【自覚のヒント】 【目次】 〇自覚について ・悟りと自覚 ・悟り階層と自覚 ・無我の誤解について 〇小悟に向けての自覚(最初の自覚) ・私に意識を向ける ・観る自覚 ・行為の自覚と自我の主体性 ・考えの自覚 ・小悟に向けた自覚のポイント 〇大悟に向けての自覚 ・私を捉え直す ・大悟に向けた自覚のポイント 〇解脱に向けての自覚 ・再度私を捉え直す ・解脱に向けた自覚のポイント 〇滅尽定について ・滅尽定と悟りに関する考察 ・滅尽定に至る方法 【自覚について】 ◇悟りと自覚
◇無常の誤りについて◇ 今朝のツイート記事(これは本体のgooブログに書いている記事のことです)に書いたものを単独の記事として書いてみようと思います。 無常、無我について(特に無常について)、これまで何となく違和感を感じたままほったらかしにしていたのですが、その違和感の内容がハッキリしたので記事にしておきます。 まず最初に、無常、無我の意味の確認から。 無常とは、一切のことがらは常に変化するものであるという意味です。 無我とは、一切のことがらに実体が無い、あるいは絶対が
◇命より大切なもの◇ よく、命より大切なものなど無いと言われます。 しかし、それは間違いです。 命より大切なものはあります。 それが本心です。 ◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。 ◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内は、こちらです。 ◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。 コメント大歓迎です。気軽にお書きください。 読んで頂いてありがとうございました。
◇問答の限界と悟り◇ 今回は、悟りと問答について書いてみます。 禅系の一部で、悟り修行に公案や問答が使われるようです。 悟りに問を使うことのメカニズムは、それはそれで非常にシンプルでハッキリしているのです。 結果はおそよ二種類あるようです。 どちらもポイントは問への集中です。 一つ目は、問への集中により、意識の囚われにより構成された外層部分が崩壊し、急激な自我感覚の希薄化が起こるのです。 このとき、自我が喪失した等の錯覚が生じやすいです。 二つ目は、問へのさらなる集
◇なぜ自由意志を否定できないのか◇ 今回は、自由意志についてちょっと違った切り口で書いてみたいと思います。 自由意志が無いと仰る方は、本当にそれで納得できているのでしょうか。 納得できるはずはないのですが。 なぜなら、その考えは間違っているからです。 自我が無いというのも同じで、間違っています。 正しくは、自我も自由意志も実体が無いのであって、有る無しについてはどちらとも言えないのです。 これは私が繰り返し書いていることですが、今回の趣旨ではありません。 以下が本題です
◇正誤の追求の果て◇ 今回は、正誤、正しいことと間違ったことについて書いてみたいと思います。 正誤は、善悪等の二元の概念と混同されがちですが、それらのとは本質的に異なるものです。 善悪等の二元の概念は囚われであり、本来そのような区別はありません。 これに対し、正誤はそれなりにしっかりとあるのです。 「それなりにしっかりと」などという中途半端な言い方をするのは、本当は厳然としてあると言いたいところだけど、敢えて避けたというところです。 面倒なので、最初から結論を書くような
◇自我の手放しという誤り◇ 今回は、自我の手放しについて書いてみます。 自我の手放しは悟り界隈でよく言わることですが、間違いです。 そもそも、自我を手放すことなんて不可能であり、あり得ないのです。 究極的には、この世界そのものがあなという自我なのですから。 自我、私、個の意識など、なんと言っても同じです。 すべて私であり、手放す対象となり得るものではありません。 自分は自我を手放したと言っている人が時々おられますが、それは本人の誤解であり、認識不足です。 世界があり、
◇虚無を超えて生きる◇ 今日は、久しぶりに虚無について、思うことを書いてみたいと思います。 まずは私自身のことから。 私は小学校に入る頃には、社会常識や道徳等も人が決めたことであり、本来はどうでもいいことだということがそれなりにわかっていて、すべてに意味が無いこともなんとなくわかっていました。 そして、生きることの面倒くささ、特に社会と関わっていくことの煩わしさを強く感じていました。 余談ですが、おそらく前世で小悟か大悟を既にやっていたのだろうと思います。
