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吉田恵輔 『空白』 ちくしょう意味ばかりではないか

あるイモ大学生が人生初の美容院でヘアスタイリストに突然「どうしてわざわざ寝癖をつけるんですか」と質問した,なんて笑い話があるけれども,わたしは笑うよりむしろ感心する。ファッションやら絵画やら音楽やらとはその実,みな寝癖のようなものではないか。ここで重要なのはたとえば寝癖と無造作ヘアの弁別閾ではなく──それは両者の画像をモーフィングして心理物理実験をすれば小一時間で求まる──,むしろある文化ゲームの前提を受け入れるか否かにあるだろう。

以下の文章は寝癖の一例である。


あらすじ

スーパーの店長が謝っている──自分の軽率な行動に問題があったと思っています。……正直万引き被害にあった店側が避難を浴びてることに違和感というか,逃げ出した相手を追いかけて何が悪いんだって気持ちもあります。ですが若く尊い命が失われた責任は大きく,これはやはり私の落ち度だと思っています。遺族にも申し訳ないです。一生かけて償っていきたいと考えています。

女子中学生・添田花音かのんは轢死した。数秒後にみずからを跳ね飛ばす乗用車の存在は,路駐トラックの陰に隠れて彼女の視界に入らなかった。肉体は乗用車のフロントガラスにひびを入れ,対向車線へ飛んでいった。この時点ではまだ息があった。しかしちょうど土下座の格好であえぐ彼女は次の瞬間トラックの下部に絡め取られ,車体は鮮血の帯を十数メートルほどアスファルトに書きつけた。即死であった。
スーパーの店長が謝っている。

『空白』のストーリーはシンプルだ。単純化して書くと(たぶん単純化しなくても)こうなる。
JCが万引き疑惑で店長に連行される。逃走中に轢かれて死ぬ。パワハラ親父が騒ぎ立てる。マスコミはカス。スーパーは潰れ運転手は自殺。インターネットはカス。最後はなんやかんやちょっといい感じになって終わる(註1)

はっきり言って,すべては我々のよく知っている物語でしかない。『空白』が既存の枠組みから脱している箇所はべつだん見当たらない。それでも魅せる力があるのはひとえに役者の技量と,要所要所でみせる吉田恵輔の美学によるものだと思う。もっとも,もちろんこれは全く逆に,役者の演技に頼って凡庸な中身を覆い隠しているとも言いうるけれど。

花音(伊東蒼)。演技うますぎてビビる。https://kuhaku-movie.com/


いろいろの空白

フェミニズムに「ハンマーの類縁性」という言葉がある。たとえばシス女性とトランス女性が被る圧力はそれぞれ違うけれども,それがただちに彼女らの分断を導くわけではない,むしろそれら圧力ハンマーの共通点に目を向けることで連帯が可能になるはず──だいたいこんな意味だったと思う。
本作はいわば空白の類縁性を主題としている(註2)

もっとも明瞭な「空白」は花音が轢死する直前,そもそも彼女が万引きをしたのかわからない点からはじまる。
店内をチェックしてまわる店長(松坂桃李)が何かに気づいた素振りをみせたカットの直後,花音がマニキュアを棚に戻すシーンが映る。店長は右手で(註3)花音の腕を掴み,半ば強引に事務所へ連れていく。数分ののちに花音は店を飛び出し,店長から逃げる過程で轢死する。

「マニキュアを見ていただけで事務所に連行なんておかしい」という人が稀にいるようだが,カットが連続しているからといって時間的にも連続しているとは限らない。これはさすがに常識。もう少し穏健な言い方をすれば,本作はそもそも意図的にミスリーディングなカット繋ぎを繰り返している──たとえば店長が首吊りをたくらむシーンの直後に花音の父親(古田新太)が「え,自殺した?」と電話口で驚いたり(実際に死んだのは運転手の女性である),父親の手の傷が……ああ,書くのが面倒だからやめた。観ればわかる話だ。

ともかく万引き事案の不透明ぶりは意図的に挿入された空白であり,わたしたちはこの空白に好き勝手な映像を幻視する。その意味で観客の視点は父親と同じ場所にある──のだが,実際に「花音って本当は万引きしてなくて,ロリコン店長が陰茎チ◯ポに脳みそ支配されてただけじゃね?」と思う人はいないと思われる。重要なのは疑いうるということそれ自体であって,いわばクロであるかではなくシロにしきれないことが問題なのだ。

