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映画「IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。」2019年アメリカ

映画「IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。」2019年アメリカ

本作の原題は "IT : Chapter Two"。
スティーブン・キングの原作小説では並行して描かれていた、前作から27年後の物語です。
正式な続編であり、完結編でもあります。
前作を見ていない方は、完全ネタバレになっていますので、注意してください。

前作で13歳だった「負け犬クラブ」のメンバーたちも、すでに40歳となり、デリーの街を出てそれぞれの人生を送っています。
映画の冒頭は、前作のキッズたちの、誰がどの大人になっているかを整理するのに、少々戸惑いました。
Amazon プライムで続けて見てもそうでしたから、本作を見ようという方は、前作をサラリと復習してから観ることをお勧めします。

本作について語るには、やはりどうしても前作のラストは触れなければならないでしょう。
キッズたちの奮闘で、深い井戸の底に転落していったペニーワイズ。
彼らは、自分たちが力を合わせれば、ペニーワイズを撃退できることを身をもって体験しました。
そして、もし27年後、ふたたびペニーワイズが、デリーの街の子供たちを襲い始めたら、どこにいても集まろうと誓い合います。
全員が手のひらをガラスの破片で切り、その手をつなぎ合います。

そして、27年後。(2016年)

ついに、デリーの街にあの悪魔が帰ってきます。
映画の冒頭の最初の惨劇は、ちょっと意外でした。
襲われるのは、前作同様、子供なのかなと思っていたら、れっきとした大人のゲイのカップルでした。
お祭りの最中に、人ごみの中で、キスなんかもしていましたから、完全に今時のアメリカです。
しかし、こういうカップルを、毛嫌いして、暴力的になるのも今時のアメリカ。
二人は、そんな暴徒たちに襲われて、一人が川の中に突き落とされてしまいます。
そして、その彼を救いに行った男が川辺で見たものは、水からすくい上げた相方に、かぶりつくペニーワイズの姿でした。

この冒頭のシーンは、実際に1984年にメイン州であったヘイトクライム事件がモデルになっているそうです。
この事件に、衝撃を受けたスティーブン・キングは執筆中だった小説にさっそくり入れます。
また本作のアンディ・ムスキエティ監督も、このシークエンスの重要性を認識して、映画の冒頭で、あえて事件通りにシーンを再現しています。
ちなみに、原作小説では、「負け犬クラブ」のメンバーのリッチーとエディが同性愛の関係が明らかになるクダリがあるそうです。(AIリサーチ)
しかしこちらは、映画では、明確には描かれていません。

事件を聞いて、現場に向かったのは、「負け犬クラブ」のメンバーのマイクでした。
他のメンバーはみんな街を出ているのですが、彼一人だけは、街に残っていました。
マイクは、食いちぎられた死体が残されていた現場の、橋桁に大きく書かれた文字を見て、愕然とします。

"Come Home ! Come Home !"

それは、再び現れたペニーワイズから、「負け犬クラブ」への挑戦状でした。
マイクは、少年時代に誓い合ったことを胸に、メンバーに連絡を取ります。

「すぐに街に戻れ。」

それが何を意味しているかを、メンバーたちはすぐに理解しました。
こうして、今は40歳になったかつての「負け犬クラブ」のメンバーたちは、ペニーワイズとの決着をつけるために再びデリーの街に戻り、再会を果たします。

さて、前作は、キッズたちと、ペニーワイズの死闘を描いた冒険活劇ホラーでした。
いじめ問題も背景に織り込んだ、辛口のジュブナイル映画として成功したわけです。
しかし、本作では、40歳になろうという、れっきとした大人たちを主人公にしているわけですから、さすがにジュブナイルというわけにはいきません。
そこで、ホラー映画という体裁を取りながら、本作がベースとしたテーマは、メンバーそれぞれの、人生のトラウマとの対峙です。
それぞれが抱えた問題や悩みをペニーワイズは熟知しています。それが彼の好物なんですね。
メンバーたちは、ペニーワイズと戦いながら、同時に自分自身の人生とも決着をつけることを余儀なくされていくわけです。

これを、メンバー7名全員(スタンリーのみは集合前に自害)、ひとりひとり丁寧に描いていくので、本作の上映時間は、169分もの長尺になりました。
本作には、キッズ時代のフラッシュバックも多用されるので、前作のキャストは、回想シーンでそのまま全員登場します。


