。西洋趣味の彼女はさらに素の鳶色も嫌っていて、日頃から真っ青なカラーコンタクトを入れていた。そのせいか彼女と樹、それから彼、——俊が共にいると、同じ髪と目の色を持つ俊とビアンカの二人のほうを兄妹と見誤る人も多よくいた。しかし、本来の兄はそれを厭わずむしろ嬉しげに笑っては、「俺とビアンカは、似てないから」。
 その朝、樹は、葬儀へ出向くため喪服の上下を探していた。美樹が事故で亡くなったのは一ヶ月も前のことで、樹が軽微な不眠症状に苛まれ始めたのもその報せを受けた日からだ。葬儀には身内と、彼女の親しい友人だけを招くことにしていた。俊は美樹の友人ではなくそもそもは樹の友人であったが、美樹がよく懐いていたため便りを出した。
 カトリックである樹の家は美樹の棺を固く閉ざし、葬儀の初めから終わりまで一瞬たりとも開かなかった。美樹の亡骸は頭部が激しく陥没し破砕されていて、見るも無惨な状況だった。彼女は死の当日ひどく酔ってバーの店主と口論になり、裏口まで追いやられ抵抗した。バーは古いビルの五階にあり、裏口から通じる非常階段は外付けだった。店主と美樹とは揉み合って、不意に彼女が体勢を崩した。声をあげる間もなく手すりの向こうへ体が傾いだ。あとは真っ逆さまだ。
 実の親ですら二秒と直視できなかったその有様を、まして友人に過ぎぬ参列者らが目にする道理はなかったが、肉親である樹もまた美樹の遺体を見てはいなかった。安置所で面会の意思を尋ねられたとき彼は拒否した。彼は美しい妹を深く深く愛していた。彼女の変わり果てた姿を目にすることは彼にとって、妹に対する冒涜だった。

「普段スーツを上下別々に仕舞い込んでいたものだから、目当ての品を探し出すのに些か苦労した。ジャケットはすぐ見つかったんだけど揃いの下が見当たらなくて、なんとか掘り出したかと思えば今度はネクタイが見つからなくて、でもね、今思うと、ぼくはわざとそんな風に自分を手間取らせていたんじゃないかって、つまり、無意識に。少しでも先の未来のこと、例えばもろもろの準備を済ませ鍵を閉めて家を出て、車に乗り込んであの交差点をこうこう曲がって、教会に着いて、来てくれたひとに挨拶をして、喪主として最前列に座って、生前の、彼女の話を、——なんてこと、少しだって想像したらその瞬間に叫び出しそうだった。だから目の前の一つ一つで頭がいっぱいになるように、脳が庇っていたんじゃないかな。死って、なにかこうそれに伴う様々なことを思い浮かべて、日常と、結びつけちゃうと、途端に手に負えないものになる。……君は、そういう経験ない?」

