ロヒンギャ問題に関する個人的なメモ

この所、難民関係の本をまとめて読んでいる。

きっかけはロヒンギャ問題だった。
去年以来、Facebookのタイムラインにやたらとロヒンギャというキーワードを見かけるようになったからだ。迫害され百万規模で難民化しているらしい。そも、ロヒンギャとはなんぞや?

ロヒンギャ(Rohingya)とは、ミャンマーの西部、バングラディシュとの国境沿いにあるラカイン州などを中心に住む人々のこと。「少数民族」と紹介される場合もあるけど公的には民族として認められていない。

外見的にはインド系の色黒で彫りの深い顔つきの人が多く、ベンガル・アッサム語に属するロヒンギャ語を話し、宗教的にはイスラム教徒=ムスリムが多い。

その起源に関しては明確ではない。
かつてラカイン州付近で栄華を極めたアラカン王国がミャウーに都を置いた時代(ミャウー朝1430年-1785年)に、ここを拠点として海上貿易を行ったイスラム商人達の中で定住した者たちの末裔とも、アフガニスタンから傭兵としてアラカン王国に雇われたカマンの末裔とも言われ、また、隣接するバングラディシュのチッタゴン辺りが英国に占領された時に移住してきた人々や、太平洋戦争後、ミャンマーに併合された際に他地域から流入してきた人々が合流した集団とも言われていて定説がない。
(その原因の一つは、自分たちの文字を持たず歴史的な記録がほとんど存在しないこと、ロヒンギャの歴史研究をしている人が少ないことがある。)

アラカン王国が興隆を極めた頃は、仏教徒が大多数を占めるラカイン人とムスリムであるロヒンギャは平和に共存していたらしい。

1785年コンバウン朝ビルマがアラカン王国を併合。多くのロヒンギャたちは当時英領となっていたチッタゴン辺りに避難。
緩衝地帯となっていたアラカン王国が無くなったことでイギリスとビルマが対峙、第一次英緬戦争(1824-1826年)が起こり、アラカン一帯がイギリスに占領されると、チッタゴンなどに避難していたロヒンギャ達とともに、チッタゴン辺りに住んでいたイスラム系ベンガル人もラカイン州に流入する。
この避難民の移動により、共存していた仏教徒とムスリムとのバランスが崩れていく。

1885-1886年に起こった第三次英緬戦争でビルマは完全に英領インドに併合されると、インド一帯からもイスラム系の人々が流入してロヒンギャに合流する。
1942年太平洋戦争で日本軍がミャンマーを占領すると、日本軍は仏教徒のラカイン人の一部を武装させ英国領を、英国軍はロヒンギャなどのムスリムたちを武装化させ日本占領地域を攻撃させた。
このことが、この地での本格的な宗教対立のきっかけとなった。

戦後、1948年にビルマ共和国が正式に独立した際、ラカイン州もビルマ共和国の一部となる。1950年「北アラカン在住ロヒンギャー長老団」名義の当時のビルマ首相宛の手紙が出される。

ここまでなにげに「ロヒンギャ」の語を使ってきたが、歴史上、書物の形でロヒンギャという名称が登場するのは、実はこの時が初めてだったらしい。ここまででも普通に使われてたのか(普通過ぎるから残されてなかった可能性)、それともこの頃になって生まれた名称なのかも不明らしい。
この不明さが、その後差別者に利用される。「あいつらはつい最近になってベンガルから流入してきたよそ者だ、不法滞在者だ。」と。

1962年にビルマ国軍がクーデターで権力を奪い、「ビルマ式社会主義」の名のもとで民族主義的な中央集権を進める。彼らはビルマを「ビルマ民族を主要とする多くの少数民族の集合体」という国家イメージを進めたが、その連帯の軸として選ばれたのは「ビルマ語」と「上座仏教」で、これらから外れる民族は民族として認めず排除するというものだった。ロヒンギャ語を話しイスラム教を信仰するロヒンギャは、民族として認められなかった。

ビルマの国籍法では第一次英緬戦争1823年以前からビルマに住んでいる135民族を正規の「国民」とし、1948年に施行された最初の国籍法に基づいて国籍を申請し取得した人を「準国民」、法律に基づいて帰化した外国人を「帰化国民」に分類している。「準国民」と「帰化国民」は3代たてば「国民」に格上げされる。

しかし、ロヒンギャの人々は「最近になってベンガルから流入してきたよそ者だ」と言われていたし、英緬戦争以前から住んでいたことを証明する資料も残っていないため「国民」としても認められず、と言って他の国の国籍も持つ訳ないから「準国民」にも「帰化国民」にもなれない。宙ぶらりんの状態で「不法滞在者」として放り出されてしまったのだ。

それでも、独立後半世紀ほどは差別はありつつムスリム側もビルマ的に共存していたが、1990年代以降、若いムスリムの中で本来のイスラム的なものへの回帰が強まると同時に、仏教徒側でも排他的な主張をする集団が力を持つようになり、宗教対立が激化し始め、それに伴い、ロヒンギャへの差別・排除も激烈化していく。

1988年のアウン・サン・スー・チーらに民主化運動に多くのロヒンギャも協力したが、それにより軍政府から弾圧を受ける。

1991-1992年、1996-1997年には、迫害を逃れてバングラディシュへの大量の難民が避難する。それにより、バングラディッシュ内でも様々な問題が起きる。

2012年6月、大規模な衝突が起き200人以上の死者が出たがそのほとんどがロヒンギャだった。さらに13万~14万人のロヒンギャが住処を逐われた。

2016年10月9日、ラカイン州で武装集団の襲撃があり、警察官9人が殺害された。当局はロヒンギャの組織によるとしてミャンマー軍のよる派掃討作戦が行われたがこの作戦により多くのロヒンギャが殺され、レイプされ、家を焼かれ、略奪されたという。
この時暗躍した組織は、実際には外部から流れてきた組織で、ロヒンギャの若者を先導してテロを起こさせたらしい。

これらのたびに何万人規模の避難民が発生している。歴史をちょっと紐解くだけでこれだ。
ちなみにこの文章はどちらかというとロヒンギャに同情的に書いているが、彼らを迫害する側にも当然正義があるはずで、そういう意味ではこれも偏った情報なのだが。

宗教の問題、人種の問題、言語の問題、文化の問題、様々な問題が複合していて解決の糸口がはっきり言って見えない。解決の手段が見えない中で、どんどんと人が迫害されて殺されているわけでなんとももやもやする。

(でも何よりもやもやするのは、これだけ情報を見ても、その人達自身の姿が見えてこないことだ。
見たいわけではない。でも、見えてこないのはおかしい。ラベルだけは見える。ラベルへの典型パターンも見える。でも、それが貼られた当の本人が見えないのは情報に偏りがあるからだと思う。)

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