しかし「空白」はそうした ”謎” 的な意味を超え,次第に多層化する。 築けなかった親子関係。聞いてやれなかった相談事。帰らない家族。要するに,彼ら彼女らは何かを失ったもの同士でつながりあう。野木はパワハラ親父に海でひとり逝った父親を重ねる。パワハラ親父は自殺した運転手の母に自分を重ねる。欠如の内容はそれぞれ違えど,欠如しているというまさにその一点において,彼ら彼女らは互いに歩み寄る(凡庸な解釈だが,これでとりあえず部分点は入る)。

野木くん(藤原季節)。Twitterのbioがいい。演技もいい。

そして決定的なのは言うまでもなく物語結末,花音が美術部で描いた油絵にパワハラ親父が目をとおすシーンだ。
事故の後,パワハラ親父は娘をまねて何枚か油絵を描いた。そのうちの一つ,空に浮かぶイルカ型の雲の絵と,まったく同じモチーフを花音も描いていたのだ。映画はパワハラ親父の涙で幕を閉じる。

もちろんこれはたまさかのことにすぎない。けれども「空白」は諍いを作り出した原因であると同時に登場人物たちをつなぐ鍵でもあり,そして最後には父と娘が同じ白い雲を見つめていたことが明らかになる! それが本作のからくりだ。それは確かな実在としての──決して欠如ではない──空白の共有である。
これをうまいと見るかしゃらくさいと見るかは個々人の関数に任せるけれど,ともあれ練られた構成ではあろう。

振り返ると実のところ,「空+白」による父娘の接続ははじめから既に暗示されている。映画の冒頭,パワハラ親父の仕事風景から花音のカットに移るまでの僅かなあいだ,空にかもめが飛んでいるだけのシーンが挟まれるのだ。こじつけ臭い? いやいや,中盤でわざわざ花音のかもめの絵を二度も映すあたり,狙っているとみるべきだろう。ついでに言えばかもめは,パワハラ親父がひとり海に出るシーンでは姿を消し,のちに野木にデレてふたり再び海へ繰り出すシーンで再登場する。

こんなふうに『空白』はカットごとにかなり明白な意図がこめられている。パートのおばさん(寺島しのぶ(註4))が「DV被害をなくそう」のポスターを貼ってるのはさすがに露骨だし,終盤で白い雲の直後にはさまれる電車のカットは花音が踏切の絵を描いていたことの先取りだし,担任が花音に「誰かに手伝ってもらえよ(大意)」と小言をいう瞬間にバックにクラスメイトを映すのはいかにも計算ずくだし……よく言えばイメージにまとまりのある,悪く言えば意図が透けて見える映画である。ちくしょう意味ばかりではないか,いったいどこが空白なんだよ,と思わないでもない。


自主性がない人たち

ここまで書いたような話が『空白』の主軸なのは間違いないが,もうひとつあまり語られていなさそうなポイントがある。そして,わたしはむしろそちらの方に美徳を感じる。

花音の死後,担任の先生(趣里)がこんなことを言う。私,花音さんに何度も叱るというか,注意をしていたんです。自主性がないとか努力が見えないとかやる気が感じられないとか……もしかして,本人なりに努力していたんじゃないかと……いくらやる気があっても努力しても,周りからはそう見えず認められない子っているんじゃないでしょうか。本人的には頑張っても頑張っても,いつもやる気ないとか言われつづけたら,それって……。

これは同僚に「今になって理解者ぶるのはずるいですよ」と返されて終わる。この返しにも一理どころか百理くらいあるのだが,ともあれ担任の発言は重要だ。花音も,店長も,死んだ運転手も,それからパートおばさんにコキ使われる若い女の子(名前不明)も,みな明らかにこの意味での弱者だからである。