 葬儀の間のことは殆ど覚えていない、と彼は語った。いい教会ではあった、晴れた日で、大きく高く聳える窓から陽光がすっと差し込んでいて、その様にぼんやり見惚れていたらいつの間にか式は終わっていた。棺が運び出され、土の底へ、消えてなお彼には実感がなかった。神父が祈りを終え、人々は去る。
 弔鐘が鳴り響くなか彼も美樹の墓をあとにした。そのまま真っすぐ帰る気分にもなれず、むしろ教会へ戻るようにして歩を進める。クリーム色に鎮座するゴシック様式の建築物、霊園からその正面までを繋ぐ砂利道を踏みしめる。すると、見慣れたシルエットが、道に沿って生える樹々のうちの一本を仰ぎ見ていて、……それが、俊だった。
「俊、」
 声をかけると彼は、急ぐ様子もなく、かといって悠長な様子でもなく実に自然に振り返った。知り合った当時からだったが俊の動作や仕草は常に不自然なまでに自然だった、何も滞るところがなくて、幾千回と繰り返した予習済みの演技じみて見える。当初はそうした違和感に気付かず接していたものの、長く親しむにつれ分かってきた、不気味とは言わないまでもやはり多少妙だとは思った。久々の邂逅だからか、今日はその異様さが目立つ。
「久しぶりだね」
 俊が声を返す。樹はあいまいに微笑んだ。
「うん、久しぶり。——君は変わらないな」
 樹と俊とは大学で出会った。二人は手品を愛好するサークルに所属しており、俊は手品の他にも演劇、映画を好んで嗜んでいたが、趣味ゆえに彼の性質が形成されていったのか、それとも性質が先にあり、趣味があとからついていったのか、俊自身知らなかったろうしまして他者ならより知れない。一つ言えるのは彼の在り方は、手品を演るにはうってつけだったということだ。不器用な樹は俊の手腕をいつも褒めた。「すごいな、魔術師みたい」。
 俊は樹の言葉に、なんと返そうか刹那ためらい、そして口を開く。そうした一連の動作さえ少し演技じみている。
「樹も、変わらないね。体のほうは大事ない?」
 体のほうは、とわざわざ言ったのは、その対立概念は無事とは称し難い状況であること、——つまり、心は、——が目に清かだったからだろう。最愛の妹を喪ったばかりの兄は、明らかに憔悴していた。顔は土気色に褪せ、開いておく気力がないといった具合に瞼は下がり、不眠の影響で目許にうっすら隈も浮かんでいる。正確を期すれば体のほうも大事がないとは言えない訳で、変わらないね、の一言の前に、彼が逡巡したというのも尤もな話だ。
 俊はふと彼の足下を見た。目を凝らすと、スーツの上下で微妙に黒のトーンが異なる。俊の視線に気付いてか、樹はきまり悪そうにジャケットの裾をつまむ。
「やっぱり分かる? ぼーっとしてたのか、違うの着てきちゃったみたいで……」
「いや、今やっと気付いた。明るいところだからだね、教会のなかじゃ分からなかったよ」
「そう? 俊は、このあと予定ある? 久しぶりだし少し話したくって」
「もちろん。予定はない、どこへ行こう?」
「うちなんてどうかな、ここから近いし。車で送るよ」
「うん。君がいいなら」
 樹の車はスカイブルーのミニクーパーだった。おいしそうな色だね、と俊が樹に問いかけると、樹は照れくさそうに笑った。
「これ、ビアンカが。この色にしろって」

 樹は美樹が《ビアンカ》を作り出した日を覚えている。十四年前の、これも春。美樹は当時六歳で、無論このことを話しても首を傾げるばかりだったが、当時十歳だった樹はその日美樹が発した言葉の一つ一つに至るまで、鮮明に記憶している。
 美樹は樹に、『しらゆきひめ』の絵本を読んでくれとせがんだ。母は留守でそのとき家には兄妹二人しかいなかった。樹は快く承諾し美樹を両膝の上に乗せると、横長の絵本を開いて読み聞かせた。むかしむかし、あるところに、……
 美樹の目がお姫さまを捉え、嘘みたいに大きなそれをさらに大きく見開く。
「おひめさま! おひめさま、かわいい!」
「そうだね、白雪姫。美樹、ちょっとにてるんじゃない?」
「ほんとう? お兄ちゃん、うそじゃない? ほんとう?」
 絵と兄の顔を順々に、何度も眺めて確かめながら美樹はしつこく言い募った。ほんとう? にてる? うそじゃない? 樹はすべてに同じ答えを返した。やがて納得した美樹が、しかし不都合な事実に気付いて口にしたのは、こんな台詞。
「でも、おひめさまはあおい目だ。わたし、おめめ、あおくないよ」
 その絵本は白雪姫を、つややかな黒髪と青い瞳の持ち主として描いていたのだ。その日から美樹は《ビアンカ》を胸の内に育て始めたに違いない、と樹は考えた。真実かどうかは分からない。真実なんて誰も知らない。

