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ラグビーワールドカップと日本代表:ブレイブ・ブロッサムズと呼ばれるより前の頃

 ラグビーワールドカップの歴史は比較的浅く、第1回大会は1987年に行われました。この時は予選は行われず、招待というかたちです。その直前のウェールズ遠征で善戦したこと(24-29の5点差での惜敗)もあり、アジア枠では日本だろう、ということで日本もこの時から出場しています。

 ただし結果は惨憺たるものでした。格下とみていたアメリカに、キックが決まらずに敗北(18-21の3点差。ペナルティゴールを5本外してます)。イングランドには惨敗し(7-60)、最終戦のオーストラリア戦は、善戦するものの最後は突き放され完敗(23-42)。ただしオーストラリア戦は、後半33分に7点差まで迫り(当時はトライは4点)、「あわや!?」と思わせる素晴らしい試合ではありました。

 1991年の第2回大会は、遠征してきたスコットランドXVチームを秩父宮で破った宿沢広朗が監督。スコットランド戦の前半では9-17と善戦(最終スコアは9-47)、アイルランドに対しては16-32と敗れるも吉田義人の突破からの美しいトライを見せます。そしてジンバブエを圧倒して52-8で大会初勝利を挙げました。

 この頃はまだ、日本が強豪国にアップセットを起こす夢を持てていました。しかし1995年、厳しい現実を見せつけられます。ウェールズに大敗(10-57)、アイルランドに対しては平尾誠二の美しいトライなどで後半に5点差まで詰め寄るものの、そのあとスクラムからペナルティトライを2本取られて最終的には完敗(28-50)。
 そしてニュージーランドには17-145で敗れました。「ブルームフォンティーンの虐殺」と呼ばれた試合です。奇しくもこのブルームフォンティーンは、2010年のサッカーワールドカップで、岡田ジャパンが初戦をカメルーンを戦い、1-0で勝った場所でもあります。試合前は「縁起悪い場所だなあ・・・」と思ってましたが。

 ここから苦闘の日々が始まります。それまでの強豪国相手の善戦も、実際には先制され、点差を離され、相手が少しペースを落としたときに反撃して点を詰めていくと言う形で、リードした時間はほとんどありませんでした。そしていつしか、善戦さえ見ることができない日々が長く続きます。

 日本がジンバブエ戦に続く勝利を挙げるには、2015年の対南アフリカ戦、いわゆる「ブライトンの奇跡」を待たなければならなかったのです。ブライトン、そう、いまプレミアリーグで大活躍している三笘薫が所属しているブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCのある街です。

 この時から、日本のラグビーの歴史が変わったのです。

(写真は2019年大会の準決勝 イングランド対ニュージーランド戦)

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