彼ら彼女らは意見を表明できない。なにを考えているのかわからない。憎悪も悲哀も表出しない人間はいじめても面白くないから,彼ら彼女らを傷つけるのはいじめっ子よりむしろ善なる強者──「あなたのためだ」と心底偽りなく言える者たち──であることが多い。強者の善なる欲望を勝手に投影され,勝手に失望され,何度も擦り切られ朽ちていく。最後に残る武器は謝罪だけだ。平身低頭謝罪して自分の無害さ無能さをアピールし,見逃してもらえるようただ祈る。それは誠意というより生存をかけた防衛本能,弱者が持つ唯一の闘争手段にほかならない。その行く末がもっとも悲劇的なかたちで現れたのが,土下座の姿勢で轢き殺される花音ということになろう。

言葉の用法は共同体に決定されるから,彼ら彼女らが「努力している」ことは文字どおりありえないことにされる。どれだけ自分のリソースに対して十分な量を注ぎ込んでいても,それが他人に承認されるかたちで表出していない限り「努力している」とは呼べないのだ。強者にとってそれは頑張っているうちに入らないから(註5)。冷や汗をドボドボ垂らすとかHPゲージがグングン減るとか泡を吹いて失神するとか,誰の目にもわかる情報があればよいのだが,彼ら彼女らはそもそもリソースの寡少さすら表に出せないことが多い。

彼ら彼女らは空白とみなされてしまう弱者である。わたしが『空白』に感じる美徳はここにある。空白に勝手な妄想を読み込む人間を批判するだけではなく(それは実にありふれている),そもそもそれが空白とみなされることに既に圧力ハンマーがはたらいているのだ,ということ。
だから物語の最後,パワハラ親父の「あんたに申し訳ない気持ちもある,でも苛立ちもあるんだ,それはあんたも同じだろ?」というセリフに,店長が「俺は……わからないんです」と返すくだりがわたしはとても好きだ。彼ら彼女らはそれをわかることを,自分の心情を語ることを,許されてこなかったのだから。


と,それっぽくまとまってしまった(註6)が,わたしが本当に共感するのはむしろ先に挙げた同僚の発言,あとになって理解者ぶるのはやめろよという立場だ(ただしこの同僚は凡庸なカス)。


関係のない話

わたしが中学一年のとき,隣のクラスで女子が死んだ。名をNという。あいつ心臓病のくせに休み時間は走り回ってるよねと陰口を叩かれた彼女の四肢はしかしエンピツのように細く,背丈は小学校からほとんど伸びていなかった。客観的にみてスクールカーストの最下層に位置していたNは,一線を越してもはやいじめの対象に入らないメンバーのひとりであった。

Nの訃報はわら半紙の学級通信で通達され,教室をのぞくとちょうど中央あたりの座席に──机はまだ名前の順で並んでいたから──花瓶がひとつたたずんでいた。黄色い花だった。

わたしが小学一年のとき,公園でひとりの女子を見かけた。彼女は回旋塔とブランコの中間,なにもない空間でひとり突っ立って,ポケモンのルビーだかサファイアだかをプレイしていた。わたしは彼女に代わってカナシダトンネルでゴニョニョを捕まえることになった。いきさつは全く覚えていない。
わたしは知識と経験をフル活用してゴニョニョ捕獲にとりくんだ。モンスターボールを使い切り,当時まだ1つしか手に入らないスーパーボールを投げた。ゴニョニョは捕まらなかった。

その子はNだったように思う。仮にその子がNだったなら,わたしは生前一度だけNと会話をしたことになる。その子がNでなかったなら,わたしはNと一度も会話をしたことがない。いずれにせよNは死んだ。机上に花を残して。


ああ,こういうことを書くのは本当にやめたほうがいい。恥ずべき行為だ。
わたしの記憶では花は黄色かった。しかし本当は黄色くなかったかもしれない。そもそも花はあったのだろうか? 机は本当に名前の順のままだった? 十年以上も昔の話だ,なにひとつ確証はない。でもわたしはもうその過去を作り上げてしまった。

わたしは記憶の間違いが怖いのではない。過去を現在のスコープでのぞきこむこと自体が怖い。そういうあり方でしか過去と向き合えないことが怖い。花はもう,黄色かったか,黄色くなかったか,そのどちらかでしかない──それは過去を現在の空間に閉じ込めることだ。
怖いのは記憶の間違いではない。正しい−間違いという対立軸を持ち込むことが怖い。だって過去は,今のわたしの解釈学の視点とはまったく無関係に存在したはずだから。ちょうど今のわたしが,未来の誰かに解釈されるため生きているわけではないのと同じように。

