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書評 『1976年のアントニオ猪木』 (柳澤健著・文藝春秋・2007年)


          WEB『ダビンチ』連載・「本、邪魔か』より。

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 2004年の8月より始まった、この連載『本、邪魔か』いよいよ、この28回目を持って最終回とのこと。決して四月馬鹿ではない。

 振り返れば、俺にとっても初めてになる、このネット上の連載は従来の雑誌連載にはない、かなり異色なスタイルでもあった。
 本来、この『4ちゃんねる』なる企画、サブカル界のライター4組、四天王を集めて、がっぷり四つに組みオモロ・エッセーを綴り合うという趣旨であり、将来的な単行本化にも向けて編集部にも意向と方向性があったのだろうが、四苦八苦、皆、四方八方にてんでバラバラ、決して四重奏になることはなく自分たちの、その時、書きたいことを自由気ままに書いてきた。(おかげで4組の共著となる単行本化の話は四分五裂、見事に四散した)
 
 当初は写真を絡めたショート・エッセーで十分と言われていたのだが、特に締め切りはあるが字数の制限が無い四の五の言われないというレギュレーションは俺を必要以上に雄弁に語らせた。

 しかし、回を重ねるごとに減らず口は抑えきれず字数が増えていき四十路の体に鞭打った前回の東京マラソンの体験記などは42.195キロ延々と書き綴り5万5千字を越え薄めの新書一冊の分量であった。

 もはや、読んでいるほうが果てしない読書マラソンの態であったことであろう。
 しかし、ネットの特性でもあるがペーパーの枚数や大きさに制限されない、自由闊達さは『本、邪魔か』のタイトルに相応しく書き手としてもストレスを感じることが無かった。

 そして、この連載、内容的には毎回、“読みたい本がすぐ見つかる、すぐ買える!!”を標榜する本の情報誌である『ダ・ヴィンチ』という媒体を考えて、何かしら『本』に絡まる話題を心掛けてきた。(しかし、意外と言うか皮肉と言うか、連載中、最も反響があったのは、本の話を離れて、いじめ問題をとりあげた時であった)

 果たして、最終回は『本』そのものを巡る話として、熱く興奮させられた『編集者という病い』(見城徹著・幻冬舎)を取上げる予定であったが、他の媒体で執筆の機会があり何を取上げるか思案していたところ締め切り直前に、俺にとっては専門ジャンルとも言えるプロレス・格闘技で、文字通り数十年に一冊とも言えるエポックメーキングな一冊である『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健著・文藝春秋)に遭遇、いや、その引力に引き寄せられた。

 この本、一度手に取れば巻置くあたわず、興奮冷めやらず。
 ページを捲る時間さえ惜しいほどの目くるめく耽読体験が失われた時を求め俺の脳内時間を30年も前に遡らせた。

 さて、本書はアントニオ猪木が闘った異種格闘技戦シリーズのファーストシーズンである「1976年」に行われた4試合を詳述する。

  <2月・ミューヘン五輪、柔道無差別級、重量級の優勝者・ウィリエム・ルスカ戦>
  < 6月・ボクシング世界へビー級チャンピオン・モハメド・アリ戦>
  <10月・アメリカで活躍中の韓国人プロレスラー・パク・ソンナン戦>
  <12月・パキスタンで最も有名なプロレスラー・アクラム・ペールワン戦>

 これらの試合の舞台裏をアメリカ、韓国、オランダ、パキスタンまで足を運び、関係者に徹底取材をしたノンフィクションである。

 K―1、PRIDEが誕生して久しい現代では既に“常識”として語られることだが「プロレスはリアル・ファイトではない」ことを前提に書かれた本であり、しかしながら1976年はプロレスファンには「異種格闘技戦はリアルファイトである」と信じられていた時代を描く一冊である。

 猪木が終生のライバル・ジャイアント馬場に打ち勝つために始めた異種格闘技戦は苦肉の策のプロレスと他の格闘技と交流、掛け合わせる実験であ、行き当たりばったりのファーストコンタクトには思わぬ化学反応と捻れを生んでいる。

 本書に描かれる4つの試合は、いずれも一筋縄に予定調和で行われることはなかった。
 猪木はプロレス(フェイク・ファイト)をリアル・ファイトと思い込んでいた最強の柔道の金メダリスト・ルスカには最初から契約書通りにプロレスをやらせ負け役を強いることに成功した。

 歴史的英雄・アリとの世界注目の世紀の一戦はプロレスと思って来日したアリにリアル・ファイトを強要し、結果、試合はかみ合うことが無く世紀の凡戦として世界に嘲笑される。

 プロレスのつもりで挑んできた、格下の韓国のプロレス王、パク・ソンナンには自ら掟破りのガチンコ(リアル・ファイト)を仕掛けて対戦相手はおろか韓国プロレス界ごと崩壊に追い込む。

