20240116 カムパネルラとジョバンニとわたしたち

文学部で日本文学を学ぼうとしたきっかけは、銀河鉄道の夜だった。
正確には宮沢賢治オリジナルのものではなくて、当時大好きだったラーメンズというお笑い芸人の、銀河鉄道の夜のような夜というコントがきっかけだった。

当時はじめてこのコントを見たとき、私が知っている、いわゆる一般的なお笑い芸人のコントとは大きく異なって、面白さの中に静謐さと物語が織り込まれていたことにひどく感動した。

ラーメンズの話をすると、それだけで記事を書けてしまうので今回は割愛する。本題はこのコントの、「ずっと一緒に行こうな」という台詞に私が今もなお囚われていることだった。このコントは銀河鉄道の夜を基に作られているものなので、当然原作にも似たようなセリフがあり、下記の通り引用する。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」

「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

「僕たちしっかりやろうねえ。」

(九、ジョバンニの切符より)

この後、ジョバンニは一人銀河鉄道に取り残される。カムパネルラは忽然と姿を消して、ジョバンニはひどく慟哭した。銀河鉄道を降りた翌朝、カムパネルラは川におぼれて死んでしまったことを知らされる、なんとも切ないエンディングを迎えることになる。

ラーメンズのほうも同じだ。二人で乗っていたはずの銀河鉄道にはいつの間にか一人きりで、二人の会話はうまくかみ合っていただけで、常盤が独り言をつぶやいていただけ。それを「しりとり」で演出し、日本語の美しさ・素晴らしさを感じる。

話の全容を捉えたとき、言いようのない無力感を抱いた。そんなことあっていいのか、と。永遠を誓い合ったのに、願い事は叶うことがない。取り残されたジョバンニになりたくない。裏切りじゃないか?悲しい、友達、私より先に死なないで。となる。(そうか)

私は多分、友達という関係性にのっぴきならないほどの重要性を感じている。自分が書いた話にも、「ずっと一緒」というキーワードが常に重く鳴り響いている。ずっと一緒がどれだけ難しいことか、私は銀河鉄道の夜で知ったし、ジョバンニの絶望を味わいたくないと心から思う。0か100しかない価値観で生きているから、「じゃあともだちなんて作らなければいい」と考えて、心を閉ざして生きていた。

誓えるのか?「ずっと一緒」を。私より先に居なくならないか?私が居なくなっても覚えているか?芸能人の死を翌年には忘れてしまうような人間が、ずっとという永久の期間を誓えるのか?ということを常に考えている。重たいのだ、本質的に。あと人との距離の測り方がずっと曖昧だし。

これは大好きな曲です

慕いすぎてもダメ、離れすぎてもダメ。
根本的に人の気持ちに鈍感で、どこまでは言ってもよくてどこからはダメなのかが分からない。自他境(自他境界線の略称)が分かれすぎていて、自分が喜ぶことを相手が喜ぶかは分からないって思ってるから、人別のマニュアルがないと動けない。なので、「ずっと一緒」を誓える距離感のひとは、私の中では存在しないまま、理想を自分の創作に押し付けていた。気軽にご飯を誘えないままに生きている。

それが最近少し変わった。
私よりもともだち、ひいては「愛」を大事にしている子と出会って、ともだちって一方通行でいいのかも、なんて思うようになった。

カムパネルラに、金村に永遠を誓った、取り残された彼らはきっと、約束を破られてひどいなんて思っていないんだろうなと思った。施したら施し返してもらわなければ成立しないものばかりじゃないのだと、最近強く思う。

私が勝手に「ずっと一緒」を誓って、勝手に私がともだちと向き合い続ければいい。そうすればともだちもきっと、私と一緒に居ざるを得ないわけだし。双方向でなければ成立しないわけでもない、ともだちというものは。きっと。


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