宇多丸が『空白』は折り合いのつかない人の物語だと言っていた。それはたぶんそうなのだろう。でも彼らは折り合いがつかないだけで,つけようとはしているじゃないか,と思う。

パワハラ親父が過去を反省し,花音のまねをして油絵を描き,花音の好きだった漫画を読み……そうして少しずつ苛立ちと悲しみを時間の流れに溶かしていくさまを,わたしはどうしても受け入れられない。だって,花音はもう死んでるじゃないか。いくら親父が猛省し過去を悔い,同じ空白を見つめていたと知って涙を流したところで,当の本人は死んでいる。わたしは墓が嫌いだ。墓なんて磨いてなんになるんだ。

わたしはむしろ──これはたぶん理解されないだろうが──自分の過去の不誠実さを真に見つめるのなら,不誠実を貫くほうがよいとすら思っている。すなわち墓石を壊し遺影をぶん投げ,遺品はすべて焼却するほうがよいと思っている。もちろんこんなことをしてもなんにもならない。こんなやつがいたらぶん殴られるだろう。殺されてもおかしくない。なんてたちの悪い自己満足だろう。ただわたしはそのほうがマシだと思っている。改悛の甘い誘惑に飛びついて,折り合いをつけようとするくらいなら。

過去の空白に色を塗ってはならない。過去を現在の空間に読み込んではならない。わたしはもうNの過去に色を塗りすぎてしまった。わたしの勝手な色塗りがNをもう一度殺そうとしている。過去は語られることによってではなく,誰にも語られないことによって救済される。

わたしは「今になって理解者ぶるのは,ずるいですよ」という発言に完全に同意する。喪に服して過去に折り合いをつけるとき,それはすべて100%なにもかも現在のためであるという事実から目を背けてはならない。現在のパースペクティブで過去を解釈して色を塗ろうとするその視線が,過去を決定的に殺すのだ。


長々と書いてしまった。終盤はたぶん理解されないだろう。ああ,早く寝癖を直さないと……。



註釈

(1) マスコミ・ネット描写はマジで紋切り型にもほどがある。

(2) これはカッコいい言葉を言ってみたかっただけだ。

(3) 松坂桃李は左利きである。彼がのり弁にキレて弁当をぶん投げるのは左手,店にスプレーされた落書きを消すのも左手,一方で寺島しのぶの腕をしぶしぶ触るのは右手。万引きのシーンは利き手で花音をひっつかんでもよかったのだから,わざわざ右手にしているところに意図を感じる。なお古田新太は右利きであり,雨のなか彼が追っかけ回してくるシーンでは利き手の差異が画面に若干の対称性を生んでいる。

(4) 寺島しのぶはうまいが,このおばさんの造形はあまりうまくない。「善意の共用は苦痛でしかない」と言われてしまう彼女は明らかに,野木くんや最後のトラック運ちゃん(奥野瑛太)がみせる真っ直ぐ・・・・素朴・・な優しさに対するカウンターとして配置されている。しかし結局は正義を履き違えたボランティア大好き中年おばさんという別種のステレオタイプを反復しているだけに見えるし,取ってつけたようなヴィーガン設定などもはや加害性すらある。
それから「こんなおばさんキモいんでしょ?! あたしがもっと若くてきれいだったら……」というセリフもメタ的な響きをもつ。けれども,ここで批判されているなんかよくわからんけどやたら尽くしてくれる若くてかわいい女の子(だいたいJK)という表象と,野木のような口下手だけどまっすぐでやさしい弟子/子分的存在という表象とは,そんなに変わらないのではないか。どちらも都合のいい幻想にすぎないという意味で。

(5) もちろん一度言葉を学んでしまえば,「いや私は私なりに努力しているのだ」と主張することはできる。しかしそれは論理上正しいとしても実践上正しいかどうかはわからない。これは「反抗するより謝っといたほうが結局楽」という意味でもあるし,「多少無理してでも社会に合わせて ”努力” できる人間になったほうが結果的に ”良い” ことも多い」という意味でもある。

(6) なんだか店長に優しすぎる解釈になっているが,花音連行やのり弁のくだりで明らかなように,当然店長も状況次第で ”強者” になる。弱いものたちは夕暮れさらに弱いものたちを叩く。

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