 プロレス遠征の心算で嫁を同伴し観光気分で訪れたパキスタンでは、逆に地元の英雄・ペールワンからリアル・ファイトを挑まれ実力で裕に勝るにもかかわらず、指で相手の目をえぐる反則技まで繰り出し残忍にも腕の骨を折って勝利を収める。

 いずれにしろ、本書ではプロレスラー・猪木がリアル・ファイトをしたのは、この1976年のみと語られるが、その事実は重い。
 余人の推測には及ばぬ、当事者だけが知る予期せぬ修羅場の連続であり、それは、苦い闘いの後味、莫大な借財を背負うこととなる経済的な余波を含めて当の本人には懲り懲りの体験であったと推測される。

 そして、現在の格闘技ブームの魁(さきがけ)となった、これら黎明期の“格闘技戦”は、今まで平成のプロレスファンの間に、まことしやかに舞台裏の“真相”が語られてきたが、この本は従来の“定説”を覆す驚嘆の新事実を暴いていく。

 ちなみに、俺にとって<アントニオ猪木>は、まさに同時代を生きた“生きる伝説”でありカリスマそのものだ。

 俺が、今でも猪木を教祖と崇め、新潮文庫の『アントニオ猪木自伝』を買い置きし、日々、布教のためにホテルに泊まるたび、引き出しの聖書とすり返る急進的な猪木教徒であることは、あちこちで語っているので皆さん、ご存知であるだろう。

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 (ちなみに、俺は、青春時代に俺を洗脳した、アントニオ猪木、梶原一騎一騎、角川春樹の3人、彼らを“3大キ印”と呼んでいる。この3人は箆棒(べらぼう)なキ印なのだ。この3人の規格外のデタラメぶりに比べれば、俺の師匠・ビートたけしは、野坂昭如が評したように“偉大なる常識人”とも思える。それ故にビートたけしの歩みは類稀なストーリーだとも思うが、“それはまた別の話”と言うことで……)

 本来、新潮社文庫の『アントニオ猪木自伝』は、何度となく読み返してきた俺の『聖書』だ。
 あらためて、この本の魅力を語れば、きっと説明に百万語を費やすことになる。
 しかし、丁度、今、手元にある見城徹の『編集者という病い』の中から一節を引用すれば「天使から人間に変わること、認識者から実践者になること。柄谷行人は『暗闇のなかでのジャンプ』と呼びました」と、小説家などの表現者の優れた営為を例えた。

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 その例えをなぞらえれば猪木の人生とは、まるで『暗闇のなかでの卍固め』とでも呼ぶべきものである。
 それも、自分が自分自身に卍固めを掛け、がんじがらめに締め上げられながらも、なおも戦い続ける自傷行為であり、常に行き先は時化(しけ)の中を“悲惨の港”を目指してきた。 

 リングの上のヒロイックな“闘魂”の裏で、この書物には実に壮絶で哀しい、村松友視の言ところの“過激なセンチメンタリズム”が漂う。
 俺は、この「聖書」を読み返すたびに、自分の前にある困難を猪木に比べれば「どうってことねぇですよ!」と猪木ボキャボラリーで昇華、自らを癒すことが出来る。

 しかし、この本『1976年のアントニオ猪木』は我々、猪木教徒に新たに『新約聖書』として書かれたものだ。

 ここで、この本の魅力を語るに、再び見城徹の言葉を借りれば、
「表現というのは、非共同体であること。すなわち個体であることの一点にかかっていると思います。イエスの喩えの中に羊が出てきますが、僕は百万の羊の共同体の中で一匹の過剰な、異常な羊、その共同体から滑り落ちる、たった一匹の羊の内面を照らし出すのが表現だと思っています。そのために表現はある。ですから、共同体を維持していくためには、倫理や法律や政治やそういうもんが必要だろうけども、一匹の切ない共同体にそぐわない羊のために表現はあると思っているんです」と書いている。

 この「羊」を「猪」つまり猪木と変え、「表現」を「プロレス」に変換して読めば、この説明は実に腑に落ちるのだ。

 つまり、この本は脳内のフィクションである『羊をめぐる冒険』ではなくリアルな実体験を描いた『猪をめぐる冒険』である。(って何の例えだ?)

 この「新約聖書」では、ファンタジックな修辞をはずされた、猪木の行き詰った実像から発せられるセンチメンタリズムが、読後の深い余韻と共に、逆に実にヒロイックに思えるのだ。
 さらに、本書は、梶原一騎原作であり、絶筆にもなり俺たちが偏愛する、劇画『一騎人生劇場・男の星座』に流れる巷間知られる英雄譚の虚実の皮膜を剥がすルポタージュの醍醐味、真骨頂が横溢しているからこそ、たまらないのだ。

 なにしろ、俺達が“芸能界に潜入取材するルポライター”を自称し、このシリーズをライフワークと称する、文芸春秋刊の『お笑い男の星座』は、この梶原一騎の自伝劇画でもある『男の星座』をネタ元にオマージュを捧げている。

