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霧中夢とアンビエント

先週から始まった【Cornelius 夢中夢 Tour 2023】の特典カセット「霧中夢 Dream in the Mist 46min.」を聴いた。手に入れるまでどういう内容なのか不思議だったけれど、実際に聴いてみて、なるほどそういうことか!と。霧中夢で始まり、霧中夢で終わる、46分間の極上のアンビエント体験。深夜にカセットデッキから流れてくる「霧中夢」は、心を鎮めたり、或いはハッとさせられたり、緩やかな起伏があってとても心地よい。

数年前のインタビューで、ブライアン・イーノがこう話していたのをふと思い出した。

聴く人間のリアリティにどういうわけかフィットしてしまう、そういう音楽を作りたいんだ。聴き手を現実から「守る」のではなくて、それに合うものを作りたい、と。実はそこなんだよね、私がヘッドフォンが苦手な理由は。(中略)空間の中に存在している音楽、そういうものが好きなんだ。私は音楽に「それ以外のものは除外してしまう」、そういったものになってほしくはないんだよ。

『ele-king vol.19』

「霧中夢」をカセットテープで聴いてみて、当時はあまり理解ができなかったこの言葉が、今になってようやく少しわかった気がした。ブライアン・イーノをはじめとするアンビエント・ミュージックは、リスナーの想像を掻き立てるものであることは間違いない。しかし、もしアンビエントがイマジネーションの世界へと逃避するためのものではなく、現実と共存し、景色や空間を肯定する作用があるのなら、なんて懐の深い音楽なんだろう。アンビエントはわりと好きではあったけれど、私は今まで他ジャンルで才能を発揮してきたミュージシャンの多くが歳を重ねるにつれ環境音楽に傾倒していくことに対し、正直あまり好意的ではなかったし、コロナ禍にチル・ミュージックを提唱する記事を読んでは、ダンス・ミュージックありきのチルなのに、ダンス・ミュージックが圧倒的に足りない、機能できない時期にチルだけを享受するのはいかがなものかと抗いたくなる気持ちがあった。けれどあらゆる現実やあらゆる感情をそのまま受け入れたうえで聴き手の創造性を高めていくことが可能だとすれば、その音楽の持つ寛大さは計り知れないほどだ、と心を改めた。

『夢中夢』は今までのコーネリアスのどのアルバムより生活との密着度が高い。つまり歌ものでありながら、アンビエント的な作用があることは確かだ。例えば『FANTASMA』はファンタジーであり、それを決定づけるためのようなイヤフォンが初回限定盤に付属されていたし、ツアー初日のライブでも『FANTASMA』からの曲はその瞬間の音にぐっと入りこむように客席も盛り上がっていた。一方で「夢中夢』から披露された曲はステージの演奏や映像や会場の雰囲気も含めたひとつの情景として脳裏に残っていて、今もじわじわと静かな余韻をもたらしている。その両方を違和感なく一度に体験できるコーネリアスのライブはやはり異質であり、魅力的である。そして「霧中夢」の中で突如現れる〈Dreams!〉という声を聴いた瞬間、夢もまた、イマジネーションのその先に生まれる現実なのだ、と気づかされた。

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