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幼気【♯4】

夫の和樹と娘の麦の待つ旅先の目的地まで二時間以上を要する。移動中に読もうと入れていた文庫本はまだ鞄の中で影を潜めている。行きの心地よさとは打って変わって、プールの授業の後のような倦怠感で電車に揺られていた。耳の奥には耳抜きをしても取り切れなかった水が詰まっている気がして音や声が聞こえづらい。こんなに頭がボーッとするほど泣いたのはいつぶりだろう。子供の頃はよく母に隠れて泣いていたが、実家を出てからは自分の涙で溺れるほど泣いたことはなかった。楽しい気持ちで二人のもとへ向かえるとは思っていなかったが、こんなに腫れた目で会ったら驚かせてしまうかもしれない。

和樹に何て話そうか。麦には伝えるべきか。浩二さんの提案に乗るべきなのか。自分に介護をする覚悟はあるのか。次いつ実家に行けばいいのか…
考える事は沢山ある筈なのに何も思い浮かべることが出来ない。ただただ重い倦怠感の中目的地に近づいている。

ブブ、とトレンチコートのポケットの中のスマートフォンが震える。多分和樹だろう。電車に乗る前に今から向かう旨を伝えていた。おそらく現地に着くのは十七時過ぎるだろう。

“オッケー。じゃあ良さそうなレストラン探しておくよ。合流したら晩飯にしよう。”
“ありがとう。麦はどう?”
“楽しんでるよ。大はしゃぎだから夜はぐっすりだろうな。そっちはどうだった?”

文字を着く打つ手が止まる。まだ冷静に話せる気がしないし、せっかく樂しんでいる所を水を差すようなことはしたくない。和樹に気を使わせれば麦も異変に気付くだろう。昔から親の機微に敏感な子だ。

“うん、大丈夫。家帰ったら話すね。お腹すいたー。レストランよろしく。”
“わかった。気を付けて来てね。”

ふう、と息を吐く。
まだ話さないと決めたからには気持ちを切り換えなければならない。明日帰ったら明後日は仕事だ。子を持つ親に休日などない。これで介護をすることになったらどうなるんだろう…と不安が過るが、それを消すように頭を振った。一度冷静になる為にも寝ておこう。頭を振ったところで靄が消えてくれるわけもないが、腫れた瞼の重みに準ずるように目を瞑った。

「ママー!!」と勢い良く駆け寄って来て麦が私に抱きついた。一日遊園地で遊んでいたはずなのにまだこんなに体力が残っているなんて、子供は凄い。さぞかしご機嫌だろうと顔を覗こうとしたが少し様子がおかしかった。顔を埋めたままあげようとしない。お腹がじんわり温かく濡れてくる。「麦?」と声をかけると、スンと鼻を鳴らした。

「遅くなってごめんね。お腹空いた?」
ブンブンと首を振る。
「麦ー、どうした?さっきまで楽しく遊んでたろ?」
和樹が聞いてもブンブン。
「いっぱい遊んで疲れた?」
ブンブン。
「ママに会いたかったか?」
ピタ。スン。

「そうか、会いたかったかー!」と和樹と二人で麦を抱きしめた。するとキャハハハはと声を上げて「くすぐったいよー!」と笑い出した。

遊園地の近くの駅で抱きしめ合っている親子なんて、他人から見たら平和の象徴のようだろう。私が子供の頃にはしてもらえなくて、見かければ羨み、妬みすらした親子の姿だ。その親子にだって何か人にはわからない事情があるかも知れないなんて想像も出来ずに。ねじ曲がった私から、よくこんなに真っ直ぐな子が産まれてきたと思う。

三人で手を繋いでレストランへ向かった。だいぶ大きくなったと感じるこの手はまだまだ成長するだろう。いつか私の身長を抜く日が来ても、なるべく嫌な思いをせず、傷付かずに生きていって欲しいと思うのは勝手な親心だろうか。

オムライスに海老フライまでついたプレートを食べてご満悦な麦は、ホテルに向かう途中で和樹におぶさり眠ってしまった。

「さっきぎゅーした時は“パパはいいのー!”って言ってたのに、こんな時だけちゃっかりおんぶだもんね。」
「まあ、でもあと何年もさせて貰えるわけでもないからなぁ。麦は女の子だし、きっとパパが辛いのはこれからかも知れないよな…」

そういうと大袈裟に顔だけで泣き真似をした。そうか、私はパパイヤ期の頃には父親は居なかったし、浩二さんとは最初から打ち解ける事が出来たから、娘対父親の構図を描いた事が無かった。