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 しかし、この本『1976年のアントニオ猪木』こそ、不朽の名作『男の星座』の正統的な後継本と断じて構わないだろう。
 さらに言えば井上義啓の『週刊ファイト』、ターザン山本の『週刊プロレス』 、村松友視の『私、プロレスの味方です』 を始発に旅立った“活字プロレス”という幻想の車窓に見える、巨大なる猪木という山脈、いや蜃気楼を追い続けた、俺達、昭和の“プロレス者”が乗り合わせた因果鉄道の終着駅とも言えるのだ。

 なにしろ、第2章の対ルスカ戦の背後に描かれる、オランダ格闘界の重鎮、ルスカ、ヘーシンク、ブルミン、ドールマンら、当時、柔道世界最強の男達が織り成す物語は“リアル柔道一直線”であり、“空手バカ一代外伝”とも読める。
 彼らの格闘家としての師弟の契りと共に愛憎と相克は、今まで猪木・ルスカ戦の裏話として聞いてきた美談(世界最強の柔道家・ルスカが重病な妻のために大金が必要だったために負け役を引き受けた。~その話は、否応無く、『男の星座』の冒頭に登場する、天下分け目の一戦、力道山vs木村戦の際、病気の妻に必要な高価な薬「ストレプトマイシン」を買うため八百長試合を引き受けた不世出の天才柔道家・木村政彦の姿を想起させるわけだが……)の先入観を吹き飛ばし、あまりに哀切に満ちた人間らしさに、声をあげ唸り、本を読む手がしばし震えたほどだ。

 そして人生は長い。最強は儚い──。

 本を読みながら、何度、この言葉を心に呟いたことか。

 また、第3章のモハメド・アリ戦も、今まで何度と手垢のついた、アリの偉大さを伝える文章を読んできたが、アリを紹介する、この著者の言葉の的確さ引用の絶妙なこと。
 そして、この試合の猪木への突き放した淡々たる筆致も特筆に価しよう。
猪木とアリが互いに高めあったリアル・ファイトの高揚の絶頂感の中で、ある意味では、射精中絶とも言える結末を放り出す。
 正直言って、猪木信者には、これは出来ない芸当であり、この本の肝でもあろう。
(また、全編に流れる猪木の“強さ”に対する多角的な検証は、誰もが認めた、その練習量からも猪木が一時は確実に「日本人最強」の実力者であったのも事実であるし、有名なフレーズだが「猪木ならホウキと戦っても観客を沸かせることが出来るだろう」と言わしめた「プロレスの天才」として描かれてはいるが、それでも、それ以上は肩入れすることなく、まるで歴史家が時を経て前世紀を描くような冷徹さで分析している。)

 『中央公論』で文学誌の編集者であった村松友視が、文藝の香り漂う共同幻想を駆使した批評という手法で、その虚像の輪郭を作り、俺達が同時代を共有し続けたアントニオ猪木という生ける伝説の幻想──。
 その幻想を、元々『ぱふ』という、ファンタジーの匂い漂うマンガ批評誌の編集者であった柳澤健は調査報道に徹し、地を這う取材を経てノンフィクションという手法で伝説の実像を検証してみせた。

 「プロレスは真剣勝負ではない」、この地点から書かれた本で、昨今、刊行が相次ぎ、ムック本を含め乱造された暴露本とは一線を画し、さらに言えば副作用の強すぎる“シュート活字”なる、業界を枯らし続ける類書の追随を許さぬ、正真正銘の猪木評伝の最高傑作だろう。

 読後、俺たち信者が、改めて描きなおされた猪木という稀代のカリスマの実像に落胆するであろうか?
 否。むしろ、アントニオ猪木という、日本に生まれブラジルに育ち、本書に描かれる1976年だけでも世界中を転戦し、地球規模で名を知らしめた現代のホラ男爵、異形なる“バケモノあご男”という実存する生身の人間の30年に渡る旅路の芳醇なるコクに改めて惚れ直し、そして読書の至福に酔わずにはいられないだろう。

 今すぐ本屋へ走れ!
 そして、タイムマシーンに乗って、あの俺たちの甘美なる30年前へ遡れ!

 1976年──。
 中学2年生、14歳だった。
 国立大学の進学校に受験して越境入学した俺は、勉強が出来ない、スポーツが出来ないという人生最初の挫折を味わい確実に落ちこぼれていった。