さて、今更ですが、ペニーワイズです。
この殺人ピエロを演じたのは、スウェーデン俳優のビル・スキャルスガルド。
特典映像で、彼自身が語っていましたが、彼には2つの顔芸があるんですね。
1つはあの下唇。
ちょうど、あのアントニオ猪木がファイティングポーズをとって、「このヤロウ。」と言うときのあの下唇です。
素顔であれをやると、普通にギャグになってしまいますが、ピエロのメイクをした後で、あの唇でニタリと笑われると、身の毛がよだつ顔になるから不思議です。
そしてあのよだれ。あれもポイントの高い恐怖演出でした。
それからもう一つはあの黒目です。彼はスウェーデン人ですから、正確には青目ですね。
いわゆる瞳孔のことです。
彼はあの部分を左右別々に動かせる特技があると語っていました。
瞳孔は通常は連動して動くようになっているものですから、確かに別々に動かれるとドキリとします。
恐怖演出の鉄則の1つとして、「モンスターには、見たことのない異常な動きをさせる」と言うものがあります。
もちろん、最新のCG技術を駆使すれば、眼球位はいかようにも動かせるのでしょうが、やはり生でやられると怖いものです。
ビルは、この2つの顔芸を上手にミックスさせて、なんとも不気味なペニーワイズ像を構築していました。
監督の話によれば、よりリアルな恐怖のリアクションを出演者たちからゲットするために、撮影現場では、ピエロのメイクをしたビルを、隔離していたそうです。

本作のクライマックスでは、ペニーワイズは完全にクリーチャー化してしまいました。
ああなってしまうと、個人的には、もはやホラー映画という気がしません。
それよりも、むしろ、ゴジラやキングコングのようなモンスター映画として楽しむ方が、この映画は正解かもしれません。
ちなみに、映画でははっきりと言及されていませんが、原作の小説の中では、ペニーワイズの正体は、異星人と明かされています。
これも、スティーブン・キングの圧倒的な筆力で、読者を納得させてしまうのでしょうが、映画でこれを描かなかったのは賢明な判断だったと思います。
小中理論によれば、恐怖演出のもう一つの原則は、「モンスターは得体が知れないほうが怖い」です。
正体がわかってしまうと、恐怖というものは半減してしまうものです。

かつて、ペニーワイズと戦った、とある部族の儀式を行うために必要な、それぞれの思い出の品を探しに、メンバーは、デリーの街を彷徨します。
(このシークエンスには、古道具屋の店主としてスティーブン・キングも登場)


そんな彼ら一人ずつに、ペニーワイズは、その傷口をえぐり出すようなエグい方法で、容赦なくおそいかかります。
何とか思い出の品をゲットしたメンバーは、再び集合し、ペニーワイズとの決戦に挑むというのが本作の展開。
少年の日に深く心に刻んだ誓いは、大人になった彼らの胸にも脈々と息づいていたというわけです。

ホラーシーンの解説を文章でするほど野暮なことはないと思いますので、これはもう見てもらうしかありません。
もちろん、新しい恐怖演出のアイデアが斬新であればあるほど、そのホラー映画の評価はあがるもの。
しかし、これだけ星の数ほどのホラー映画が世に送り出されていると、そうそう斬新なアイデアが出てくるものでもありません。
そこで、旧作のアイデアを上手に加工して、再利用するという手法が増えてくるのはやむを得ないところ。
本作もその点は例外ではなく、古今東西のホラー映画のアイディアを、これでもかと詰め込んできましたね。
僕のようなクラシック映画ファンにとっては、元ネタが思い当たるたびに、いちいちニンマリさせられてしまいます。
これをパクリだなどという野暮なことは言いません。元ネタ探しという楽しみ方も、映画にはあると思っています。
監督のアンディは、よほどのホラー映画マニアだと推察します。