平和だ。こんなに幸せを感じるのに、罪悪感が胸から取れない。さっきから浩二さんと母の顔がチラついている。

「話は、帰ってからの方がいい?」

和樹が核心をついてくる。和樹も気になっていたのだろう。私の腫れた目にも気付いたはずだ。

「そうだね…。せっかくのプチ旅行だし、帰るまでは楽しみたいかな。」
「わかった。麦も寝たら体力回復するだろうし、明日また遊んでから土産買うか。」
「うん、ありがとう。」

ホテルにつくと麦は目を覚まし、自分の家じゃない部屋にはしゃいでいた。私と二人で部屋のお風呂に入り、交代で和樹が入りに行っている間に部屋で麦の髪の毛を乾かしている。大人より量は少ないが、腰まである髪は艶が良く黒々と輝いている。気持ちよさそうに大きなあくびをすると、ドライヤーの音にぎりぎり掻き消されないほどの声で「さっきはごめんね」と言ってきた。

「ん?何が?」
「さっきさぁ、ママが来たときに泣いちゃったじゃん?」
「あぁ。」
「何か子供みたいで恥ずかしかったなと思って。」

小学一年生なんてまだまだ子供だし、子供でいていい歳なのに、最近麦はよくこういう事を言う。小学校に入学した事で、成長しなきゃと思っているのかも知れない。

「なーに、全然良いよ。麦に甘えてもらえると、ママ嬉しいよ。」
「そうなの?」
「そうだよ。」
「わがままじゃない?」
「なんで?わがままじゃないよ。」

私の返事を聞くと黙って下を向いてしまった。何か他にも思っていることがあるのかも知れないと思い、ドライヤーを止めて向かい合って座った。

「麦は小学生になったけどさ、ママとパパの子供なんだから甘えて良いんだよ?」
「でも…みなとちゃんが、麦はわがままだねって。」
「学校で言われたの?」
「休み時間に図書室に行きたいって言われたのに、お天気が良いからお外に行こうよって言っちゃったの。」

遊んでいれば良かった幼稚園から小学校に上がって、少しずつ社会のルールを学んでいるのだろう。自分の気持ちをただ言うだけでは通用しなくなって来ているのだ。こういう小さい喧嘩が、成長には必要なんだろう。

「そうか、それでどうしたの?」
「みなとちゃんに『じゃあ麦ちゃんはお外に行けば良いじゃん』て言われて一人で行ったの。鉄棒まで行ってから、その日の朝にみなとちゃんに図書室に行こうって言われてたこと思い出して帰る前に謝ったんだけど、その時に『別に良いけど、麦ちゃんわがままな時あるよ』って。」
「仲直りは出来たの?」
「仲直りはしたけど、麦わがままなんだなって思って、またみなとちゃん達に嫌われないか心配なの。」

私と和樹が優しくし過ぎているのかも知れない。すぐに謝れる素直さは良いことだが、素直故に思ったことを口に出してしまうんだろう。きっとその日だって、ただ天気が良かったから位の理由なのだと思う。

「麦は素直だからきっと思ったらすぐ言葉にしちゃうと思うのね。だから悪いと思ったらすぐ謝ることが出来るし、それはすっごく良い事。偉いよ。でもみんなで何かを決めるときは、お友達の意見も聞いてあげようね。全部我慢する必要はないのよ。でもその日みなとちゃんには図書室に行きたい理由があって、そこに麦を誘ってくれたわけじゃない?その理由を想像してみるの。お友達とのお付き合いは想像力が大事なのよ。誘われて断っても良いけど、その時はお友達が嫌な思いをしない言い方を考えないとね。」

もちろんそれだけではない。想像のつかない人なんてこれからいくらでも出てくるだろうし、言葉を尽くしてもわかり合えない人もいる。私にとってそれは母だった。でもまずはそこから始めなければならない。まだ麦には難しいかも知れないけれど。

「うん…わかった!」

わかっていないような気もするが、小さな頭で色々考えているんだろう。普段は天真爛漫そうに見える麦でも、こうして心を痛めることもあるのだ。

「みなとちゃんから言われたことも気にしすぎなくて良いのよ。お友達とは何かを決めるときは皆で相談して、ママやパパにはもう少しわがままに、麦の気持ちを伝えて欲しいな。」
「そうなの?」
「そうだよ。全部は聞けないかもしれないけど、ママとパパは麦が嬉しいことが嬉しいし、麦が楽しいことが楽しいの。」

「じゃあさ、」と麦が言いかけると和樹が「パンツ忘れたー!麦ー、パパのパンツ取ってー!」と風呂場から叫んできた。麦はケラケラと笑って「やだよー!」と叫んでいる。「おーい、麦頼むよー!」「やだー!」の攻防戦である。本当に平和だ。皆外では色々ある。和樹も仕事の愚痴を家では吐かないが、きっと色々あるのだろう。でも私達には帰る場所がある。この平和な場所を守る為に、私は母の事をどう決断するべきなのか、考えなければならない。


           【♯5】へ続く


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