 当時、俺の人生を決定づける導師・ビートたけしの存在は、まだ影も形も無かった。
 同級生に、後にロックのカリスマとなる『ザ・クロマニヨンズ』の甲本ヒロト、そして麻原彰晃の主治医で殺人医師となる中川智正がいた。
 30年前、俺が漫才師として世に出ることも含め誰が、それぞれの将来を予想出来たことであるだろう?
 俺は学校では人生の初の挫折を味わいながら、まだ思春期の長い暗闇のトンネルに入る前、ボンクラなりに、テレビのブラウン管に、俺なりの偶像崇拝の対象(ヒーロー)を見つけては、熱烈に応援し、贔屓の引き倒しを楽しんでいた。
 今や、さも政治通かのようにテレビに出ている俺だが1976年、世間を賑わせた、田中角栄逮捕や、ロッキード事件などは、ほとんど“記憶にございません”。
 今も記憶に鮮烈なのは、阪神タイガースのエース、背番号28番・江夏豊であり、1975年の暮れに南海へのトレード話が決まった時は、毎日、欠かすことの無かったデイリースポーツの切り抜きを前にして涙を流し悲嘆にくれたものだ。
 そして、プロ野球がオフの金曜日、身が滾るほど待ち遠しかったのは、20時からの、小松フォークリフトが提供する『ワールドプロレスリング』中継、“燃える闘魂”アントニオ猪木率いる、新日本プロレスであった。
 俺がどれほど好きあったかは、当時、社会現象になるほどの人気を博した裏番組『金八先生』をリアルタイムで一度も見たことが無いことからもわかる。
 プロレス好きは年季が入っていた。俺は幼少時に父親がプロレスを愛好していたためと、アニメの『タイガーマスク』の影響もあって将来はプロレスラーに成りたいと思っていたほどだ。
 もともと、プロレスで最初に好きになった幼年期のヒーローは、1968年に初来日し、やがて日本に定着、国際プロレスの日本人エースとして君臨したビル・ロビンソンであった。(そのロビンソンが、今や俺の住む高円寺で『UWFスネークピット・ジャパン』のコーチをつとめ、ジムの生徒である俺と毎日のように顔を会わせ、俺の息子・武(たけし)が生まれた時からの知己なのだから、改めて人生は不思議だ。そして、ロビンソンは、この本では、猪木と戦った外国人レスラーとして重要な証言者として登場するが、全盛期の猪木を実力で凌駕し、一時は世界最強を極め、“人間風車”だけに地球を“何回転”もするほど転々と旅して、今や高円寺に流れ着いた、この偉大なるプロレスラーの数奇なる半生も『1976年のアントニオ猪木』のB面として読めば興味が尽きないはずなので『人間風車ビル・ロビンソン自伝―高円寺のレスリング・マスター』(エンター・ブレイン)を読んで欲しい!)

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そして、中学生になると、我を忘れるほど熱狂的に信奉したヒーローは “金曜日よりの使者”アントニオ猪木となった。
 しかも、猪木は当時32歳の全盛期。
 この本に描かれる4つの異種格闘技戦はいずれも忘れがたい。
 特に6月26日のアリ戦は、普段は一握りのプロレスファンの密かな楽しみであるはずなのにクラス中が注目していた。
 試合は土曜日に開催され半ドンで授業が終わると必死で家に帰って見た。
 そして、その世紀の茶番劇と称される盛り上がりに欠けた展開に頭を抱え、月曜日にはクラスの中でプロレスファンは嘲笑の対象になった。

 76年の猪木を知っている昭和のプロレスファンにとってアリ戦で傷ついた、<対世間>へのルサンチマンは根深い。どこかで我々、プロレスファンは自分自身を正当化されたがっていた。
 そのためにも、活字や理論に飢えていた。
 まだ『ゴング』も『プロレス』も月刊誌であった時代、週刊ペースの情報を得る為に、倉敷から岡山へと通学へ通う電車の中でエロ広告に目を顰めながら『週刊ファイト』を熟読し、その後、30年の付き合いとなる愛読紙となった。
 当時、新日本プロレスで繰り広げられた「猪木vsシン」の過激すぎるドラマの舞台裏を併走し、一方的に猪木に肩入れしていたのが『週刊ファイト』の紙面であり、その名物編集長が井上義啓、通称I編集長であった。

 『週刊ファイト』が大阪と言う辺境で、編集長が一人で全てのページを執筆するという手法で作られた紙面は“井上文学”の同人誌とも言うべき様相を帯び、そこに綴られた独自の美文である“井上文体”を確立していた。
 中・高時代、俺は本気で、この新聞の“ボンクラ記者”を夢見て、ファイトの編集部にI編集長の文体を自分なりに模写した投稿を送っていたほどだ。

 俺がプロレスラーになりたいという子供じみた夢を諦め、後の芸人志願が芽生える以前、俺の自己実現願望の一つはルポライターであり、また編集者であったのは竹中労と共に、確実に井上編集長の影響もある。

