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死とは何なのか

つい最近、学校の授業で志賀直哉の『城の崎にて』という小説を学んだ。死について色々話していて面白かったのでちょっと私も死についてもう一度考えてみようと思う。

まず、あらすじをめちゃくちゃ簡潔に言うと、主人公が電車にはねられて怪我を負い、死に近づいたことで死に対する考え方、捉え方が変わっていった話。これ志賀直哉自身の実体験なんだそう。

内容

◎山の手線の電車にはねとばされて生死をさまよう怪我を負い、療養をしていた。
この時、主人公は死に対して恐怖を抱かなかったと言う。一歩間違えれば死んでいたというのに。
今まで死とは遠い先のことで自分には関係のないものと決めつけていたけれど、今はそれがいつなのか知れないような気がした。
自分の心には何かしら死に対する親しみが起きていた。

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◎家の前に一匹、蜂が死んでいるのを見た。その死体と仲間であったろう蜂達は忙しく働いていて気にも留めない。3日してその死体は雨によって流され跡形もなくなっていた。そのを目の当たりにして、死に対してより一層親しみを感じた。その静かさに親しみを感じた。

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◎川沿いを散歩しているとき、子供数人と車夫に石を投げられ笑われているネズミを見かける。そのネズミには串が刺さっていて、もう死はそう遠くなかった。しかしネズミは懸命に逃げている。必死に生きながらえようとしている。その様子に主人公は嫌気がさした。淋しく嫌な気持ちになった。自分が望む死の前にネズミのような苦しみがあるのは恐ろしい。死に到達するまでの動騒は恐ろしい、そう思った。

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◎ある日の散歩中、川の石の上にヤモリを見つけた。イモリを驚かそうと石を投げたら直接当たってしまい、死んでしまった。わざと殺るよりも嫌な気をさした。イモリにとっては何の前触れもない突然の死だった。可哀想にと思うと同時に生き物の淋しさを感じた。自分は偶然死ななかったけどイモリは偶然に死んだ。

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◎山の手線の事故で自分は死ななかった。それに対して何か感謝をしなければならないと思うが喜びの感情は湧いてこない。生きていることと死んでしまっていること、それは両極ではない。それほどに差はないのではないか。

(おしまい)

死の捉え方

私は志賀直哉のように生死を彷徨うような体験はしてないけど、死について他の人と比べたらよく考えていると思う。初めて死に対しての考え方が変わったのは中学1年生終わり頃。その時私は、これといった特別な原因はなかったけど人生で初めて死にたいと思った。本気で死のうか悩んでいた。自分がこの世界で生きている意味を見いだせなかった。その時に死ぬって案外身近なものなんだなってなんとなく思った。結局、自殺未遂をしてなければ自傷行為すらしていない。ただ死にたいと思っただけだけど。

そこから色々と彷徨って今、私の中では
"死は生きることの延長線上であり、何ら特別なことではない。死ぬこともまた生きることであり、人間の尊さなんだ"
という考え方に落ち着いたかな。

よく生死という言葉が使われるように生と死は対義語として扱われている。けど、"生きること""死ぬこと"は決して反対ではない。生きることの反対は生きていない、つまり存在していないこと。死ぬの反対は生まれること。"死ぬ"という行為は生きているからこそできることで、生きることの最終形態なのかなって。

『城の崎にて』の主人公もラスト、同じようなことを思ったんでしょう。生き物はいつ死ぬか分からない。きっと私たちは必然で生きているのではなく、偶然で生きているのにすぎないんだと思う。だからこそヤモリのように偶然死ぬこともあれば主人公のように偶然生きることもある。私たちは毎日死ぬ生きるの天秤を持っていて、今のところ生きるの方に傾き続けているのではないか。それが何かの拍子に死ぬに傾いてこの世を去るなんてこと珍しくない。
それが主人公の言う、生き物の淋しさなのかな

まあとは言っても私は16年間生きているわけで、その16年間毎日偶然で生きているんだよと言われてもな〜そうだよね!とはなれないかも

生きるために死を見る

もう一つ私が言いたいのは、
生きるために死について考えようということ。

哲学的な話では別になくて、ここでの死について考えるというのはどのように死にたいのかについて考えること。
例えば、大勢に囲まれて死んで、壮大に葬式をやってほしい。とか多くの人に悲しんでもらいたい。とか少人数でいいから家族に囲まれて死にたいなど。

どのように死にたいのか。それを考えることで将来を見据えることができるのではないかと私は思ってる。
さっきあげた例でいくと、
大勢の人に囲まれて壮大に葬式をやってもらうには超有名人になる。とか多くの人に悲しんでもらいたいなら愛される芸人でもいいしアイドルでもいいし俳優女優でもいい。少人数でいいから家族に囲まれて死にたいなら相手を探して結婚して子供を育てればいい。

などなど。どのように死にたいか考えることはどのように生きたいかに繋がる。死ぬことについて考えることは必ずしもネガティブなことではない。逆に死について考えないと生きることの全体像は見えないのかなって。
未来に過度に期待することは挫折や絶望になってしまうかもしれないけど、死は誰にでも訪れるものだからね。生きることの最終形態なんだから夢を持ってもいいんじゃない?

ここ最近、中学生の自殺のニュースを見た。誰かにイジメられてるわけでも、家庭に不満を持っているわけでもないけど将来、今のように幸せでいられるか不安で幸せのまま終わりたいから死んだ。

他人の死に方について何か言えるほど私は人生生きてないし偉い人じゃないけど勿体無いなとは思った。それと同時に羨ましいという感情も湧いたけどね。

その子は死ぬ直前何を思ったんだろう。後悔の気持ちはあったのかな。それとも良い気分だったのかな。私たちは模試とか定期試験とか仕事とかの経験については教えてもらえるけど、死ぬことについての経験は教えてもらえない。

その未知さがあるからこそ魅力的なのかも。


なんかまだ16年しか生きてないガキが偉そうにこんなこと書いてて何がしたいんだと言いたいところだが、もし10年後の私がこれを見たときにどう感じるのか楽しみになってきた。

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