「ねえ、樹。死んだのは、《ビアンカ》と《美樹》のどちらだったのかな」
 折しも雨が降り出して、それは俄に強くなった。狭い車内にワイパーの音が鬱陶しいほどよく響き、彼らの会話を阻害して、心なしか二人とも声を張っている。
「どういう、こと?」
「彼女はビアンカとして死んだのか、美樹として死んだのか、ってこと」
「そうだね、……死んだ時、彼女がどちらの彼女だったのかぼくには知りようもないけれど、……墓には美樹と彫られたんだし、少なくともぼくらが葬ったのは《西條美樹》だったんだと思う」
「そっか。それじゃビアンカは、まだ、死ねずにいるかもね」
 会話が止んだ。ワイパーの駆動が、騒々しく沈黙を埋める。
「そうだね。美樹もだったけど、ビアンカはワガママだったから。納得はしてなさそうだ」
「納得?」
「もっと、きれいな死に方がいいって」
 耳を澄ますと雨粒の窓を叩く音が聞こえてくる。ぱちぱちと何か弾けるような、それでいてどこかくぐもった音色。俊は身を傾いで扉に寄りかかり、片耳をガラスに貼り付けた。彼の鼓膜とガラスの間で、雨音は一層籠もる。窓ガラス越しの景色は滲み、始終流れて判然としない。代わりに外気の冷たさが、じんわり肌を透けてくる。
「樹」
「うん」
「セックスする?」
 樹は絶句して俊を眺めた。俊の体は動かない。
「君、そんな冗談言うっけ」
 今度は俊があいまいに、微笑む番だった。樹は表情を決めきれぬまま、ひとまず視線を前方へ向ける。フロントガラスを時たま強く、一際大きな雫が叩き、その瞬間だけ外の景色がクリアに映る。激しい雨だったが、雲が去ればじき晴れるだろう。樹には、いつも雨が降ると、思い出してしまう出来事があった。

 美樹が生きていた証、美樹がいなくなった証、どちらも樹は手にしていないが、少なくとも前者については記憶という名の不確かな、——疑い深いものは残っている。樹の脳裏にある像と、実在した、あるいは肉体としての、西條美樹とが同一人物であるとは恐らく言い難いが、似た何かではあったはずだ。樹の古い思い出に雨にまつわるものがある。雨と《ビアンカ》にまつわる、二つの記憶。
 幼い頃から美樹は、雨のさなかに躍り出て身に浴びるのが好きだった。母が風邪を引くといくら心配しても、服が汚れるといくら叱っても一向に彼女は聞かなかった。大人しく傘をさしているかと思えば急に宙高く、それを放り投げ雨に濡れては、無垢な笑顔で兄を振り返る。
「お兄ちゃん、ねえ、きもちいいよ」
 けれども兄はただ一度を除き、妹の誘いに応じることはなかった。大抵隣には母親がいて、呆れ顔を彼女に向けたあと樹を見遣りこう言うのだ、「お兄ちゃんはだめよ、服が濡れるわ」。兄には母に釘を刺されてなお抗う勇気が欠けていた。また成長していくにつれ新たな理由も加わった、彼は奔放な、自由闊達な妹を『自分とは異なる存在』として愛で始めた。彼女の振る舞いは、自分にはけして真似できぬものと諦め、憧れていたかった。
「お兄ちゃんは、ちょっと考えすぎね」
「考えすぎ?」
「素直に生きればいいのよ。楽しいことして、きもちいいことして、ちょっとくらい誰かに叱られたって死ぬわけじゃないわ」
「ぼくには難しいな、」
「やってみればいいのに。案外思うより簡単だって、きっと分かるよ」
 一回だけ、樹は美樹と二人、海外を旅したことがあった。フランスへ一人旅に出たがる末娘を案じた父が、兄の同行を条件に許可したのだが実際は兄よりずっと妹のほうが危機に鋭かった。観光客狙いのスリや詐欺、ぼったくりにも即座に気付き持ち前の負けん気で立ち向かう彼女に兄は却って守られる形となって、その時はさすがに恥ずかしく思った。
 美術館を抜け出たところで雨に降られ、カフェに入った。カウンター席でビールを飲みながら二人は日本語で会話した。他に客はほぼなかった。
「考えすぎなのはでも、お兄ちゃんのいいところでもある」
「そうかな。自分でも気が弱くて困るよ」
「気が弱いのは、ひとの気持ちや考え方なんかをいつだって想像してるからだわ。違う?」
「どうだろう。怒られるのが怖いだけかもしれない」
「そんなことないよ。お兄ちゃんは優しいのよ。いっつも私に優しいもの」
 店内は細長い造りで、道路に向かう一面はガラス。壁にはトタン板が貼られ、赤いネオンや蛍光灯がそこかしこに光っていた。確認する限り店員はどうやらカウンターの一人だけで、やや痩せ気味の金髪の男だ。だらしなくよれた緑色の、タータンのシャツの上にどうやら制服らしき濃いネイビーのエプロンを着て椅子に腰掛け、気怠げに煙草をふかしている。そのためカウンターに阻まれ腰から下は視認できない。髪の乱れ具合やらひげの残り具合やらから察するにあまり身だしなみに興味があるほうではないのだろう。浅い色のダメージジーンズに、汚れて皮の柔らかくなった白いスニーカー、……そのとき樹は上の空で男の服装を想像していたので、妹が彼の肩を揺さぶり話しかけてきていたことにほんの数秒気付かなかった。
「お兄ちゃん!」
「あ、え、なに?」
「聞いてなかったの? 私の話」
「ごめん。ちょっとぼーっとしてて……」
 彼女はいきり立った。自らに一瞬でも興味を失うとは何事だと言わんばかりの剣幕だった。彼女は席を立ち店を飛び出した。彼は慌てて後を追った、途中で代金がまだだったと気付き店へ戻って、紙幣を投げた、——