 やがて、このプロレスを暗喩とした“井上文学”は、村松友視、ターザン山本へ受け継がれ“活字プロレス” と言う独自のジャンルを生む萌芽となる。
 そして、もう一つ『週刊ファイト』は、また別方向に人材を生み、そして今に至る因縁を俺に与えている。
 当時、同志社大学のプロレス研究会で、ミニコミ誌である『レスリング・ダイジェスト』の編集長をしていたのが田中正志氏(現・タダシ☆タナカ)である。
 大学生が作るミニコミ誌でありながら、当時、猪木のマネージャーであり“過激な仕掛け人”として知られた新間寿に単独インタビューを敢行する、その大胆不敵なスタイルに目を見張った。
 そして田中氏が通訳として井上編集長の下、編集作業を手伝った『週刊ファイト』の増刊『タイガー・ジェット・シン』特集号は、当時のプロレス報道では出色の出来であった。
 なにしろ札付きのヒールとして取材不可能のキャラクターを固めた、シンのインタビューを取り付け、その出自を語らせプライベートに潜入、そしてインドではなくカナダにある豪邸にまで取材するというスクープの連続であった。
 いつしか、俺は田中氏に手紙を書き文通が始まり、やがて俺が住む岡山県の倉敷へ来訪し、田舎の高校生の俺と“喫茶店トーク”よろしくプロレス話を長々と語り合ったこともあった。
 やがて田中正志氏は、大学を卒業すると証券マンとしてアメリカに渡っていった。
 在米10年を経て日本に帰国後は田中氏は“活字プロレス”に対抗して、より過激な“シュート活字”なるスタイルを標榜してペンネーム、タダシ☆タナカとしてプロレス・格闘技ライター業を始めた。
 ミスター高橋本より、いち早く「プロレスはショーである」の前提で書かれた“シュート活字”は刺激的ではあったが副作用も強かった。
 特に村社会の典型であるプロレス業界的には明らかに早すぎた。

 今、公平に見ても、氏の一連の著作、特に2作目の1997年に出版された『開戦!プロレス・シュート宣言―最強エンタテインメント格闘技』(読売新聞社)は、プロレスの枠組みで見る日米の比較文化論として読め、知的好奇心溢れる名著であると思う。

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 しかし、押しの強いアメリカナイズされた本人のキャラクターもあるのだろう。情報収集、情報開示の方法論も今までの慣習に無いやり方を通し、多くの関係者に反発を喰らい、その後の数々の著作も、本人が望むような評価を受けることは無かった。
 それ故に、プロレスマスコミ業界の中で孤立し“シュート活字”はジャーナリストを装う、まるでトップ屋まがいの暴走が続いた。
 俺にすら身に降りかかる火の粉もあったが、それでも、俺は田中氏に自主的にいくつかの仕事現場を紹介し、また関係者との接点を作りトラブルメーカーとして彼が巻き起こした騒動のケツを拭くことになった。
 それも、俺自身は10代のどん詰まりの青臭い俺と、文通し、我が家まで訪ねてきてくれた恩義を感じていたからだ。

 そして、昨年、そのタダシ☆タナカが引鉄を引いた“活字の銃弾”が『週刊現代』に掲載されPRIDEスキャンダルが巻き起こった。
 その結果、フジテレビがPRIDE中継を突如、休止した。
 俺たちが司会をつとめる『SRS』が長い時間をかけて育ててきた大事なソフトであり、この理不尽な決定は俺の大切な仕事仲間を深く落胆させた。
何よりも俺が仕事を越えて、その観戦が人生の生きがいの一つであったPRIDEが、俺の目の前から去っていくという天変地異を経験し、心底、怒りに震え、裏切られた想いがした。

この一件で、10代の頃からの30年の友情は全て消えた。
それは、『1976年のアントニオ猪木』の第2章で語られるような、ルスカとブルミン、ドールマンの絆の亀裂のように決定的なものであった。

 中学時代に読み始め、30年間も読み継いだ『週刊ファイト』も昨年9月に休刊された。
 後を追うかのように元・編集長であった井上義啓氏も、昨年12月13日に亡くなられた──。
 最後まで、井上義啓氏はアントニオ猪木への偏愛を語り続け「昔の新日本にはガチが混ざっているんだよ。猪木が試合でスリーカウント入れられた時に、入っちゃたって驚いた顔してるのあるやろ、あれガチや!」などと真顔で言い放っていた。
 猪木に魅入られ人生を狂わされ、そして、多くの人生を狂わせた凄腕の書き手であった。
 俺がいかに、この井上義啓氏の文章に薫陶を受けたかは今年3月に出版された『活字プロレスの哲人・井上義啓追悼本・殺し!』(エンターブレイン)に文章を綴った。

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 1977年、その『週刊ファイト』に中途採用されると井上義啓編集長の門下、編集の極意を学んだのはターザン山本であった。
 80年、ターザンはベースボールマガジン社に移籍。83年『週刊プロレス』が創刊されるとターザン山本の才能が開花する。
 80年代を駆け抜け、90年代、かの『週刊プロレス』の黄金時代、ターザン山本編集長は「俺が猪木だ!」という狂執に駆られ「猪木なら何をやってもいいんだぁ!」と自己暗示に浸りきり雑誌を完全に私物化し、驚異的な売り上げ部数と共に自ら狂い咲いた。

