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明日のことさえよくわからないのに、自分の幸せな老後は思い浮かべられる。

可愛い孫にお年玉あげたいと常々計画していて、どこか企業勤し始めたら、お年玉貯金を始めようかしらと思っているが、どこにも勤めてないし、借金がある。

幸せな未来も、やってしまった過去の失敗も、悉く現在の中にある。

現在という刹那を過ごすために、幸せな未来を思い描いては、現実に辟易とし、失敗した過去を思い返しては、現在の方がまだマシだと安心する。

ビールを飲みながら、これを記している。今まで記し溜めた駄文群も、過去のものではない。現在の中に内包される過去である。

歴史を勉強するときにつくづく思うのは、現在的な見方でしか、歴史を振り返られないということだ。

歴史は過去のものであるが、それを見る私は現代的なものの見方でしか、過去をみれない。

過去を理想化して、現代に有用そうなものを評価するという本がいくつあるだろう。生類憐みの令を出した綱吉が、動物愛護の観点で評価できるだろうが、当時の人からしたら馬鹿将軍だろう。

過去の思い出に浸るときは、大体現在がうまく行ってないときである。

彼女がいない現在、彼女がいた過去を理想化するが、当時の方が大変のような気がする。

純粋なる過去も理想の将来も、しょうもない現在を捨てられない。

できることから少しずつ。刻々と過ぎる現在に、そう立ち向かうしか術はない。

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