「樹」
 コーヒーでいいかと尋ねると、彼は頷き荷物を置いて、廊下を出てすぐの右手の壁に寄り添う棚へと足を向けた。引き出し型の下部と一体になった、木製の小さな棚だ。ベージュの木材の上に幾つか写真立てが並んでいる。すべてに、ビアンカが写っていた。
 その内の一つを手に取りながら、俊は彼の名を呼びかけた。彼はコーヒーを淹れながらそれに応じる。
「うん? あ、俊って、お砂糖入れるっけ? ミルク入れないのは覚えてるんだけど」
「さっき僕が言ったこと。冗談じゃないよ」
 天候は先ほどと変わらず、しかし今この室内に声を妨げるノイズはほとんど存在しない。だから俊の声は、甘く、優しく、樹の耳に、はっきり届いた。聞き間違いとごまかすことも、聞こえなかったと無視をすることもできそうにない。
 樹はポットをキッチンに置き、そっとリビングへ足を運んだ。
「冗談じゃ、ないなら、……なんでそんなこと。不謹慎じゃないかな? 人の妹が死んだってときに、……第一、ぼくらはヘテロだろ」
「僕はそうだね。君は違うだろ?」
「え、」
「気付いてたよ。男が好きでしょう。ただそれ以上に君は《ビアンカ》を深く愛していただけだ」
 急に鼓膜が、雑音を拾い出す。いくらか勢いの弱まった雨音、時計の秒針、自身の心拍、電子機器のハム音、まだ少しだけ冷静な自分が今朝と同じだと自己分析をし、……けれど同時に同じ自分が、『三青俊』とは果たしてどんな人物であったか思い出し始める。彼はまだ、親にも事実を明かすことができていなかった。妹にも無論告げていなかった。だが目の前にいるこの青年は、妹と“同じ”真っ青な瞳を持って生まれたこの青年は、彼がひた隠しにしてきた事実を知ったところで彼を傷付けも貶めもきっとしないであろう、現に今まで樹は彼に「気付かれてることに気付いてなかった」。俊は、知る前と知った後とでなんら変わりはしなかったのだ。
 脳が平静を取り戻すとともに雑音は遠のいて、代わりに視覚が感覚を占める。彼の調った顔立ちと、何もかも見透すように青く、遠い、……哲学的な瞳、……
「知ってたんだね」 観念して吐けば、俊は悪戯っぽく笑う。
「うん。でもサークルの、他のみんなは多分気付いていない」
「知られてるなんて思わなかった、ぼくがビアンカを愛していたのは本当だし、……君はそっちには、気付いてるだろうと思ってたから」
「両方、知ってた。そっちのほうは、結構たくさんのひとが気付いていたかもね。いや、分からないな」
 知らないものは見えないから、と俊は言った。知らないものは認識できない。大人になればなるほど、そう。
 ビアンカのいる光景が樹の、視界に一瞬閃き、去る。また現れる。それは連続する。ビアンカの笑顔がよぎるたび俊の姿と重なって、二つの像は、混ざり合っていく、青い翅が見える、黒い縁を持った、青い蝶々の翅が、蝶? 俊の背に、それは大きく広がって、輝き、
「僕を抱いて、そして殺すといい。《ビアンカ》を終わらせるために」