元ネタ探しは、気がついただけでも以下の通り。

シャワー室で襲われて、カーテンのリングが外れていくと言うカットは「サイコ」。
腹部に、文字が現れていくのは「エクソシスト」。
壊れた扉から顔をのぞかせるのは「シャイニング」。("Here's Johnny!"といってました)
鏡の部屋での追いかけっこは、「上海から来た女」。ブルースリーの「燃えよドラゴン」のラストもこれでした。
こちらを向いている手前の人物の、ずっと奥の方で、画面を横切る怪しき物陰。(あの老婆の異様な動きにはゾゾ)
これも意外と怖いのですが、これは清水崇監督が好きなやつです。
ジャパニーズホラーでよく見かける演出ですね。
「死霊のはらわた」のサム・ライミ監督テイストは数知れず。
大小様々なクリーチャーやゾンビとの肉弾戦は、もはやアメリカンホラーの王道です。
ジャパニーズ・ホラーでは、幽霊は現れては消えるの繰り返しで、接触バトルはほぼありません。
しかし、アメリカン・ホラーでは、そこはガチンコの肉弾戦が展開されるので、主人公たちはみんなボロボロ。

フィジカルでも、メンタルでも、激しい消耗戦を展開したのち、もちろん、ペニーワイズは彼らに息の根を止められます。
そうならなければ、この映画が終わらないことも理解できます。
「正義は勝つ」のハッピーエンドは、アメリカ映画では鉄板のお約束です。

しかし、ここからは個人的感想。

見終わってみると、本作に、やたらと登場する「殺せ。殺せ。」コールが、やたらと気になってしまったんですね。
怪物に立ち向かう6人もそうです。「ぶっ殺す」を連発して荒っぽいことこの上ないというのが正直な感想。
相手が「得体の知れない怪物」ペニーワイズであってもです。
正義さえ背負っていれば、悪い奴はぶっ殺して構わないと言うアメリカ的モラルが、かなり強烈に滲み出ている気がしました。
おそらく、そういう結末にしないと、ファンは納得しないのでしょう。
でも「平和で温厚な」日本の百姓からすると、もっとスマートのやり方はないものかいなと思ってしまいます。
とにかく最終的には、彼らに葬られることになるペニーワイズですが、あれほど憎々しかった彼が、最後は可哀想になるほどでした。

ペニーワイズを仕留めるまでのたたみかける盛り上げ方は、さすがハリウッド映画と感心します。
しかし日本人の感性としては少々ズレを感じるんですね。
自分が平均的日本人と言うつもりもありませんが、主人公たちにも、いくばくかの怖さを感じてしまいました。
映画の冒頭、映画の脚本家になっていたビリーが、用意したバッドエンドを監督に拒否されるくだりがあります。
ビリーは、それを渋々リライトさせられるわけですが、映画を見終わってみると、このシーンが妙に印象的に残っていました。

本作は、大人になっても続く、変わらぬ友情の物語でもあります。
これもアメリカ人が大変好むテーマです。
映画の最後で、マイクがビリーに、ちょっと言いよどんでから告げますね。
「アイ・ラブ・ユー、マン」
もちろんビリーもそれに答えます。

中学三年の時、当時のクラスメイトたちと別れ難く、サイン帳を交換しあって、しばらくはそれを宝物のように持っていました。
映画の中で、ベンのサイン帳には、ベバリーのメッセージしか残っていませんでしたが、こちらにはそれがビッシリ。
僕は、自分に回ってきたサイン帳には、全てこう書きました。

「XXXX年X月X日の日曜日の午後一時。日比谷公園の噴水前で会いましょう。」

もちろん、そんなことは書いた本人さえ忘れていたのですが、このXデイが近くなったある日、偶然このサイン帳を読み返したんですね。
そのサイン帳の最後のページには、自分で書いたXデイのメモが残っていました。
中学卒業からすでに10年経っていましたから、こちらもいい大人です。
まさかこれをまともに覚えてる人はいないだろうとは思いましたが、さすがに言い出しっぺとしては気になります。
結局、このXデイに、僕は、日比谷公園の噴水前に行くことにしました。
結果は・・・

もちろん、そこにはかつてのクラスメートは、一人も現れませんでした。
しかし不思議なことに、僕自身はそれが悲しくも、寂しくもなかったことだけは覚えています。
その時に僕の脳裏をかすめたセリフが、きしくも、本作の最後で、ペニーワイズが言ったセリフと同じだったんですね。

「おまえたちも、大人になったよな。」

この映画のヒットのせいで、ピエロを怖がる子供たちが増えたそうです。
しかし、それほど心配することはありませんよ。
君達も大人になれば・・・

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