◇二元的志向の矛盾と本心◇ 一切のことがらには、プラス面とマイナス面が必ずあります。 これは決して避けられないのです。 例えば、平等について。 実際に自分で考えてみて頂きたいのですが、平等なんてものは幻想であり、皆平等なんてことはあり得ないし、不可能なのです。 平等にしようとすると、必ずその裏側で不平等が増大します。 平和もそうです。 平和になるようにしようとすると、必ずその裏側で過度な抑圧が増大し、結果として平和から遠ざかってしまいます。 権利や自由も
◇空を批判する◇ 仏教で使われる概念に、空というものがあります。 今日は、その空を批判します。 空は、日常的な概念について説明するためにわざわざ導入された概念ですが、この空という概念を持ち込むというやり方そのものが既に筋が悪いのです。 そもそものところ、一切のことがらは説明をすることが不可能なのです。 よりわかりやすく言うと、一切のことがらは説明を尽くすことができないのです。 ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。 むしろ
これは9年前にgooブログに書いた記事ですが、今でもよく読んで頂いているので、こちらにもアップすることにしました。 ◇リンゴを使った考察◇ 第一の考察として、まず徹底的にやっていただきたいことがあります。 それは、目の前にあるリンゴ(PCでも景色でもなんでもいいです)について、それが本当に実体としてそこにあるのかどうかという点です。 リンゴは本当にそこに有るのでしょうか。 絶対にあると言えるのでしょうか。 有ると感じるのは自分がそう思い込んでいあるだけなのではないか。
◇なぜ悪行はいけないのか◇ 今回は、なぜ悪行はいけないのかについて、私の考えを書いてみます。 善悪も囚われですから、本来、行いついても善い、悪いはありません。 これは間違いありません。 ではなぜ、悪行はいけないのか。 私は、人として生まれてくる存在は、性分として善的志向を持っていると考えています。 人々の行いを善悪の観点から観れば、実際に表出する行いは種々あります。 しかし、実のところは、誰しも出来れば悪いことではなく、善いことをしたいという想いを持っていると考えてい
◇肯定と否定◇ 今回は、肯定と否定について書いてみます。 ものごとに対するアプローチとして、肯定的アプローチと否定的なアプローチがあります。 両者を比べると、イメージ的にも肯定の方がいいですし、受け入れやすいです。 否定はどうしても、辛く、受け入れ難い。 そのため、否定はどうしても受けが悪いです。 また、両者の特性として、肯定は女性的あるいは母性的であり、否定は男性的あるいは父性的であると言うこともできます。 昨今は社会的にも男性性不在あるいは父性不在の時代となっていて
◇悟りと覚悟◇ 悟りよりもまず先に、生きること、人生への取り組みがあります。 悟りは、生きるという営みの中の一要素に過ぎません。 ですから、悟り云々の前に、如何に生きるか、生きる姿勢が重要です。 私はこの点について、自身の本心に向き合って生きることが大切だと繰り返し書いてきました。 しかし、それは実際にはなかなか難しいようです。 どうして難しいのか。 何が難しくしているのか。 もっと言えば、何が足りないのか。 私は、次の二つに集約されるのではないかと考えています。 一
◇真我に気づく◇ まず、真我とは何かについて。 私は、真我とは観照意識であると捉えています。 観照意識とは、六根(五感と意)を通して起こってくるこの世界をただ認識している(ただ観ている、ただ感じている)意識のことです。 観照意識は、悟りの行程がある程度進み、囚われが減り、それに伴って思考が減ってくると、自然に意識の表層部に現れてきます。 真我に覚醒するとは、その観照意識に気づくということです。 では次に、その真我に気づくための方法についてまとめてみたいと思います。 多く
◇滅尽定と入滅とその関連(2)◇ 前回記事の続きです。 私とは、パッ、パッ、パッと断続的かつ連鎖的に連なる識の連鎖として捉えることができます。 この識の連鎖という観点から見たとき、それは否応なく自動的に展開していきますから、そこには自由意志を含めて自我の存在も無いかのように感じられます。 しかし、だからと言って自我は無いと考えてしまうのは、私は間違いであり、大切な要素を見落としてしまうことになると考えています(かと言って、自我があると言うのもまた間違いなのですが)。 識