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「オッペンハイマー」:閃光と沈黙と轟音と

 昨日は映画「オッペンハイマー」を見てきました。オッペンハイマーは、言わずと知れた、マンハッタンプロジェクトのリーダー。つまり原爆開発の物語ということになります。そういうわけで、日本では公開が見送られていたわけですが、アカデミー賞受賞もあってか、遂に日本でも公開になりました。

 私の本業は核抑止論ですから、早く見たかったのですが、なかなか時間を作れず、今日になってしまいました。

 最近は、映画を見るにしても、普通に見るか、MX4Dで見るか、IMAXレーザーで見るか、Dolby Cinemaで見るかといった選択肢があります。「オッペンハイマー」は、冒険活劇ではなくドキュメンタリーとかノンフィクションみたいなものですから、ノーマルで見てもいいかと思っていました。
 しかし、先に見た同業者たちから、「IMAXレーザーの方がいい」と聞いていたので、ノーマルではなく追加費用を払って見ようと。結局時間と場所の関係でDolby Cinemaにしましたが、正解でした。理由はあとで。

 日本での公開が遅れた大きな理由は、やはり原爆というセンシティブなテーマであること、特に原爆投下を正当化しているのではないかという懸念があったことだと思われます。しかし、本編を見ればはっきりとわかりますが、特に後半は、核兵器の抑止としての役割を期待する考え方と、核兵器の破壊力や残酷さに由来する道義的な問題とのせめぎ合いを感じさせる作りになっています。

 曲がりなりにも核戦争が起こらないで冷戦が終わったことを知っている現代と、核兵器が登場したばかりで、どのような戦略的影響がもたらされるかもまだわからない、けれどソ連に対する深刻な脅威感が広がっていた当時とでは、切迫感は大きく違います。その切迫感が、オッペンハイマーを含め、道義的な問題意識を押し流していく時代の雰囲気が、たいへんうまく描かれていたと思います。そうした意味で、核兵器のことを考える上では、一度は見ておく映画だと感じました。


 核兵器についての私の考えは↓の動画をご覧ください。




(以下ネタバレ)

 印象に残った場面は3つあります。

 1つは、冒頭、まだオッペンハイマーが学生だった頃、ピカソの絵とストラヴィンスキーの音楽が並置的に描かれる場面が、一瞬あります。言わずと知れた、2人とも、現代芸術の入口を切り開いた人物です(同じ場面でT.S.エリオットの本も出てますがそちらは全く知識がないので言及は避けます)。
 これはあくまで私の理解なのですが、現代芸術は、「客観的な正しい解釈」が存在すると言う前提を捨て、受け取り手の主観に感じ方を委ねるものだと思っています。社会科学で言えばポスト実証主義の立場ですね。
 劇中で、ニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルグのような、量子力学発達の歴史で大きな役割を果たした人々が登場してきます。
 量子力学の基本原理である不確定性原理では、「観測」によって対象の状態が変わります。「波」として観測されたり「粒子」として観測されたりするということですね。言ってみれば、「客観的な正しい解釈」が存在するという認識論的な前提が成立しないわけです。そうした革命が物理学で起ころうとするその時期に、現代芸術を含意する場面が挿入されていることに強い印象を受けました。
 もちろん物理学と芸術は全く違うもので、「似た流れ」があったとしてもそれは偶然でしかないのですが、それだからこそなお、印象に残る場面でした。

 余談ですが、現代芸術は主観に訴えるからなのか、私は、精神的に疲れているときに現代美術を見たくなることがあります。逆に現代美術を見たい、と思ったときに「疲れてるのか・・・」と感じたりすることもありますね。

 本題に戻ります。2つめは、トリニティ実験、すなわち人類最初の核実験の場面です。爆縮レンズの組み上げなどの準備の描写も目を引きますが、やはり爆発の瞬間の描写はすさまじいものです。
 私の印象に残ったのは、最初の爆発の閃光で実験の成功を確認したあとの静謐と、しばらくしてやってくる爆風と轟音でした。これは光速と音速の差を考えればこれは当たり前のことですが、このあと、2度ほど同じような場面が繰り返されます。
 1回は、広島への原爆投下を受けて、他のメンバーの前でスピーチする場面です。この時、オッペンハイマー視点の映像の中で、あるタイミングで、強烈な光とともに外部の音が聞こえなくなります。そしてしばらくして轟音が。
 もう1回は聴聞会のときです。聴聞会の委員から厳しく道義的責任について問われているときに、沈黙と強烈の光が。そして轟音ですべてがかき消されます。
 これはトリニティ実験をフラッシュバックさせている場面だと感じます。いずれの場合も、道義的な責任を含めて、核兵器を作り出したことの重さをオッペンハイマー自身が内省的に振り返っている場面での光と轟音なのです。
 最初に、Dolby Cinemaで見て良かったと書きましたが、その理由が、まさにこの場面です。この場面の、核爆発の閃光と轟音、つまり核兵器の時代が来たことの重さを強く感じるためにこそ、IMAXレーザーなりDolby Cinemaのような、特別な効果のある劇場でご覧になることをおすすめします。

 第3の場面は、トルーマンと会う場面です。オッペンハイマーが、自分の手が血塗られているように感じると発言した場面で、トルーマンは、胸の純白のポケットチーフを取り出し、自分の手を拭くような仕草をして、自分にこそ責任があると論駁します。
 この場面、核兵器を使う時の政策決定者にかかる重圧をヴィヴィッドに表現しています。核兵器を「作る」ことの責任よりも「使う命令を出す」ことの責任の方が重いのだと、トルーマンは全身で表現しているのです。
 人によってこの場面の感じ方は違うでしょう。政治家の傲慢と感じる人もいるかもしれません。ただ私の印象は違います。私はテレビに出ていた頃、アメリカとロシア(ソ連)は「世界を滅ぼさない責任」を分かち合ってきたと話したことがあります。そしてその責任を負っているのは、両国の最高指導者という「1人の人間」なのです。それを、若干の悪役的なニュアンスとともに見事に描写した場面でした。


 以上、簡単な感想です。一言で言うと、3時間を長いと感じさせない映画でしたね。劇場で見る価値が十分あります。


 

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