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「アーヤと魔女」世界の悲しみをのぞくまで

私の子供時代、確かに宝物は
春はシロツメクサ、秋はホオズキで、

古くなったお鍋で水をくんで
ご馳走になる食材はいつだって生えていて
お料理だって魔法だって
庭でなんだってできたし
できると思っていたことがあった 

アーヤの思うように、
庭が私の世界だった

でも、摘んだシロツメクサが枯れて
茶色くしおれるのが悲しくて、
それを伝えると
じゃあ摘むのをやめなさいと言われた

私は遊ぶことをやめようと思った
信じたかったことも
そうしたら悲しくなくなる

まだ小さかった頃の私を
周りの大人はそんな風に
とどめようとしていた
母も大人も、
かなしかっただけだと思う

そのあとは学校や図書館で
行ったこともない国の言語や
千年も前の古い書物を知って
代わりに楽しいことがもっとあったけれど、

アーヤのように
世界が自分だけの大切な箱庭だと
思うことはなくなったように思う

宝物に見えたのはただの電気仕掛け
もういらないわ
さよなら あたしのヒーロー

あまい水がわきだす泉に
素足をひたせば
大昔から変わらずにある
ほんとの世界

まるで元気で楽しいことしかないような
この作品の中でも、
アーヤのお母さんの
歌だけが切なく甘く響いていた

いつしか、アーヤが大人になり
雨に冷やされる夜を見つめる時
そんな風に大人を操って遊んだ
かわいい記憶だけが
寄り添ってくれるはずだろう

まさに「設定された」性格ともいうべき
説明的なアーヤの生意気さを、
この作品がもう少し柔軟に
描いてくれていたら
そんなことをもっとゆたかに
想像できたのに、とも思う

3Dで描かれているからこそ
皮膚は作り物のようにのっぺりしていて
目だけがきょろきょろと動いていて
感情をその人の周りの空気と一緒に
読み取るのはなかなかに難しく
まるで新しかった

「したたかである点においては
ジブリのヒロインらしくない」

私は赤毛のアンを思い起こしていた

アンは、マリラに
これまでよくしてもらっていたのか、と
聞かれた時に驚いたように目を丸くした

「よくしてくれようとしていたわ。
親切にするつもりがあったんだもの、
それがわかっていれば
そうはいかないときがあっても
気にはならないもの。
大酒飲みの旦那さんを持つのは
辛いことでしょう?
双子が3組もいたら
大変に違いないだろうって思わない?」
          赤毛のアン

この言葉で、私はアンが色々なことに
耐えてきたことに気がついた

宮崎駿は、アンを媚びない女の子だと
表しているけれど

自分の周りの世界を細かく見て、
育ててくれた人たちに対して
こんな風に理解を示すことができるのは
一種の媚びだとも思う

容姿を貶められるた時とは違って、アンは
言語化できない不条理な怒りは
持とうとしない

対して、アーヤは
小賢しく周りの大人の機嫌をとって
くるくるとお説教をかわしていく姿から
一見媚びているように見えるが
自分が居心地よくなるために
屈したり自分の気持ちを押し殺したりしない

結局のところ、
媚びているはアーヤではなく
アンを含め
ジブリのこれまでのヒロインの方なのだと
気がついてしまった

媚び、つまり抑制された人間 
私もまたそのひとり、とも思う

シロツメクサもホオズキも
まだ、私を待っているのに
まだ咲いている、季節がめぐるたびに
やめたのは私だった

でも、摘むのをやめなさいと
言ってほしかったわけではなかった
私は自分の世界の中心にいた両親に、
なんでも守ってほしかったのだ

枯れないシロツメクサを見せてあげる、と
摘んでも心の痛まない植物を

絶対的な存在だった両親に
私は手渡されたかっただけなのだ

でも、それは相手を困らせるとも気付いていた

アーヤはまだ、何にも抑制されていない、
枯れない植物があると信じている女の子だった


でも、一時的に信じることが、
何になるのだろうとも思う

それが正しいことなのかは
わからない

甘いケーキだけで子どもは育たない

それでも、もしかしたら
その全てを許すために
この作品はあるのかもしれない

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