 この「俺が猪木だ!」という狂信的な思い入れ自己同一化こそ、井上義啓編集長が『週刊ファイト』の“花のボンクラ記者”であった、若き日のターザンに刷り込んだ遺伝子であった。

 もちろん、読者である俺も狂った。
 『週刊プロレス』を一時でも早く手にしたいと切望し、毎週木曜発売の前日に入手し、一文字残らず読み漁った。
 そのターザン山本が編集長の座を辞し、葛飾の立石で浪人暮らしを始めると俺たちと急接近し、共に本を作り、共にお笑いの舞台に立ち、共にラジオやテレビのレギュラーをつとめるようになる。
 時にはターザンを舞台で全裸にせしめ、時にはFMWのリングの上に、レスラーとして送り込んだ。
 30年前には思いもよらぬことであった。
 特に1999年4月12日、猪木vsシンの抗争を再現させるためターザンが俺たちを新宿伊勢丹前で襲った路上襲撃事件は我々の体内に流れる“アントニオ猪木”を体現するために決行した蛮行だが忘れることが出来ない。

 いったい、俺たちは何のためにこんなことをやっているのか?
それは、猪木ごっこという、“禁じられた遊び”だったのかもしれない。

 これらのくだりは『お笑い男の星座~芸能私闘編』に詳しい。

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 さて、ファイトが専門誌であるなら、一般層にまでアントニオ猪木の存在に言葉の意味を与え、プロレスにサブカルの要素を吹き込むのは、1980年に出版された、村松友視の『私、プロレスの味方です』(情報センター出版局)である。

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     (ちくま文庫版 合本 私プロレスの味方です)

 80年はタイガーマスクの登場と共に古舘伊知郎実況の煽りで視聴率も急上昇を記録し力道山以来の第2次プロレスブームに火が付いた。
 そんな時代背景で生まれたのが、この本であり、副題が「金曜午後八時の論理」なのだから、当然、書かれているのは猪木論であり新日本プロレス論である。
 まだ、当時、中央公論の編集者であり、後に直木賞作家となる村松友視のデビュー作でもあった。
 この一冊が“プロレス八百長論”なる世間の冷ややかな見方を吹き飛ばした。
 “プロレスは不真面目にも真面目にも観るものじゃなくクソ真面目に観るもの”であり、“プロレス者(もの)”にとって、プロレスとは“勝ち負けではなく強さを競い合う”“他に比類なきジャンル”であり“過激すぎる”猪木の下に、“凄玉”のレスラーが揃ったのが新日本プロレスであった。

 後にプロレスを語る専門用語(ターム)となる言葉が羅列された、この本は猪木がスーパースターでありながら常に意識し続けた対世間用の「理論武装」を我々、昭和のプロレスファンも、この本で装備したのである。

 その村松友視氏と俺が初遭遇するのは高校3年生の時だ。
 新日本プロレス サマー・ファイトシリーズ最終戦の後、俺の地元、倉敷で追撃戦が急遽、組まれた。
 本が出版された、数ヵ月後の1980年7月25日のことである。
 会場の倉敷市営体育館は、駅から遠く離れ瀬戸内海よりの水島地区にあり、地方でも、より辺鄙な場所にあった。
 もはや新日本プロレスというより新日本紀行といった風情である。
 その日のメインが猪木&長州組 vs バッド・ニュース・アレン&シン組。
 何故、こんな水島くんだりまで村松友視はやってきたのか? 
 今もってわからぬが、まだ、顔も知られていない頃だろうが、会場に、そのダンディーな中年男性の姿を見つけると俺は声をかけて仲間と一緒に写真を撮ってもらった。
 突如、少年ファンに囲まれ、ご本人も「よく、わかったねぇ」と照れながらの一枚であった。
 写真を見るたびに、よくぞ当時の段階で、その顔を見て村松友視と認識できたものだと我ながら感心するのである。

 そして、30年の歳月が流れた。
 思春期に俺に影響を与えてくれた人には、仕事柄、もはや、ほとんどの人と対面を果たしてきたと思う。
 しかし、村松友視氏とはリングスの会場などで、すれ違ったり、会釈をしたことはあるが、いまだ会わないままだ。

 一昨年、俺はロッキンオン社から、書評本『本業~タレント本50冊、怒涛の褒め殺し』を出版した。

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 この本は、“日本初のタレントに寄るタレント本評論”として、旬が短く、儚く読み捨てられ運命であるタレント本を“タレント本は不真面目にも真面目にも読むものではなくクソ真面目に読むもの”というテーマで書かれている。

 “褒め殺し”と謳ったが収録した本の全てを連載時から、再び精読しなおし、言わば“褒め生かし”の言葉を選んだ書評本であった。
 この書評本の『本業』に対して『男の隠れ家』2006年2月号で「2005年最も印象に残った本」として書評に選んでくれたのが村松友視氏であった。
 短いスペースだが「そこで取りあげる矢沢永吉から杉田かおるを経て佐野眞一を通過し、野中広務にいたって杉本彩に舞い戻り、そしてビートたけし世界さえめぐる、すべての〈タレント本〉に対するアングル、スタンス、距離感に感服」との一文を頂いた。
 この書評は嬉しかった。

