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正義 対 正義 /キタニタツヤ「次回予告」を聴いて

 ぼんやり音楽を聴いていたら、とある曲が耳に飛び込んできた。キタニタツヤさんの「次回予告」だ。

「いけ たたかえ まけないで!
せいぎはかつ まけたらわるもの?」

 とんでもない歌詞が、幼い子どもの声で紡がれる。テレビの前でヒーローを応援する子どもたちは、この歌詞をどう受け止めるのだろう。けれどタイトルに「次回予告」とあるように、ただ単に絶望する曲ではない。

 わたしたちは、大した変化のない毎日を送る。仕事や学校、たまに遊んで、また仕事。それが「予定調和」の日々。昔は夢があっただろう。医者、先生、それからヒーロー。きっとみんな何にでもなれると思っていた。時間が経つにつれて、壮大な夢を諦め、もしくは忘れ、現実を歩いていく。誰に望まれるわけでもなく、何十年も。

 ところで、正義の反対は悪なのだろうか。わたしは違うと思う。正義に対するものは正義だ。立場が変われば、他方が悪であるというだけ。譲れない正義と正義がぶつかって、相手を屈服させた方の主張が通る。負けたら悪者、負けたから悪者。その悪者が床に突っ伏して泣いていても、全てを悪と言い切れるのか。

 現実では、勝っても負けても、正義でも悪でも、歩みを止められない。舞台を降りたとて、また別の舞台に立たされる。それが生きるということで、「麻痺るまでループ」し続けなければいけない。仕方がないと受け入れて、ふと、これが生きたい人生なのかと考える。この先も、諦め続けるのか、と。

「また同じオープニングテーマが鳴る」
「予定調和の日々が始まる」
「それでも続けよう 誰のために?」

 誰かのため、と理由をつけて生きる方がよっぽど簡単だ。それが悪だろうと正義だろうと、責任は分散されるから。自分で自分の責任を取りながら、正義を選び、進み続けることは、どうしようもなく苦しい。

「次回も同じ日々が来るよ」
「来週も乞うご期待」

 明日も来週も、変わらないかもしれない。それでも「次回予告」と言うからには、大どんでん返しに期待しても良いんじゃないか。くたびれた中年男性がヒーロースーツを着て、敵に立ち向かえたように。

 「次回予告」は絶望ではなく希望の曲だ。

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