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「ハニーメモリー」に見るaikoの新境地


「aikoはいつまで私たちに楽曲を届けてくれるのだろうか」と不安になる時があった。

aikoの主戦場は言うまでもなく、恋の歌、愛の歌だ。

恋や愛に夢中になるのはどちらかというと若い人で、30を過ぎると同年代の少なくない人が、父になったり、母になったり、人生の新たなステージに入っていったりする。

年をとると恋は二の次、三の次になる人も多いし、愛も形や対象を変えていく。だからaiko的な恋や愛を更新し続けて、新たな楽曲を作り続けるのは難しいのではないかと思っていた。

しかし、それが「ハニーメモリー」で良い意味で覆った。もはやaikoはどこまでも行ける。とにかくハニーメモリーについての話を聞いてくれ。

隣にいる君じゃなく違う花食べた

「ハニーメモリー」はタイトルだけ見ると、アップテンポでハッピーな曲かと予想される。しかし、実際は真逆だ。

いつも悪いなって思ってたよ
夜明け前に帰ると洗面所だけ
電気がついていた
ごめんねでも 素直になれなかった

早速の不穏な空気だ。表現のすべてが過去形。もう終わってしまった関係を表現している。

この歌詞から「ハニーメモリー」は失恋した曲で、恋人を失ったからこそ大切さに気付く曲かなと思う。そうなのだが、それだけではない。

「ハニーメモリー」がaikoの新境地であることが次の歌詞から明らかになってくる。

繰り返してきた春に
僕はいつの日からか
隣にいる君じゃなく
違う花食べた

見てください! この歌詞を!!

夜明け前に帰っていたこいつは!

仕事か大切な用事で遅くなっているのかと思いきや!!

違う花を食べていたんです!!!

ここで、この「僕」に対する恋人を失った悲しさへの共感は激減だ。もはや自業自得の糞野郎に思えてくる。

いなくなる「君」、未練たらたらな「僕」

aikoの楽曲の多くは「あたし」という女性の主観から紡がれている。しかし、一部例外もあり、その場合の主語は「僕」になることが多い。つまり男性主観で描かれる楽曲だ。

「ハニーメモリー」も「僕」の目線で歌詞が紡がれている。ここまでで紹介した「違う花を食べていた」糞野郎は男性である。

「ハニーメモリー」には「僕」の恋人である「君」も登場する。

「心臓が5個あったらいいな
入れ替えたらあなたの前で
ずっと笑ってられるわ」

これは「君」、つまり恋人の女性が「僕」に対して放ったセリフだ。

「君」は「僕」が糞野郎かもしれないことに気づいている。

それに対しての僕の回答とも取れる歌詞がこれだ。

なんとなく続いていく
問題も時が経ち
朝陽が溶かすよと軽く見てた

「僕」は、違う花を食べて、問題はそのうちに朝日が溶かすだろうと、考えて過ごしている。

そんな「僕」にやってきたのが「君」との別れだ。そりゃ別れられるよと思うのだが、「僕」はこの世の終わりかというくらいに落ち込む。味覚障害になるくらい落ち込んでいる。

思いっきり泣いて泣いても未練は流れ落ちない
今年の桜は誰と見たの
最近はおとなしく家に帰ってるよ
君がいないと味がしないんだ

「今年の桜は誰と見たの」とか、マジでこいつ何なのうるさいなと思うが、とにかく「僕」の心は「君」への未練であふれている。


「ハニーメモリー」のわかりにくさ


「ハニーメモリー」は糞野郎だった「僕」の未練たらたらな曲だ。

失って初めて恋人の大切さに気付く、これは言わずもがなJポップの王道のひとつだ。

では、「ハニーメモリー」がそんなJポップの鉄板の王道ルートかというと、それは違う。「ハニーメモリー」は、表面的な共感が非常にし難い。

大半のJポップはもっとストレートだ。全力で片思い!すごく切ない!!とか、恋人と一緒に入れて超ハッピー!とか、別れて死ぬほど悲しい…みたいに、それぞれの曲でどういった感情の流れがあるのがわかりやすい。

しかし、ここまで何度も書いたように「ハニーメモリー」の「僕」は糞野郎だ。いやいや、そりゃ彼女に捨てられますよと思うし、何今さら未練がましいこと言ってるんだよと思ってしまう。

端的に言って「ハニーメモリー」の「僕」の言動と感情の動きはわかりにくい(短い歌詞の中にそれをまとめるaikoはすごい)。

わかりにくいのだが、その上で少なくない人が「僕」のような一面を持っているのではないだろうか。

恋人がいるのに違う花を食べちゃう人。
違う花を食べなくても、食べたいなと思ってしまう人。
恋人よりも他の何かを大切にしてしまう人。

恋人が去った後に明らかに自分に非があるのに、寂しく未練がましくなってしまう人。

私たちは誰しも心の中にさまざまな「あたし」や「僕」がいる。

ものすごく真剣に片思いをしてるはずが、別の人に告白されてそっちの人と付き合うこともある。恋人を愛おしいと真っ直ぐに思うときもあれば、なんか今日のデートだるいな家でYouTube見てたいなと思う日もある。失恋して死ぬほど落ち込んでるかと思いきや、イケメンと連絡先を交換してルンルンになってしまったりする。

心が真っ白な全身全霊の善人なんて存在せず、私たちの心は王道Jポップのように単純ではない。私たちの心は「ハニーメモリー」の「僕」のように複雑なものである。

aikoは永遠に恋の歌、愛の歌を綴れる。

「ハニーメモリー」は「僕」も「君」も十分に人生経験を積んできた大人たちの世界だ。

たくさんの恋をしてきただろうし、同棲も当たり前にしている、違う花を食べていることを知っていてもある程度まで「そういうこともあるよね」と一緒にいることができる。そういった世界観がある。

そして、これは多分20歳のaikoでは書けなかった世界だろう。

私たちが思春期くらいに初めて異性を好きになる時、私たちはその異性がどうすれば喜ぶのか、どうすれば悲しむのか、どういった生活をしているのか、ほとんど知らない。

しかし、年齢を重ねるとそうではなくなってくる。異性との付き合いも重ね、ときには一緒に生活したりする中で、異性というものの輪郭がおぼろげながらに見えてくることもある。

つまり、同じ恋とは言っても15歳でする恋と40歳でする恋とではその内容が全くといっていいほど違う。

Jポップのメインストリームは思春期的な恋や愛の歌であふれている。もちろんこれはこれでいいと思う。しかし、40歳的な楽曲も作りうる。そして、「ハニーメモリー」は後者寄りの歌詞だと思う。

思春期的なむき出しのまっさらな感情はないし、妥協があったり、ある程度人生に疲れていたりもする。それが「ハニーメモリー」であり、aikoが紡ぐことができるようになった新境地のひとつだろう。

我々は日々、歳を取る。歳を取るがその時々の50歳のaiko、60歳のaikoの新たな発見を受け取って生きていけるのかもしれないという幸福の予感を「ハニーメモリー」から感じた。

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