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         (文春文庫版・解説は村松友視)

 それは俺が本を書くことで、まるで30年も前の過去の暗闇に投げたキャッチボールの返球が帰ってきたかのような時を越えた感慨を覚えた。
 そう言えば、村松友視は1982年に『ファイター・評伝・アントニオ猪木』という一冊を著している。
 この本のなかで、「イノキ前夜」と題されたプロローグでは、猪木以前に存在し、村松友視をして“過激すぎる存在”として意識させた、その「竹中労体験」が語られている。
テレビの討論番組で、世間を震撼させた、浅間山荘事件を「思想が過激ではないから駄目だ」と批判してみせた、ルポライター・竹中労を描写している。そして、以下に続く、
「それにしても竹中労体験というのは不思議だった。“過激すぎる”という言語矛盾のような処理をされていた世界に対し、“あれは過激ではない、保守的だ”という一見逆説めいた言い方をして口火をつないだ。これはたぶん、追いつめられ密閉された世界に針の穴のどの通気孔を見つけ、そこから命がけで脱出しようという鬼気せまるセンスかもしれない。そのセンスを講談めかしたプランで、竹中労・平岡正明という名文家が協奏するのだから、面白ければ面白いほど凄味漂ったというあんばいだった。しかし、その凄味さえ、穏健な時代のいきおいは水面から押し隠れてしまうほどだったのである。だが、読本的なポーズをとりながらも実は劇的な思想であった「窮民革命」は、当然のこととして私に後遺症をのこした。時代が穏健へと着実な道を進むほどに、躰のなかの“一騎当千”の存在への希求はふくれあがる一方だった。しかし、そんな存在がこの世にいるはずもなく、後遺症をかかえた私の気分はズボンのオナラ、右と左へ泣き別れるのみだった」と書き繋ぎ、アントニオ猪木こそ、穏健な時代の、本物の“過激すぎる一騎当千の盗賊”と見立てようと決意するのだ。

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 この村松友視の思考の流れが俺の躰を通り過ぎている。
 なぜなら、竹中労は10代の俺をしてルポライターの道を夢見させ、そして芸人になってからも、まるで原点回帰のように俺に本業の芸人稼業の傍らで業のような“本業”、つまり文章を書かせるモチベーションを与えた張本人なのである。
 この当時、村松友視は、プロレスを“格闘技の鬼っ子” と呼び、「プロレスを蔑視する世間と対決する……このことの意味は明らかだ。プロレスを蔑視する世間に対し、ではおまえは、何を神聖視し、重視しているのかという問いを逆照射することにこそ、これだけ蔑視、軽視されつづけたジャンルの真骨頂がある」
 と書いているが、もはや、本当の格闘技興行が生まれた現代には、この言葉は通用しない。
 さらに、この本のあとがきで、村松友視は、この2年間でプロレスに関す書き下ろしで裕に1500枚も書き、言いたいことは言い尽くしたから「プロレスに関する文章の一切を休止する」と宣言するのだ。

 あれから25年、村松友視は、今、この『1976年のアントニオ猪木』を、どう読んだことだろう。

 そして、アントニオ猪木は1998年4月4日に引退──。
 その後も、PRIDE・プロデューサー業に請われ日本マット界の象徴として存在感を示した。
 しかし、プロレスの格闘技化を推進すると同時に、その裏腹に自らの創設した新日本プロレスを壊し続けた。
 それも、俺には猪木特有の自傷行為に見えるし“暗闇に卍固め”を彷彿させる。

 23歳で俺が芸人になってから、何度かアントニオ猪木とは番組を共にした。
 インタビューアーとして話も聞いたこともあった。
 そればかりか、プライベートでもPRIDEの怪人・百瀬博教氏を密着取材していた俺は、何度か、ホテルでアントニオ猪木と食事の機会があり、また赤坂のバーで、一緒にカラオケを歌ったこともあった。
 また、俺の猪木信者としての最大のハイライト、いや、サプライズの桧舞台を経験したのは2002年8月28日、国立競技場「K-1 Dynamite!!」だ。
 今も記録が破られていない、格闘技史上未曾有の9万人の観客が集めた大イベント。
 そして、この日の目玉のアトラクションが、地上3千メートル上空からスカイダイビングで、猪木が降ってくるという趣向であった。
 前半終了後、ざわつく会場に、パタパタパタとヘリコプターの回転音が響き渡り、照明が落ちると、炎のファイターの旋律が流れ、猪木BOM-BA-YEの大合唱が湧上る。
 猪木降臨──。
 放送席の古館伊知郎は、かつて猪木と二人三脚で昭和のリングの熱狂を世に伝えた現代の闘いの語り部であり、渾身の実況。そのなかをパラシュートが大きく旋回して、急激に下降、そして見事にランディングした。パラシュートを素早くはずし小走りでリングインする猪木。そしてマイクを手に取り、第一声、「馬鹿野郎ォ!!」地上3千メートルから降りてきていきなり「馬鹿野郎ォ!」とは?
 そして「俺は今、怒っている……」!とマイクパフォーマンスを始め、最後は、我らがお題目、「1、2、3、ダッー!!」で締めた。
 リングの挨拶が済むと、いつものように猪木がリングサイドへ。その間、リングと椅子の狭い通路で、俺とすれ違う。一瞬、猪木と目が合う。
 その時──。なんの予告もなく、バチ――ンンンンン!!
 なんと、猪木が俺の頬に、突如、落雷のような闘魂注入ビンタを放った。
 俺は「ウギョオオオゥウアアウウー」と悲鳴を上げて崩れ落ちた。

