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粟ぜんざい日記

好きな小説家さんが取り上げた
「粟ぜんざい」が食べたくて旅に出た。

花形(だと思っている)クリームあんみつと比べたらシンプルな、紫・黄色2色のおぜんざい。

約6時間の旅に出てしまう、不思議な魅力を放っていた。


私と粟との出会いは7年程前に遡る。
近所にオープンした、お姉さんが1人で営む料理店で出てきたのが「もち粟のコロッケ」だった。

中学3年生だった私は「粟」なんて日本史でしか聞かない単語だったので、耳に届いた音は変換できず

——"もちあわ"って何!?

状態。
何か柔らかいものだなと受け取った。


カウンターから出てきたのは、まん丸のコロッケがのった定食。
淡色が基調の、器から料理まで神経が届いているような御膳だった。

音楽のない店内と
口下手なお姉さんが相乗して妙な緊張感が漂う。

意を決して揚げたてのコロッケに箸を落とすと、
そのスピードは予想以上に遅かった。
断面からぷちぷちが顔を出す。

集合(パン粉)と集合(粟)がタッグを組む様に違和感を覚えたけれど、好奇心と空腹に逆らえず、口へ放り込む。
あのやさしい食感は今も忘れられない。

薄い衣を破れば穀物の弾ける音がする。
でもそれは極めてささやかなもので、すぐモチモチに包まれる。

擬音語でしか表せないのが不甲斐ないけれど、とにかく経験したことのない感覚だった。

不運なことに、そのお店は気まぐれの完全予約制に変わってしまい、その後訪れることのないまま、私は地元を離れた。
時を経るほど、あの時の食事体験が輝きを増していく。

そういうわけで、SNSに上げられた「粟ぜんざい」の文字が一層輝いて見えたのだ。


お目当ては神楽坂にある「紀の善」。
皇居周りの”綺麗な東京”は縁遠いものだったので、折角ならと目的を追加した。
それが東京国立近代美術館の「民藝の100年」という展示だった。

通常、メインを「鑑賞」にする私にとっては異例中の異例。
「粟ぜんざい」への想いの強さが窺える。

すでに長々と書いてしまったから展示の感想(充実だった)は先送りにして、今日のメインに飛ぶ。
足には鑑賞の思い出という名の疲労が溜まっていた。


暖簾の先には夫婦が順番を待っていた。

——ああ、まだ辿り着けないか

と立ち止まると、

「一名様、先どうぞ」

と声が掛かった。
夫婦に会釈をしてカウンターに座る。
注文はとっくに決まっていた。


「お待たせいたしました」

その声と一緒に届いたものを夢にまで見た。

梅が描かれた蓋を取る。
湯気が上がって、その流れをすんと吸い込んだ。

割り箸を割って紫と黄を持ち上げれば、補色がキラキラと光る。
粒が持つ広がりを思うと心拍数が上がる。

口へ入れれば温かい粟の香りが広がった。
素朴で、でももっちりとぷちぷちを兼ね備えていて甘いこし餡と一緒になっても負けることはない。
粟の食感と餡の滑らかさの対比が楽しくて箸が進む。

しばらくして甘さに染まれば塩昆布に手を伸ばし、口内に塩分が広がったところにまたぜんざいを放り込む。時には緑茶を挟んだり、粟だけを掬ったり、
そうこうしている間にお椀は殻になった。

甘い余韻に浸りながら、これは書き起こさないとと思った。

箸を置いて、手を合わせる。
何とも幸せなひと時だった。


かくして7年間温め続けた「粟」への想いは達成されたのだが、帰りの電車でふと思った。
「粟」と「もち粟」って何が違うのだろう、と。
検索すると種が異なるようだったが、如何せん2つを食べ比べたことのない私は「粟ぜんざい」にどちらが使われているのか分からない。
もっちりしていたけれど「粟」と言っているし、けれど色味はかなり濃いと思うし……(うるち粟の方が黄色いらしい)。

答え合わせの名の下に、また食べに行こうと目論んでいる。


あの食感と甘さを思うと、自分にやさしくしようと思う。
ストレスで過食して、その罪悪感を消すためにまた食べてしまうような周期を越えられる気がする。どれだけ刺々していても、あのあと体に入れるものはやさしくなければと思い始めてしまうのだ。

東京に忘れられない味ができたことがこんなに嬉しいとは知らなかった。
「粟ぜんざい」は、これからも大事な食べ物になるだろう。


初めて食べ物についての文章を書いたけれど、美味しさは伝わっているだろうか。
好きな小説家さんならこれをどう言葉にするのだろう。
昔の話と今日の体験。いつかもう少し綺麗に繋げたいなと思う。


今日はここまで。
読んでくださった方、ありがとうございました。

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