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幸せについて本気出して考えてみた

非常にシンプルに
幸せ=自分にとって良い気持ち
として話を考えていきたいと思う。
色々な学問でも幸福というテーマはあるように人が非常に興味がある分野である。
今回は哲学寄りの視点で考えようと思う。

哲学科の恩師の講義で習った事ですが
"happy=幸福"の語源は
"happening=起こる事"
起こる事であるので"自ら起こすこと"ではない。
幸せは、独りでは起きない。
中島みゆきの「糸」の歌詞で
”逢うべき人に出会えることを
人は仕合せと呼びます”なんて言ったりする。
幸せとは仕合せるものであり巡り合わせと言う。
(実際に幸せの語源も仕合せである)
幸せは自分独りで起こりうるものでない
僕自身もそう基本概念として思っている。

では幸せに巡り合うためにはどうすればいいのだろうか?
非常に俗物的な言い方になるけども
試行回数がものを言う気がする。
この幸せを人生的な、恋愛的な、仕事的な
読み手の方々にとっての意識する幸せに
置き換えて頂いて構わないと思うけど
いずれにしても試行回数が増やさなければ
幸せには巡り合わないと僕は思う。
運が良い人にとっては関係のない話だと思うけど
理想の環境やモノというのは
中々巡り合うものではない。
恋愛で言う"白馬の王子様"なんてのは
いないし待ってばかりは効率が悪い。
じゃあ掴み取るには自分で動くしか無いし
試行回数を増やすしかない。

けど人は"ちょっと良いもの"に出会うと
それが自分の幸せだと思う。
それで幸せのまま終えるのであれば
結構だと思うがそうは中々いかないと思う。
これが自分にとっての幸せなんだと
自らを納得させようとする。
きっとそれも正解の一つだと思う。
けど本当の幸せを目指すなら
きっと視野を広げてもっと可能性を見るべきなのだろうか。
きっとその人にとっての幸せの形はある。
しかしどこに転がっているかわからないから
回数はこなすべきだと思うし
色んな方向を見るべきだと思う。
自分の見ていなかった方向に幸せが転がっていた
なんて話はままあるから。
自分を納得させず心の底から
幸せだと言えるようになりたいもので。

では幸せはどう掴み取るべきなのだろう?
幸せという単語を聴いて"掴み取る"という
言葉が出てくる人は少なくないと思うけど
掴み取るというのは非常に主体的で
冒頭の前提と相反して非常に自力的なものである。
その上で幸せを掴む力をどうつけるのか?
そもそも掴むとはなにか?を
見つめなおすのが我々の大事な課題かと思う。

あまり長々と書くと脱線するのであれですが
哲学において「愛」というテーマがある。
多くの宗教や時代であっても
この「愛」というやつは手にするものではなく
与えてこそ真、無償のものであるという話が多い。
人に貰ってばかりの"テーカー"になるな
というような話もありますが
この与える姿勢こそが幸せにおいては大事なのかなとも思ったりする。
"情けは人の為ならず"って言葉もある。
(与えて返ってこないなんて事は多いけどそれは置いといて)
何かを得ようと必死になっている人ほど
手に入らないなんて事はままあるし

与えようとする姿勢だったりが
結果的に所作として余裕を感じさせるようになり
色々なものを手にするのかもしれない。
また与える行為そのものに
幸せを感じられるようにすると
消費をするよりも精神的コストパフォーマンスが
実は良いのかもしれない。

ジョジョの奇妙な冒険第7部SBRより引用。
余談ですがSBRはキリスト教的テーマや示唆に
重きを置いていて非常に面白い。

・幸せは起こるものであり独りでは起こし得ない。
・幸せに巡り合うには試行回数を上げる。
・何かを与えることに幸せの気持ちを置く事が出来ればそれが精神的コスパが良いのかもしれない。
そんな話でした。
次は日本で一番自殺率が低いけど、うつ病の受診率が高い海部町の話を引き合いに、幸せについて社会学的にスケ的に考えてみようと思います。
最後にタイトルの元となったポルノグラフィティの曲の歌詞を一部抜粋。

幸せについて本気出して考えてみたら
いつでも同じ所に行きつくのさ
君も幸せについて考えてみてよ
後で答え合わせしよう 少しはあってるかなぁ?

つまんない事 嬉しい事 繰り返して結局
トータルで半分になるってよく聞くじゃない?
そんな淋しい事 言うなよって感じだ どうにか
勝ち越してみたい 密かに全勝狙い。

ポルノグラフィティ
「幸せについて本気出して考えてみた」

冒頭の画像の球磨川が聴いたら
どう思うんだろう?

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