 猪木教徒としては全国各地で繰り広げられた数々の猪木ビンタのなかでも、とりわけ霊験あらたかな教祖のシャクティパットではある。他に類の無い闘魂遺伝子が注入された瞬間に違いない。
 それでも、何故、あそこで、あのタイミングで観客、9万分の一の確率で俺に容赦のないビンタしたのだろうか?今もって謎なのである。
このときの模様も『お笑い男の星座2・私情最強編』に詳しく書いた。

 猪木と面と向かい話している自分──。
 既に、大物馴れしているしルポライター精神でいつもなら、づけづけと質問攻めにする俺なのだが、さすがにアントニオ猪木を目の前にすると、人酔いして夢見心地でロクに自分から話も出来なかった。
 それは、まるで格闘技ファンの小説家志望の一青年であった『男の星座』の主人公・梶一太(梶原一騎)が、大山倍達や、力道山との邂逅を得ていくような劇画的なストーリーでもあった。

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 『1976年のアントニオ猪木』を読んで、寄せては返す波のように、さまざまなことを思い返した。
 時間の流れに遡行し、過去に想いを沈めた。
 今回、猪木を仰ぎ見た「1976年」、14歳の時から、こうして無秩序に無作為に猪木にまつわる思い出の渦を整理しないまま書き出してみた。
 時間さえあれば、ディテイルを細かく無限に書き続けられる、この猪木話だが、タイムアップ締め切りがやってきた。

 著者、柳澤健氏は『WiLL』誌のインタビューで次回作について、

「木村政彦について書いてみたいとは思っています。だけど、一冊書いてみて思ったのは、テーマと興味深い構造さえあれば、ネタは何でもいいということ。この本も『1976年のアントニオ猪木』というタイトルを思いついた時点で、できたようなものなんです。まぁ時間はかかりましたけどね。構想六年執筆四年。経費も一千万円以上かかって退職金も底をつきました(笑)。ノンフィクションを書くのは大変です(笑)」

 と語っている。

 ならば、無いものねだりかもしれないが、願わくば猪木山脈の連峰に連なる前田日明という一大山脈をも是非、踏破して頂きたい。
 村松友視の言説で理論武装したアントニオ猪木をリングの上だけでなく、思想的にも徹底批判したのが前田日明だったのだ。
 そして、プロレスの格闘技化への流れに決定的にシフトチェンジ役を果たすのは前田日明であろう。

 そして、中途半端に、この『本・邪魔か』の連載は終わる。
 しかも『未完』のままに終わる。それは、まるで『男の星座』のように。
 さらに『未完』なのは、これが『本』の一冊ではないからだ。

 俺は運命論者ではない。
 ただ、俺が、この連載で書いてきた人々や取上げてきた本の「引力」に引き寄せられるのも、たまたまの偶然ではないと信じている。
『お笑い男の星座』にも書いた概念なのだが「星座」という言葉には「コンステレーション」と言う心理学的な用語と見方がある。

 臨床心理学者のユングによれば「コンステレーション(星座を作る)」とは──。
「満天の星から特徴のある星をいくつか選び、糸でつないで星座を作りストーリーを組み立て自分をそこに投影して役割を演じようするもの」と説明される。転じて「一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、全体的な意味を含んだものに見えてくる」ことを言う。
 それゆえに「偶然の一致」という形で同時に起こった二つの出来事も人生という星座のなかに「意味のある」こととして、きちんと位置づけられるのだ。

 再び、この連載をまとめて『本』にする時も来るだろう。
 ここに書いてきた人や思い出や意志が必然のように連結して言葉と言葉、人と人、星と星の線を結び星座を象り、無から有へと一つの『物語』として立ち上がるはずだ。そして「意味のある」ものとして誰かに伝えたくて『本』となる。

 あらためて本は邪魔じゃない──。

 『1976年のアントニオ猪木』はそれを、俺に語っている。 

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      (文春文庫版・アントニオ猪木のインタビューあり) 

 

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