 七月だった。カフェを飛び出した彼女を追うと外は夏の雲に覆われて、溝が溢れてしまうほどの雨、息苦しいくらいの熱気と湿気が瞬く間に彼を疲弊させた。シャツもデニムもぴったりと貼り付き、もう一枚皮膚を被らされたよう。
 後方から日が射し始めていた。前方は未だ曇天の、ブルーグレイに染まっている。ハイヒールで駆ける彼女の背が見える。彼女はおもむろに両の靴を脱ぐ。
 樹が目にした時には既に、彼女の足取りは軽くなっていた。そうだ、彼女は、雨に打たれるのが好き、——石造りの街並の真中を跳ね逃げていく妹の、黒いシフォンのワンピースが水を吸ってなお、揺れる。スカートの裾のひらめく波間にすらりと伸びた白い脚が見える。足のひらが地面を叩き、水たまりが舞う、振り向きもしない、彼女は一心に駆けていく、振り向きもしない、振り向きもしない、——
 街と街とを繋ぐ短い橋の上で、彼女は止まった。
「ねえ、簡単だったでしょ?」
 声を弾ませ、兄に笑顔を向ける。息がひどく上がっていた彼は返事をすることができなかった。それでも機嫌を損ねずに彼女は続ける。
「傘を差さずに外へ出るなんて、そんな難しいことじゃあないよ」
 暗いブルーが薄まっていく。日が追いついたのだ。雲が裂けていく。厚い灰色の重なりを裂いて眩しさが彼女を照らす。
「きもちいいでしょ? お洋服が汚れるって、ママはいつも怒ったけど、……ほら、」
 くるり、と爪先でターンする。ドレスはふわり、風をはらんで、シフォンの端から雫が零れる、濡れてより艶めく彼女の髪から、柔らかな肌から、光の粒が、きらきらと散って、忘れられなくて。
「きれいでしょ? お洋服だって、怒ったりしないと思うけどな」
 着地すると、両手を広げ、彼女は彼を腕のなかへ招いた。一歩、一歩、近付いていく。少し背の低い彼女の前で身を屈ませると彼女は腕を彼のうなじで交差して、抱き締める。陽がはっきりと顔を出す。祝福された光を浴びて兄と妹はくちづけを交わす。
 冷えた肌、その奥の温もり。雨の味がした彼女の唇。

「どうしてかな、そりゃあ確かに、髪と目の色はよく似てた、俊もビアンカもきれいなひとで、でもだからって、同じになんて、見えるはずないよね、男と女だし、」
「でも見えたんだ。僕は彼より、背が高くて、だから少し屈んで、そしたらあの日とおんなじに、彼が腕を広げて、首の後ろで、重ね合わせて、そしてキスをして、」
「雨の匂いがした。濡れた冷たさの向こう、あたたかい彼女の体温があった、」
「顔を離したら、もう、彼女にしか、見えなくて、ぼくは、」
「……あとのことは、よく覚えていない」
「彼は、一体、なんだったのかな? 今となっては顔だって、本当はよく思い出せないんだ」

 樹が目を覚ますと、俊は消えていた。ただ美樹の黒いランジェリーだけが抜け殻のようにそこにあった。そして枕にもシーツにも、ベロニカの花が散らされていた。まるで横たわる死者のために、棺に花を敷き詰めるように。



【聖ベロニカのハンカチ】
  
イエス・キリストがゴルゴダヘ向かう途中、
顔の血と汗を拭った布。
また、その布に写ったイエスの顔。
顔を拭った女・ベロニカは、
聖人の一人に数えられている。


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